マタイ福音書における七十人訳引用、目次と概説

…の前に。

・ナザレのイエスはそれまでの律法によって正義を成す神を愛する神に書き換えている。これは律法やユダヤ教の文章を完全にはみ出してしまっている為で、自分は律法を超える主であると言い張るしかなかった。
・マタイにとってイエスは神ないしそれに限りなく近い存在で、彼の権威が律法を超える事を疑ってなかった模様。だからかどうかは不明だが、原文の改ざんとかいい加減な引用とかも割と平気でやる。律法ではどうにもならなかった所をキリスト教に救われたとするなら、そうなっても全然おかしくないだろうけど。
…しかし直後にキリスト教が律法と化し、人を踏みにじる機械になってしまったのが何とも悲惨なのだが。
・どうやらマタイもイエスもヘブライ語の聖書は読めなかったらしい。七十人訳における誤訳や欠落はほとんどそのままである。更にマタイはギリシャ語もかなり怪しく、改ざんとかの次元以前の単純なミスも目立つ。一方イエスに関しては七十人訳を参照したらしい「語録」とでも呼ぶべきものがあったらしく、七十人訳の引用は概して正確。

この辺りを踏まえていくと理解が早いかもしれない。

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では、冒頭へのリンクを付けつつ、各箇所の概略行きます。

その1

1:23 「セックスした事がない女性の子供が救世主」だとみんな思い込んでいた
ヘブライ語では「若い女」位の意味だった箇所を、七十人訳が「処女(セックスした事のない女性)」と誤訳し、キリスト教徒が誤訳に気付かずに処女懐胎は預言に書いてあると思い込んでしまった。
預言ごっこは最初からずっこけていたという。

マタイによる2つだけの正確な七十人訳引用の片方でもある。もう一つは3:3。後は全部いい加減か改ざんか。

2:6 ベツレヘムは小さいのかそうでもないのか
マタイによる派手な改ざんがある箇所。原文では「ベツレヘムはユダ族の中で最も小さいもの」とされている所を、マタイは「ベツレヘムは決して最も小さいものではない」と全く逆の意味に書き換えている。

ユダ族を貶めたかったのか、ベツレヘムを顕彰したかったのか。4:15-16で「ユダの一族」の権威を七十人訳の改ざん訂正(あるいはマタイの改ざん)で否定しているので多分後者。

2:15 昔々、エジプトからモーセたちがきたので
原文では単にモーセがエジプトから来た位の意味。マタイはモーセ=救世主の暗喩と言い張って、マリアとイエスはエジプトに避難して戻ってきた、だからエジプトから来たイエスは救世主だとこじつけている。

なおそもそも嬰児殺しは史実に存在しない模様。

2:18 子供たちは死んだ事にしておこう、そうだヘロデも嬰児殺しした事にしよう
エレミア書でラケルがいなくなった子供を嘆いて泣いたという記述があったものだから、ヘロデに嬰児殺させれば預言が成就した事になるやん、とマタイが張り切った箇所。

しかしエレミア書では、いなくなった子供はこの直後に帰ってきててそもそも死んでない。なので嬰児殺しのエピソードもだいぶ胡散臭い。少なくともそんな史実は確認されてない。

ただ当時の人間が生きている頃に書かれているので、彼らの異論をどうやって封じたかは議論の余地あり。もしかすると小規模な虐殺があったのかも?

2:23 救世主がナザレ出身なのは預言には書かれていなかったよ…
「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」

こんな記述は七十人訳にはない。もちろんヘブライ語の原典にもない。
全くの捏造なのだが、逆に言えばイエスがナザレ出身なのは当時から知られていた事実だとも思われる。預言書に書かれている別の場所で生まれたとは言い張れなかったという話なので。

3:3 そうだ、ヨハネ派乗っ取ろう…ええ文章あるやん!
『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』
という記述がたまたまイザヤ書に存在していたのを利用して、(ヨハネよ)『主の道を備えよ』と読み替え、彼をイエス・キリストの踏み台にしたのが伺える引用。

