一晩中泣いて、泣いて。

職場で始めて会った時の言葉が「なぁ、お前」ってさ。
なんだコイツって思ったの。
今でも忘れてないよ。忘れられなくって。

日付を見たら1993年の2月3日。タバコの匂いがする喫茶店だった。
香鳥はホットコーヒー。私はちょっと古風なメロンソーダ。
「話がある」
なんて言われた時の真面目な顔。まるで香鳥じゃないみたいだった。
藤水香鳥、ふじみ・かとり。
20世紀だと珍しいくらいにぶっきらぼうな口調の女でさ、いつもズケズケっと私の空間に入ってきたのに、いつの間にかそれも悪くないって思えてた頃だった、けれど。
「イヤよ」
とりあえず断った。
「いや、聞けよ」
「知ってるわ」
「何をだよ」
なんか面倒なことに付き合わされそうなのは知ってる。だから嘘じゃない。
この私、火工静久、かく・しずく。嘘はつかないからさ。
女なのに女言葉は慣れないなぁなんて思ってるけど。
「どうせロクでもないことじゃない、香鳥が私を誘う時は」
「今回はそうじゃねぇよ、本当に真面目な話だ」
よく見たら香鳥がちょっと照れてる。え、どうしちゃったの。そんな顔するんだ香鳥。目元なんてちょっと潤ませちゃってさ。
「…アイツの事、どう思う?」
香鳥の視線は右に。その先には私達の共通の友人がいた。
木村昇、きむら・のぼる。うん、間違いなくいい男の人だよね。結婚した相手をいっぱい幸せにしてくれそうな…
「え、そういうこと?」
「その。好きだって言われた。けど、オレさ。こんなんじゃないか。いいのかなって」
急展開だね。でも、いいんじゃないかな。二人共ちょっと変わってるけど、誠実で嘘はつかないし。
「上手くいくと思うわよ。香鳥だって、悪くは思ってないのよね?」
「まぁ、うん、そうだけどよ」
「いつものザンギリ香鳥は何処に行ったのよ、らしくもない」
「ぐぬぬ」
からかいがいはあるんだよね、香鳥。ともあれこれじゃあ話が進まない。
「ふむ。いいでしょう。だったら私が助けてあげるわ」
「いや、そんなつもりじゃねーし」
「デートは何処がいいかしら?」
「わーっ、やめろバカッ!」
「中学生じゃないんだから、全く」
たまには私が香鳥を振り回すのも面白いかな、なんて思いながら。
お膳立てなんてしちゃってさ。あれよあれよと二人の距離が縮まって。
「…その、結婚する事になった」
半年でこうなった。
「そっかそっか、それはそれは」
「からかうな。何だその顔」
「別に?」
そりゃ、私の知らない間に話が進んでいたことには何かを感じなくもない。何処に隠してたのとは言いたくもなった。でもさ、放っておけない子が落ち着く先を見つけたんだから。これでいいんだと思った…けれど。
「…あー、うん。静久が友達で良かった」
「それはどうも。というか、今更?」
言われてみると私と香鳥の間柄って何だったんだろう。
考えたことがなかった。
友達? というには近いし。親友…とも何か違う。

あれ、そもそも私って香鳥のことをどう思っているの?

更に話が進んで、結婚式の日も決まって。
香鳥はわざわざ私にウエディングドレス姿を見せてくれた。
それはもう美しいもので、昇くんのスーツともよく似合ってて。
ああこれで二人で幸せになるんだろうなって思ったその時に。
やっと気付いた。
私は香鳥が好きなんだ。友達なんかじゃない。恋人になりたかったんだ。
…でも、香鳥は笑ってるんだ。
きっと私のことを一番の友達だと思いながら。
だから一番最初に伝えてくれたんだと思う。
皮肉だよね。
私なんて。これからどんな顔で香鳥と話せばいいの?
だってもう香鳥は昇くんと幸せになるんだから。
どう頑張っても私では敵わない、分かってしまっている。
何も考えられずに一人の部屋に帰って、そこで糸が切れた。
一晩中泣いて泣いて泣いて、やっとわかったのに。
どうにもならない。私の恋はもう決して。

木村香鳥になったあの子は、はっきり私を狙ってブーケを投げた。
幸せいっぱいって顔でさ。私にも幸せになってほしかったんだと思う。
ちょっとだけ偉そうに、いつもみたいに私をからかってくれながら言ったの。
「お前も、早く誰かを探せよ!」
今から香鳥以外の誰かを探すなんて無理だよ。
でも、私は友達として笑顔を返した。頷きもした。
友達じゃないって分かってた私は友達の顔を通せたかな。

…それでも時は痛みを埋めていった。
いつしか私も旦那様を、かねき・しょうご、金木翔吾くんを見つけて。結婚して職場も変わって子供も出来た。
幸せな日常は忙しくて過去を押し流してしまう。
孫が出来て「おばあちゃん」なんて言われるのが嬉しくなった頃には、
香鳥とは手紙のやり取りも遠くなっていた。

そして、2023年。
私は旦那様に、翔吾くんに先立たれた。
ずっと側にいる筈だった人が急にいなくなったら泣くこともできないんだって、その時私は始めて知った。

端から見ても私の様子は危うかったと思う。両親ももういない。
55歳で急に一人ぼっちだ。
とっくに独り立ちしていた子供達は一緒に暮らそうって誘ってくれた。
けれど私は子供達の足を引っ張る気になれなかったし、
生まれ育ったこの街から離れる事も出来なくって。
…後を追うつもりはなかった。子供達が悲しむに決まっているから。
でもここから何十年も一人で生きていくなんて耐えられない。
どこにも行けない、どうしようもなかったあの日。
21世紀の今でも喫煙席を残しているあの喫茶店の前で、
私は木村香鳥と再開した。

