新約聖書における七十人訳引用 マタイ福音書その9

24:15 ここの長尺は本当にイエスが語ったのかどうか

「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、
聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)」
ダニエル書9:27「彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。
そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。
また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。
こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」
11:31「彼から軍勢が起って、神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、
荒す憎むべきものを立てるでしょう」
12:11「常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、
千二百九十日が定められている」

マタイ「βδέλυγμα τῆς ἐρημώσεως
ダニエル書「βδέλυγμα τῶν ἐρημώσεων
「荒らす憎むべきもの」
「βδέλυγμα」は「冒涜する」という意味。

名指しで旧約聖書を引用しているのはここだけである。ダニエル書を聖句として引用しているのもここだけ(もう一箇所匂わせてる箇所はある)。

ダニエル書9:22-26は「ダニエルよ、わたしは今あなたに、
知恵と悟りを与えるためにきました。
23 あなたが祈を始めたとき、み言葉が出たので、
それをあなたに告げるためにきたのです。
あなたは大いに愛せられている者です。
ゆえに、このみ言葉を考えて、この幻を悟りなさい。
24 あなたの民と、あなたの聖なる町については、
七十週が定められています。
これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、
不義をあがない、永遠の義をもたらし、
幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。
25 それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、
メシヤなるひとりの君が来るまで、
七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。
その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、
建て直されるでしょう。
26 その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。
ただし自分のためにではありません。
またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。
その終りは洪水のように臨むでしょう。
そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています」
という、天使ガブリエルによるとされる予言の一部。

ダニエル書のこれらの箇所を本当にナザレのイエスが引用していたのなら、メシヤでありキリストであると称する彼は「断たれるでしょう」なので、処刑される覚悟はあった、と考えてもいいのかも。またマルコ13:14でもイエスの言葉としてこの箇所が使われている。礼拝における犠牲をパンとワインにまとめた根拠を「犠牲と供え物とを廃するでしょう」に求めたりもしたか?

さて、ではこの長尺は本当にイエスが語った言葉なのか。マルコとルカにもこの下りはあって、ダニエル書からと思われる引用もある。しかしマタイに比べると大分尺は短く、またダニエルの名前も出てはいない。
加えてこの長尺は、エルサレム神殿が崩壊した後に書かれた偽預言と疑われる(イエスの口を借りた)言葉の直後に書かれてもいる。
マルコでは地の文だった箇所がマタイではイエスの言葉になった、という例も先程あった訳で、福音記者は結構気軽にイエスの言葉を創作してもいる。
もっと身も蓋もない事を言えば、識字も怪しい直弟子達がこのダラダラした下りを一言一句覚えてられたかという話で…まあ、でも断言はできない。

11:31はかなり長い箇所の一部。
32-34「彼は契約を破る者どもを、巧言をもってそそのかし、
そむかせるが、
自分の神を知る民は、堅く立って事を行います。
33 民のうちの賢い人々は、多くの人を悟りに至らせます。
それでも、彼らはしばらくの間、やいばにかかり、火に焼かれ、
捕われ、かすめられなどして倒れます。
34 その倒れるとき、彼らは少しの助けを獲ます。
また多くの人が、巧言をもって彼らにくみするでしょう」
は、イエスが十字架にかかった後に弟子たちの指針ともなった可能性も。
でもイエスの直弟子は識字出来たかなぁ…?伝承(設定?)は漁師とかだし。

12:11は「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。
この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。
10 多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。
しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、
賢い者は悟るでしょう。
11 常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、
千二百九十日が定められている。
12 待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです。
13 しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、
定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」
の一部。

荒らす憎むべきものがやって来て大体四年足らずもすれば世の終わりが来るのだそうな。十字架の後にエルサレムが陥落させたローマ軍を「荒らす憎むべきもの」と解釈した人もいただろうし、そんな彼らがもうちょっとで世界が滅ぶと考えたとしてもおかしくない。もちろん世の終わりなんて来なかったのだけど。

24:29 イエスも時々概略引用はしているけれど

「しかし、その時に起る患難の後、
たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、
星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう」
イザヤ書13:10「天の星とその星座とはその光を放たず、
太陽は出ても暗く、月はその光を輝かさない」
バビロンが滅亡する様を描いた予言(…とされるが、おそらく滅亡した後に書いた予言もどき)の一部。
および
イザヤ書34:4「天の万象は衰え、もろもろの天は巻物のように巻かれ、
その万象はぶどうの木から葉の落ちるように、
いちじくの木から葉の落ちるように落ちる」
から来ているらしい。ここも直接引用ではない。

マタイでは24:32「いちじくの木からこの譬を学びなさい。
その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる」
と続くが、意識していたかどうか。