この企てが大当たりしたのは皆様知っての通り。ヨハネはすっかり「洗礼者ヨハネ」としての扱いが定着し、彼らの教団は歴史の闇に消えてしまった。

その2

4:4 逆に言えば、パンがなければ生きられない事はキリストも認めざるを得なかった
「人はパンのみにて生くるにあらず」で有名。「神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と続く。ここで「言」と訳されてるのは、ヨハネ福音書冒頭のいわゆるロゴスではない。「布告」くらいの意味。引用元の申命記では「神の(生まれろという)命令」と「マナ」の双方を指しており、つまり人間はパンだけではなく神の意志と恵みによって生きている、とイエスは主張している。

4:7 しょうもない理不尽にも理由があるに違いない、神は「全知全能」だから
「神を試みてはならない」、ここも有名な箇所。実は七十人訳で「マッサでしたように」という記述が欠落しており、元々はモーセがエジプトから脱出した際に水が切れて人々が泣き言を漏らした出来事を指している。なので「試すな」というより「神の意思を疑うな」という意味が強いか。

なおここはナザレのイエスによる言葉なのだが、彼も七十人訳で発生した欠落をそのまま放置している。引用と申命記で文脈も違うし。…となるとヘブライ語は分からなかったのだろうか。

4:6 悪魔だって聖句を使うし奇跡も起こす
詩篇の方では道を歩く足に石が当たらないように位の意味だが、ここでは飛び降りても地面に激突しないと主張している。

悪魔が(文脈はともかく)意外と聖書を正確に引用しているという笑い話でもある。総じてガバガバなマタイにおける僅かな正しい引用の一つがよりによってここ。

4:10 カミサマ ハ コワクナイヨー
ナザレのイエスは自身の考えに基づいて、律法による正義の神を愛の神と書き換えており、その為に平然と聖書の単語や文脈も平然と書き換えているのだが、その最初の一つ。

ここでは申命記では「恐れる」べしと書かれているのを、ナザレのイエスは「崇拝する」べしと書き換えている。結構どころかかなり豪快な改ざん。

しかしイエスのこの思い込みが律法、ひいては世界の規律や倫理から溢れた人々を救ってみせたのだから、偉業ってのは予想外の所から出てくるものだなと。そして信仰を集めるのもごく自然な流れである。

4:15-16 イエスはユダ族出身ではなかったんだろう
七十人訳がやらかした決定的な改ざん(「ユダ族の一部」と書き足し、ユダ族に栄光が与えられるという意味に書き換えてしまった)を、マタイが修正している…ようにも見えるたった一つの箇所。

しかしこの下りにおける七十人訳の比較的正確な翻訳(「暗闇の中に…」)を書き換えてもいるので、ユダ族の権威を否定したくて聖書を改ざんしたらたまたまヘブライ語の原典に近づいたのではないか。

イエスがユダ族出身だったらここを書き換える理由がないので、彼はユダ族ではなかったのだろう。

その3

5:21 「裁判を受けねばならない」って書いてあったような。よしそういう事にしよう
イエスは「殺す者は裁判を受けねばならない」とするが、裁判を受けねばならないという記述は出エジプト記にはない。
出エジプト記の方では自由人を殺した者は殺されなければならないという報復律が説かれているが、イエスは兄弟に怒る者は裁判を受けねばならないとしている。ここでいう裁判は天国とか最後の審判とかのではなく、地上の国家などにおける裁判の模様。

5:27 ここって内心の自由と両立しえないよね
神は律法を守る事よりも愛する事を喜ぶ。
イエスの思想はここに行き着くのだが、何故か姦淫に関しては異様に厳しい。「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」という考え方は旧約聖書にはないのだが、ここでわざわざ言い足しているのである。

…身内がひどい扱いをされたとかだろうか。情欲を抱かれて当然とか理不尽言われてしまうような。

5:31 …多分、Mで始まるあの人の事が
更にイエスは離婚にも厳しい。申命記では離婚と再婚そのものは禁じていないのだが、イエスは離婚した女性を娶るのは姦淫であると言い出している。