何も言わずに香鳥は私の手を取って喫茶店の扉を跨いだ。
香鳥が飲むコーヒーと私が飲むメロンソーダを頼む。
覚えてたんだ、私の好み。
ちょっと今飲むには重たいけれど、
ストローを突っ込んで一口飲んだら気持ちが楽になった気がした。
「…何か、あったんだろ?」
随分とまぁ強く逞しく老けたものだと思う。54歳には見えない。
今の香鳥は風も水も存分に浴びた冬の山みたいだ。
痩せて声もしゃがれたのに侘しさとかは無い。
何処かに動かぬ何かがあるのだろう。
「そっちこそ。えっと、その。厳つくなったわね」
「ずっとこうだった訳じゃねぇよ。…昇がさ、一昨年に先に逝っちまって。それからだ」
結婚してからも香鳥の口調はそのままだった。昇くん、ザンギリ香鳥だから好きになったんだって言ってたもんね。変わらなくって嬉しかったよ。
「…そっか、昇くんも死んじゃったんだ」
「あー…ああ。だろうなと思った。翔吾が」
「うん。一ヶ月前にさ、急にいなくなっちゃって」
俯く。もう顔を上げられない。翔吾くんがいなくなっちゃってどうしようもなく苦しい、でも泣けなくって、でも顔がぐちゃぐちゃで。私は
「とりあえず、そのソーダ全部飲め。腹が膨めばなんだって楽になるから。どんなに時間がかかってもいい、いくらでも付き合う」
おばあちゃんになった私に無茶言ってくれるなぁ。でも、香鳥の言うことだ。
「…分かった、頑張ってみるわ。香鳥、手伝ってくれる?」
そうだなぁ、どうせだからアイスが溶ける前に食べたいかな。
「一口だけだぞ」
なるべく多くスプーンで切り取って香鳥の口に運ぶ。
それから二時間くらいかけてソーダとアイスが混ざったものを飲み込んだ。
香鳥はもう一杯コーヒーを頼んで、私にも飲ませてくれた。
未だに慣れないコーヒーの苦味が今はどうしようもなく沁みるね…

お勘定は全部香鳥に払われてしまった。また人に迷惑をかけてしまった。
それから香鳥はまた私の手を引っ張って彼女の家に連れて行った。
広くもない一人用の借り部屋。
昇くんと一緒に買った家はきっと子供達に譲ったのだろう。
香鳥が紅茶を淹れて、一つだけのティーカップを私に。
また時間をかけて飲み干した。それから。
「ごめん、静久」
「何よ。香鳥が謝ることなんて何も無いじゃない」
「だってオレは、静久が辛かった時に側にいられなかったから」
「それは伝えなかった私が悪いわ、香鳥のせいじゃない」
「それに、あの日は静久の気持ちを知らなかった。分かってたら、あんな事は言わなかったのに」
「…え、気づいてたの?」
「大分経ってから、もしかしたらって思った。オレは、なんて酷い事を」
「それは、うん、辛かった。でももう30年前。とっくに時効だし、許してあげるから」
香鳥の細い体が震える。きっとずっと悔やんでいたのだと思った。
だからそっと香鳥を抱き寄せる。ああ、私も香鳥も歳を取ったなぁ。
30年前にふざけてハグされた時とはもうすっかり感触が違う。肌なんて揃ってガサガサ。でも、暖かさはあの時と一緒で。何だか安心してしまって。
「香鳥、私、辛いよ、翔吾くん、死んじゃった、寂しい、一人ぼっちはイヤだよ…」
ボロボロボロボロ涙が溢れる。
辛くて苦しくて泣くことすら出来なかったのが溢れていく。
もう大声は出せなくなっちゃったけれど、それは慟哭だったと思う。
「オレも、オレだって一人は嫌だ。もう耐えられない、静久のせいで、もう、オレ、一人は」
頬を寄せ合って抱き合っているから香鳥の顔は見えない、けれどどんな顔なのかはだいたい分かった。泣き顔なんて見たこと無かったのに。

一人では辛くて苦しくて重たすぎて向き合えなかった。
けれど二人なら、香鳥と一緒なら。だから。

一晩中泣いて、泣いて、泣いて。
でも今度は二人だった。
一緒に泣いて、泣いて、泣いて、わかったのは。

それから、2024年。
私と香鳥は二人で身を寄せ合って生きている。
「これからの人生だって長いんだ。だったら、一人よりは二人の方がいいに決まってる」
一緒に泣いた朝に香鳥が言い出して、私が決めた。
お互いの子供達も孫達もその方が良いって言ってくれたから、皆に甘えて。
また誰かの為に生きていけるようになったから仕事だって出来る。
まだまだ頑張れるよ、香鳥と私の為だもの。
楽しいことだっていっぱい残ってる。

「なぁ、お前」
「なーに、香鳥?」
「今夜は何を食べるかね」
「香鳥が好きなものなら何でも」
「そう言われるのが一番困るんだがね」
「困らせてるのよずっと一緒にいるんだから」
「全くもう、なんでこんな静久と一緒になったのやら」

「後悔した?」
「全然。何一つ」
「愛してるよ、香鳥」
「ああ。愛してる、静久」

ちゃんちゃん。


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