24:30 この長尺にはイエス(あるいはその語録)特有のほぼ正確な引用が一つもない

「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。
またそのとき、地のすべての民族は嘆き、
そして力と大いなる栄光とをもって、
人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」
ダニエル書7:13-14「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、
見よ、人の子のような者が、
天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。
14 彼に主権と光栄と国とを賜い、
諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。
その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、
その国は滅びることがない」
…の引用であるとは語っていないが、ここから来ているとの事。

この長尺は本当にイエスの言葉だったか…どころか、福音書以前の語録にあったかどうかと思ってしまうもう一つの理由が、今まではイエスの言葉ではかなり正確に引用されていた七十人訳がここではいい加減になっている事。

実の所、ここから後には正確な引用は一つもなかったりする。…となると、エピソードの存在自体から疑った方がいいのかもしれない。

26:11 この下りって本当に存在したの、という発想は今までしてなかった。色々な人が頑張って解釈してる所

「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、
わたしはいつも一緒にいるわけではない」
申命記15:11「貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、
わたしは命じて言う、
『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、
貧しい者とに、手を開かなければならない』」
直接引用ではない。文脈も全然違う。

申命記15は「1 あなたは七年の終りごとに、
ゆるしを行わなければならない。
2 そのゆるしのしかたは次のとおりである。
すべてその隣人に貸した貸主はそれをゆるさなければならない。
その隣人または兄弟にそれを督促してはならない。
主のゆるしが、ふれ示されたからである」
とあるように、七年ごとに債権をチャラにしなければならないという規定からの下りで、
9-10「あなたは心に邪念を起し、
『第七年のゆるしの年が近づいた』と言って、
貧しい兄弟に対し、物を惜しんで、
何も与えないことのないように慎まなければならない。
その人があなたを主に訴えるならば、あなたは罪を得るであろう。
10 あなたは心から彼に与えなければならない。
彼に与える時は惜しんではならない。
あなたの神、主はこの事のために、あなたをすべての事業と、
手のすべての働きにおいて祝福されるからである」
と、七年目でチャラになるからといって貸すのを惜しんではならないという文脈。

一方マタイでは26:8-9「すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、
「なんのためにこんなむだ使をするのか。
9 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」」
という弟子の問いに対して、
10-13「イエスはそれを聞いて彼らに言われた、
「なぜ、女を困らせるのか。
わたしによい事をしてくれたのだ。
11 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、
わたしはいつも一緒にいるわけではない。
12 この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、
わたしの葬りの用意をするためである。
13 よく聞きなさい。
全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、
この女のした事も記念として語られるであろう」
と答えている。

つまり貧しい者に心から与えねばならないように私への葬礼も心から与えねばならない、と言いたいのだろうか。あるいは逆に、この女が私に心から葬礼を与えたように、弟子のお前らも貧しい者に与えよ、口だけでなく、とも言いたかったりしたのか。

…考えてみれば弟子たちが身銭を切ってるわけじゃないなここ。

26:31 イエスの実在は限りなく確定に近いらしい。しかし十字架は

「そのとき、イエスは弟子たちに言われた、
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。
『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、
書いてあるからである」
ゼカリヤ書13:7「万軍の主は言われる、
「つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。
わたしの次に立つ人を攻めよ。
牧者を撃て、その羊は散る。
わたしは手をかえして、小さい者どもを攻める」
マタイ「Πατάξω τὸν ποιμένα, καὶ διασκορπισθήσονται τὰ πρόβατα τῆς ποίμνης」
「わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう」
ゼカリヤ13:7の七十人訳は「ῥομφαία ἐξεγέρθητι ἐπὶ τοὺς ποιμένας μου καὶ ἐπ' ἄνδρα πολίτην μου λέγει κύριος παντοκράτωρ πατάξατε τοὺς ποιμένας καὶ ἐκσπάσατε τὰ πρόβατα καὶ ἐπάξω τὴν χεῖρά μου ἐπὶ τοὺς ποιμένας 」であり、ほとんど被っていない。これも概略引用か。

ゼカリヤ書9-14章における世の終わりに関する予言からの抜粋。牧者がイエスで羊が弟子である、と言いたいのであろう。そして実際に弟子たちは一旦逃散する事となった。

26:64 本当に処刑されたの、という事から疑わないといけないらしい

「イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。
しかし、わたしは言っておく。
あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、
天の雲に乗って来るのを見るであろう」」
詩篇110:1「主はわが主に言われる、
「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、
わたしの右に座せよ」と」
ダニエル書7:13「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、
見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、
日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた」
先に引用した二箇所を参照せよとの事。詩篇の方は割と正確な引用で、ダニエル書の方は控えめに言って概略だった。