…自分の母親とか親族が何か言われたとかだろうか。姦淫と離婚に関する発言は彼の思想から浮いてるので、何か私的な理由があるような気がしてならない。

5:33 誓ってはいけない(とは言ってない事になっている)
レビ記と民数記の概訳を引用している(うろ覚えとかかもしれない)。この引用の後イエスは「いっさい誓ってはならない」とするが、後世のキリスト教徒が何かと神に誓っているのは皆様知っての通り。

ここは解釈が難しい。誓ってしまうと律法が無意味に増えるし、不履行になると反逆になるからやめとけという話だろうか。
更に「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ」とも続く。「否」でもいいのね。

5:38 彼は神を書き換えた
『目には目を、歯には歯を』という言葉が出エジプト記、レビ記、申命記にあって、旧約聖書では憐れむ事なく悪を裁け、目を潰した輩がいるなら目を潰せと言明している。ここでは律法によって正義を成す神が示されている。

一方でナザレのイエスは、悪人に手向かうな、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せと宣言する。旧約聖書からはどう頑張ってもそんな文脈は読み取れないので、彼は神の言葉とされていた律法をあっさり書き換えてしまった事になる。
そりゃあ律法飛び越えちゃったらイエス=神と言い張るしか無かったよね。

このようにイエスは罪への許しを唱えているのだが、しかし姦淫と離婚に関しては律法に書いてなかった事を付け足してまで厳しく当たっている。考えてみると非常に不思議である。

5:43 悪への裁きから全てへの愛へ。多分、世界史上最も偉大な捏造
イエスは『隣り人を愛し、敵を憎め』と引用しているが、『敵を憎め』という記述はない。

ナザレのイエスにとって、それまでの神は邪悪を憎み律法の正義を成す神であったが、彼自身の説く神は愛する神、許す神であった。彼の神は良い者にも悪い者にも恵みの雨を降らす事で完全となる存在であり、旧約聖書の文脈を捻じ曲げた独自の神である。

これは捏造ではあるのだけど、しかし律法(および世間の正義や倫理)からこぼれた人々にとっては文字通りの福音で、生きる理由、存在する理由を示す絶対の愛でもあった。

一方でキリスト教徒はイエス・キリストは一切律法に抵触していなかったとも主張している。しかし彼は明らかに律法を踏み越えちゃってるので、後世の人々はこじつけに苦労する事にもなった。

その4

8:4 なんで皮膚病患者ってこんな扱いされたんだろうね
ナザレのイエスにとっても皮膚病は「きよめる」もので、他の病気と違って「いやす」ものではなかった。
現在は皮膚病も病気の一つである事が分かっているのだが。残念ながらイエスもマタイもそんな事は知らなかった。

8:17 ちなみにキリストは病気しなかった事になってるらしいよ
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」というイザヤ書からの引用。マタイはイエスが病人を癒やしたので彼はイザヤの預言に書かれている預言者だと言い張ったが、イザヤ書の方では誰かは分からない「彼」自身が病気持ちだったと読める。

余談だが、後世のキリスト教はイエス・キリストが一切病気をしなかったと主張する事になった。何でそんな主張したかは不明だけれど。病気持ちが神だと何かマズいのか。…だとしたらただの差別だよねそれ。

9:13 イエスは自覚してそれまでの律法を逸脱したのだろうか?
「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」というホセア書からの引用。イエスはこの記述を以て罪人(と取税人)と共に食事する理由と答えたが、ホセア書では「燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ」と続いており、儀式より神を知る事を喜ぶという文脈になっている。なので微妙に意味が違う。

とはいえ旧約の神を知る事は「罪を正しく裁く事」である一方で、イエスにとっての神を知る事は「罪人を許す事、愛する事」なので彼においては意味が通る。一方で「パリサイ人」扱いされた人々も彼らの律法を違えた訳でもない。

10:35-36 急にカルトみたいな事言い出す救世主
「わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう」とミカ書を概略している。

罪人を許して愛する事こそが神の本質であると説いたイエスが、いきなり不穏な事を言い出している。しかしその理由は何か。

ミカ書では今は悪い時代だから神以外の何もかもを信じるなと言う文脈。マタイ福音書ではそこまで混沌とした状況は想定していない模様。単に隣人や家族を切り捨ててでもキリスト(後世では教会と読ませたいだろう)である私に従えという話か、それとも。

11:10 預言を改ざんしたのは誰だ
『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、「あなたの前に」、道を整えさせるであろう』とあるが、マラキ書では「わたしの前に」となっているのを「あなたの前に」と書き換えている。マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの全員に共通する改ざん。

何でこんな改ざんをしたのかというと、使=洗礼者ヨハネという事にして、
「あなた(ナザレのイエス)の前に」従わせたかった為。「わたし(神)の前に」だと預言(ごっこ)になってくれないのである。

ただ最初にこの改ざんをやらかしたマルコは預言(地の文)として引用しており、イエスの言葉として語らせているのは後発のマタイとルカ。なのでナザレのイエスの言葉かどうかはかなり疑わしい。

12:7 イエスは自分の倫理を疑ってなかったらしい
9:13と同一箇所の引用。こちらは弟子が安息日に禁じられた事をしたのを咎められての返答。ここでイエスは「人の子は安息日の主である」と発言した事になっているのだが、もうこの時点で自分>律法と言い切ってしまっているように見える。

…うん、もうここまで来たら処刑不可避だったんじゃないか。

その5

12:18-21 多分原語の「国々」も異邦人の国ではあるだろうけど
「見よ、わたしが選んだ僕、~そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。」イザヤ書からの引用で、キリスト教徒は僕=イエスと解釈している。

しかしこの長い引用の直後、イザヤ書42:8で「わたしはわが栄光をほかの者に与えない」とあり、そうなるとこの僕=イエスだと栄光が与えられない事になるが、そこは僕=イエス=神という四次元殺法で何とかしてしまった。

ところでマタイ15:24で「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」とあり、実際ナザレのイエスは異邦人への宣教は考えていなかったようだが、ここは何か言い訳考えてたんだろうか。

13:14 この正確なギリシャ語引用ができたのはイエスか、あるいは彼の言葉を翻訳した誰か(マルコでもQでもない模様)なのか
ここの引用はかなりの長尺なのだが、何とほぼ完全に七十人訳と一致している。しかもここの下りはマタイしか使っていない。

総じていい加減なマタイのギリシャ語力から見ると不自然な出来で、ここはマルコでもQでもないギリシャ語によるイエス語録の存在を伺わせてくる。この語録からの丸写しでもなければ、マタイには正確なギリシャ語引用は出来ないと思われるので。

一方でヘブライ語の原典からはズレもある。ナザレのイエスがヘブライ語を読めなかったのか、イエス語録を作った人が出来なかったのかはまでは絞りきれないが。

…なおマタイはここを予言として使っているが、実の所ちょっと前を読むとイザヤ自身が受けた命令でそもそも予言じゃないというオチもある。

13:35 マタイにおいてはイエスは一神教の神だった
「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」
~語り、までは引用元の詩篇と完全一致。残りは単語一つも合ってない。
マタイの引用はほぼ一致、ちょこちょこ違う、全部違うのどれかで、途中まで完全一致からの全部違うという事例はここだけである。

なので意図的な改ざんが疑われる箇所。
元は「古より」で遡れてアダムなのだが、改ざんしての「世の初め」だと天地創造まで遡れて神=イエス・キリストと言い張りやすいのである。この記述はマルコ、ルカ、ヨハネにはなく、となるとQでもなさそう。よってマタイ自身による改ざんの線が強い。

とはいえマタイ自身が律法から外れて人間扱いされてなかった所を、キリストの教えに救われたんだとしたら、イエス=神だと思っても不自然ではない。捏造は糾弾されるべきではあっても。