前の部分でも自分とメシアを同一視していて、弟子に語った7:13はともかく、パリサイ人に語った詩篇110の引用では彼らは黙り込んだのだけど、何故かここでは大祭司がブチギレる。裁判の場で言ったのがまずかっただろうか。あるいは26:51で「すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した」上でのこの発言でふざけんな、となったか。

この後他のエルサレム住人もノリノリでイエスを十字架に吊るす展開は知っての通り。しかし本当に処刑されたかどうかに関しての史料は見つかっていない。ある程度七十人訳を正確に引用しているイエス(のものとされる)言葉の時点で自分は律法を超越する存在でキリストだと言い張っているので、まあ命は危ないだろうとは思われるけれど。
大祭司の僕の耳を切り落とすくだりはマルコの時点で存在し、四福音書で書かれている。ルカでは切られた人がイエスに癒やされ、ヨハネではペテロ自身が剣を取って耳を切った事になっている。仮にイエスの教団が何かある度に剣を振り回すような連中であったなら最終的にイエスも処刑されても全然不思議ではない。イエス自身が法に抵触してなくても当時は法治主義なんて存在してなかったし。
…それと、仮に十字架に吊るされてなかったらパウロがあんな執拗に強調はしないか。と、こんな感じで状況証拠は揃ってはいる。

27:9-10 マタイのやらかし

「こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。
すなわち、 「彼らは、値をつけられたもの、
すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、
10 主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、
その金を与えた」」
マタイのやらかしとして知られる箇所。エレミア書にはこんな記述は一切ないのである。

ゼカリヤ書11:12-13「「あなたがたがもし、よいと思うならば、
わたしに賃銀を払いなさい。もし、いけなければやめなさい」
と言ったので、彼らはわたしの賃銀として、銀三十シケルを量った。
13 主はわたしに言われた、
「彼らによって、わたしが値積られたその尊い価を、
宮のさいせん箱に投げ入れよ」。
わたしは銀三十シケルを取って、
これを主の宮のさいせん箱に投げ入れた。」
に頑張って比定する向きもあるが見ての通り無理がある。というか、ならばゼカリヤと書くだろう。

一応ギリシャ語も書いておく。
マタイ「τότε ἐπληρώθη τὸ ῥηθὲν διὰ Ἰερεμίου τοῦ προφήτου λέγοντος· Καὶ ἔλαβον τὰ τριάκοντα ἀργύρια, τὴν τιμὴν τοῦ τετιμημένου ὃν ἐτιμήσαντο ἀπὸ υἱῶν Ἰσραήλ,
10 καὶ ἔδωκαν αὐτὰ εἰς τὸν ἀγρὸν τοῦ κεραμέως, καθὰ συνέταξέν μοι κύριος」
ゼカリヤ書「καὶ ἐρῶ πρὸς αὐτούς εἰ καλὸν ἐνώπιον ὑμῶν ἐστιν δότε στήσαντες τὸν μισθόν μου ἢ ἀπείπασθε καὶ ἔστησαν τὸν μισθόν μου τριάκοντα ἀργυροῦς
13 καὶ εἶπεν κύριος πρός με κάθες αὐτοὺς εἰς τὸ χωνευτήριον καὶ σκέψαι εἰ δόκιμόν ἐστιν ὃν τρόπον ἐδοκιμάσθην ὑπὲρ αὐτῶν καὶ ἔλαβον τοὺς τριάκοντα ἀργυροῦς καὶ ἐνέβαλον αὐτοὺς εἰς τὸν οἶκον κυρίου εἰς τὸ χωνευτήριον」
「τριάκοντα ἀργύρια(銀三十枚)」しか重なってない。

27:46 ここだけギリシャ語ではないのはリアリティがある、ような

「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。
それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
という意味である。」
詩篇22.1「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」より。
マタイにおける発音は「エリ・エリ・レマ」がヘブライ語、
「サバクタニ」がアラム語なのだとか。

なおこの詩篇22は21まで泣き言が続き、22から賛美に入る。
20-23「わたしの魂をつるぎから、
わたしのいのちを犬の力から助け出してください。
21 わたしをししの口から、
苦しむわが魂を野牛の角から救い出してください。
22 わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、
会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。
23 主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。
ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。
イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。」
がこんな感じ。賛美するから助けてくれ、という詩かなこれ。

イエスの末期として知られる箇所だが、この台詞を採用しているのはマルコとマタイだけ。マルコの方では「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と微妙に発音が異なっている。

24章から最後まで一気に行ってしまったが、実の所ここにはイエスの言葉に見られた七十人訳のだいたい正確な引用が一つも無かったりする。こうして実際に比較してみると非常に不思議だし、この辺は本当にイエスの言葉なのかねという疑いも正直出てくる。

本文はこれでラスト。次回は統計の時間。

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