その6

15:4 言いたい事は分かるけどなぜこの引用をしたのか
「神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と」

…「わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである」ってさっき言ってた気がするんだけど。呪ってないからいいのか?なんかますます10:37が怪しくなってきたぞ。

この直後15:19-20で、心から出てくる悪徳が人を汚すのであって、洗ってない手で食事をしても人を毀損する訳ではないと説いている。神に背いて律法に従うくらいなら汚れた手で神を愛した方がいいという主張。

15:8-9 ここってイエス=人間になっちゃうとブーメラン直撃だよね
『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』というイザヤ書の引用。

…良くも悪くも律法の文脈をぶっちぎってるイエスがこれ引用するのって危険なのでは。自分の意思は神の意志で律法も飛び越えると本気で思ってたのかも。というかそう宣言して十字架に吊るされるんだけどさ。

19:4-6 処女懐胎もパウロも胡散臭くなる大問題の箇所
『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』
という創世記からの引用。

「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」と続く。普通に読んだら人間は結婚するべきで、離婚もするべきではないとしか。何故かは知らないがイエスは離婚と再婚に妙に厳しい。

ここを見る限り、ナザレのイエスは自分が処女懐胎で生まれて父親が神だったとは考えもしてなかったのではないか。でなければ母親は神と一体になったと主張した事になってしまう。

更に結婚しないほうがいいと言い切ってるパウロは明白にイエスに反している事にもなる。なお後世のキリスト教はパウロを優先して修道院作ったり禁欲に走ったりした。

19:18-19 別に地上で何かをしなくてもいいらしい。やる事やるとあの世でいい目を見れるらしいけど。
『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。
また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』
出エジプト記とレビ記からの引用。

なのだけど問題になるのはこの直後の19-21、完全になりたいなら財産を売り払って貧者に施せという下り。これは旧約にはないイエス独自の(あるいは初期の教会が財産目当てに書き足した)言葉。

ちなみに後日キリスト教はギリシャ語を使う金持ちの二世に流行ってしまったので、全財産は寄付しなくていいよと言い張る事になった。有名なのがアレキサンドリアのクレメンス。

ただしイエスは完全でなければ救われないと主張したわけでもなく、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」と語っている。でも財産に限らず家族とかも切り捨てれば大きな報奨があるとも言い切っている。なので金持ちの清貧ごっこが流行る事になった。

その7

21:5 ナポレオンがロバに乗ってたのはキリストを意識…いや関係ないか
「柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」
という七十人訳からの引用。ヘブライ語の原典では「彼は義なる者であって勝利を得」とあるが欠落している。福音記者たちがこの欠落を知っていたら使わない手はないので、多分彼らはヘブライ語の聖書を読めなかった、という状況証拠の一つ。

イエスが子ロバに乗ってエルサレムに行った話をゼカリヤ書にくっつけている。この下りが事実かどうかは分からないが、馬を借りるより安かった筈で不自然な話でもない。

21:13 実は門前市をぶっ壊した後、そこにいた盲人や足なえを癒やしたりもしてる
「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」イザヤ書の引用。

過越祭で燃やす為の家畜販売で賑わう神殿の門前市をぶっ壊しつつ、イエスが宣った言葉である。イザヤ書は十戒に背いたり偶像崇拝してる連中が賛美を唱えても盗賊と変わらないという文脈。門前市を構えていた人々に信仰が有ったのか無かったのかは分からないけれども。

この後イエスが打ち捨てられていた盲人や足なえを癒やしたのはもう少し知られていいんじゃないかな。

21:16 名付けてベイビーロンダリング?
「幼子と乳のみ子の賛美」を詩篇から引用した箇所。

ユダヤ教の詩篇にせよ、ナザレのイエスにせよ、キリスト教にせよ、というかその他の様々な宗教や思想において、大人の薄汚い都合は子供に代弁させればキレイになると思われていたけれど。

こんなものは唾棄すべきものでしかない。
古い時代に投げ捨てなければ。

21:42 分かっていて読み替えたのか、単に教養が足りなかったのか
『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』
詩篇からの引用で、元の文章からして意味がわかりにくい。

実は詩篇における「石」はイスラエル王国の事で、周りの民族から拒絶され攻撃された我々が世界の中心になった、これは驚くべき神の御業であるという意味。イスラエル王国が絶頂してる頃の詩である。

なのだけどナザレのイエスか、あるいは後世のキリスト教は「石」をイエス・キリストだと解釈し、神に捨てられ十字架にかけられた事で彼が世界の要石になったと主張していく。

果たしてイエスが生きていた頃、彼の弟子たちは「石」がイスラエルである事を知っていたのか。あるいは知っていて書き換えたのか。

その8

22:24 ユダヤ社会独自…という訳でもなく、割とよくあった風習らしい
ナザレのイエスは復活を主張していたのだが、申命記によれば兄弟の誰かが死んだらその嫁を娶らなければならないという規則がある、魂が復活するとするならその嫁さんは誰のものになるのか、というサドカイ人のツッコミ。

この問に対して、復活の時は誰かを娶ったり嫁いだりする事はないとイエスは返している。男女は一体になるべきで離婚すべきではないのは地上限定の話らしい。あるいはどっちかはイエスの発言ではないのかも。

…母親の事も念頭に入っているかもしれない。復活して永遠に生きた暁には、父親の血から解放されたかったのだろうか。

22:32 そもそもユダヤ教に復活の概念があるのか?
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』という出エジプト記からの引用。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と続く。

…ナザレのイエスはこの記述を論拠として死人の復活を主張しているのだが。正直何を言ってるのか分からない。三人共普通に死んでて蘇ってるわけでもないし。また出エジプト記でも死人が復活してどうこうという話は全く無い。

群衆はこれで驚いたとあるが、得心がいったのか、訳の分からない事を言いだしてどよめいたのだろうか…

22:37-40 律法は神への愛と隣人愛の二つ。…では敵への愛は?
『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』が申命記。
『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』がレビ記。

ナザレのイエスにとって神の本質は正義ではなく愛なので、その律法も神への愛と隣人への愛の二つに整理できるとしている。

一方ここでは敵への愛は言及されていない。それは神の仕事であって人間には困難だという事なのだろうか。

22:44 詩篇110の詩は当時の王にも歌われていたのだろうか?
『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』詩篇110からの引用。

詩篇ではダビデが王の就任を祝う詩として創ったとされる。なのでここで言う「わが主」はその時の王を指し、歌っているのはその家臣たちになる。

一方マタイにおけるナザレのイエスは「わが主」がキリストであるとする。
なので「神はキリストに仰せになった」という意味だと主張し、ダビデさえも自分の僕だと言い張った。

牽強付会と言ってしまうにもお粗末な仕事だが、後世のキリスト教ではこれが普通になり、遂には三位一体論に基づき「Lord」を「LORD」と翻訳するに至った。

23:39 「私がイスラエルだ」…なのかこれ?
『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』
さっきの「石」から続く下り。詩篇の方ではイスラエルにおいて神を讃えており、マタイ福音書においてはイエス・キリストに祝福あれ、という意味になる。

その9

24:15 ここの長尺は本当にイエスが語ったのかどうか
イエスのかなり長い言葉の一部におけるダニエル書の引用。名指しで旧約を引用しているのはここだけで、ダニエル書を使っているのもここだけ。

ダニエル書9:26には「メシヤは断たれるでしょう」とあるので、この言葉が本当にイエスのものなら処刑される覚悟はあったかもしれない。

ただ、ここが本当にイエスの言葉なのか。この下りはマルコやルカにおけるそれよりかなり長い。またエルサレム神殿が無くなった後に作った(イエスの口を借りた)偽予言の直後に書かれてもいる。そもそも識字も怪しい直弟子達がこのダラダラした下りを一言一句覚えてられたか…?

24:29 イエスも時々概略引用はしているけれど
イザヤ書の概訳引用。実はここでバビロンの滅亡を描いた予言…とされるものは、バビロンが滅んだ後に書かれた予言もどきなのだが、マタイもナザレのイエスもそんな事は知る由もなかった。

イエスは三位一体の神だから知らない筈がないって? またまた。

24:30 この長尺にはイエス(あるいはその語録)特有のほぼ正確な引用が一つもない
ダニエル書の概略引用であるとされるがかなりいい加減である。

24-25章でずーっとイエスの語りが続くのだが、これが本当にイエスの言葉なのか、どころか福音書以前の語録にあったのかが疑わしくなるもう一つの理由が、今まではイエスの言葉においてかなり正確だった七十人訳の引用がここからいい加減になっていく事。

どころか、ここから後には正確な引用は一つも存在してない。なので以後の言葉は本当にイエスのものなのか、どころかエピソード自体があったのか、
その存在から疑っていくべきかもしれない。

26:11 この下りって本当に存在したの、という発想は今までしてなかった。色々な人が頑張って解釈してる所
『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない』これが申命記の該当箇所なのだが、
「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と語っている。…うーんそもそも引用なのかこれ。

女がイエスの為に高い香油を買ってきたのを、その金があったら貧者に施せるだろうと弟子がツッコんだら、これは私の葬りの用意をする為だから良い事だとイエスが答えた、何かと議論が起きる箇所での台詞である。

貧しいものに心から与えるように私へも心から与えなければならないという意味か、逆にこの女が私に与えたように弟子のお前らも貧しいものに与えよという意味か。

考えてみれば弟子は財産をなげうった描写はあるけど、その後入ってきた身銭をどうしたかは語られてない。

26:31 イエスの実在は限りなく確定に近いらしい。しかし十字架は
弟子は皆私を見捨てて逃げるだろうとイエスが預言した下り。実際弟子は「知らない」ってんで全員逃げる展開になるのだが。

ゼカリヤ書が引用されているがこれがかなりいい加減。果たしてこれは本当にイエスの言葉なのか。弟子がイエスを見捨てて敗走したのは預言されてたから仕方ないと言い訳する為に、後から書き足されたとかだったらどうしようか。

26:64 本当に処刑されたの、という事から疑わないといけないらしい
先に引用された詩篇110とダニエル書7:13がもう一回使われる。
しかし今度は裁判の場で言ったのがマズかったのか、ペテロの僕が大祭司の僕の耳を切り落とした上で私はメシアだと抜かしたのが悪かったのか、ここで大祭司がブチ切れて処刑が決まってしまう。

なのだけど、イエスが処刑された史的証拠は無かったりもする。私は主で律法を超越するとか言ってたので処刑不可避だったと思われるし、何かあったら簡単に剣を振り回してくる過激派が身内にいたらしいし、パウロがやたら頻繁に十字架を強調したりもしていたり、状況証拠は幾つか揃ってるけど。

27:9-10 マタイのやらかし

「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」
という記述がエレミア書にあるとマタイは主張しているのだけど、そんな記述は一切ない。ゼカリヤ書に「銀三十枚」とは書かれてるけれど全然違う文章。というかそれならゼカリヤ書使うだろう。

ユダの裏切りも果たして本当にあったのだろうか。

27:46 ここだけギリシャ語ではないのはリアリティがある、ような
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
イエス末期の言葉である。

これは詩篇22の引用らしく、元々の詩は賛美するから助けてくれという意味か。ちなみにこの台詞を採用しているのはマルコとマタイのみである。
ルカとヨハネは何故カットしたのだろう。

…概略だけで一万字超えてしまった。
リンク先には新約のギリシャ語と七十人訳旧約のギリシャ語を比較したりしているので、良かったら読んでみてほしい。
それと文章全体をpdfにする予定。有料のも作るので、お金を出して下さる方がいるなら是非。

マルコ、ルカ、ヨハネ、パウロ書簡も七十人訳と比較したいけれど、夏コミの原稿があるので多分8月半ば以降。しばらくお待ちくだされ。


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