新約聖書における七十人訳引用 マタイ福音書その3

5:21 「裁判を受けねばならない」って書いてあったような。よしそういう事にしよう

「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである」
出エジプト記20:13「あなたは殺してはならない」
マタイ「Οὐ φονεύσεις
出エジプト記(七十人訳だと20:15)「οὐ φονεύσεις
「殺すな」
「殺す者は裁判を受けねばならない」という記述は出エジプト記にはない。出エジプト記の方では自由人を殺した者は殺されなければならない、奴隷を殺した(所有物を壊した)者は保証しなければならないという文脈である。…人殺しとあらば裁判になったのなら、概略と言えなくもないのか?
ともかく出エジプト記の方では人殺しは神の名において殺されなければならない、とある。一方ナザレのイエスは「兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」と続けている。
…文字通りに地上の裁判を受けねばならないと主張しているように見える。でなければ「議会に引きわたされる」とは言わないであろう。「裁判を受けねばならない」と勘違いした上でこの下りを説いたとかだろうか。

5:27 ここって内心の自由と両立しえないよね

「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである」
出エジプト記20:14「あなたは姦淫してはならない」
マタイ「Οὐ μοιχεύσεις
出エジプト記(七十人訳だと20:13)「οὐ μοιχεύσεις
「姦淫するな」

この後に、「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と続く(なお男を見る者に関する記述はない)。
ナザレのイエスは姦淫に関しては異様に厳しく、右目が罪を犯させるなら(この文脈ではそういう目で女性を見るなら)その目を捨てろとまで言っている。

5:31 …多分、Mで始まるあの人の事が

「また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている」
申命記24:1「人が妻をめとって、結婚したのちに、
その女に恥ずべきことのあるのを見て、
好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、
家を去らせなければならない」
マタイ「Ἐρρέθη δέ· Ὃς ἂν ἀπολύσῃ τὴν γυναῖκα αὐτοῦ, δότω αὐτῇ ἀποστάσιον」
申命記「ἐὰν δέ τις λάβῃ γυναῖκα καὶ συνοικήσῃ αὐτῇ καὶ ἔσται ἐὰν μὴ εὕρῃ χάριν ἐναντίον αὐτοῦ ὅτι εὗρεν ἐν αὐτῇ ἄσχημον πρᾶγμα καὶ γράψει αὐτῇ βιβλίον ἀποστασίου καὶ δώσει εἰς τὰς χεῖρας αὐτῆς καὶ ἐξαποστελεῖ αὐτὴν ἐκ τῆς οἰκίας αὐτοῦ」

ここは『』で日本語訳されているが、該当する記述は申命記にはない。
おそらく概要を書いたもの。

マタイ5:32では「しかし、わたしはあなたがたに言う。
だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、
姦淫を行わせるのである。
また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである」とあるが、
申命記24:2-4では
「がその家を出てのち、行って、ほかの人にとつぎ、
3 後の夫も彼女をきらって、離縁状を書き、
その手に渡して家を去らせるか、
または妻にめとった後の夫が死んだときは、
4 彼女はすでに身を汚したのちであるから、
彼女を去らせた先の夫は、ふたたび彼女を妻にめとることはできない。
これは主の前に憎むべき事だからである」とあり、
旧約では一度離婚した相手との再婚は禁じられているが、離婚した女性が再婚することそのものは禁じていない。
つまり申命記の文脈に反している(あるいは書き足した)事になる。

何故かは知らないが、ナザレのイエスは姦淫と離婚には不自然な程厳しい。しかし男は女に関わるべきではないとは言っていない。離婚した後で男の下卑た目に苦しんだ女が身内にでもいたとかだろうか。

5:33 誓ってはいけない(とは言ってない事になっている)

「また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、
すべて主に対して果せ』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである」
レビ19:12「わたしの名により偽り誓って、
あなたがたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」
民数記30:2「もし人が主に誓願をかけ、
またはその身に物断ちをしようと誓いをするならば、
その言葉を破ってはならない。
口で言ったとおりにすべて行わなければならない」
マタイ「Πάλιν ἠκούσατε ὅτι ἐρρέθη τοῖς ἀρχαίοις· Οὐκ ἐπιορκήσεις, ἀποδώσεις δὲ τῷ κυρίῳ τοὺς ὅρκους σου」
レビ記「καὶ οὐκ ὀμεῖσθε τῷ ὀνόματί μου ἐπ' ἀδίκῳ καὶ οὐ βεβηλώσετε τὸ ὄνομα τοῦ θεοῦ ὑμῶν ἐγώ εἰμι κύριος ὁ θεὸς ὑμῶν」
民数記「ἄνθρωπος ἄνθρωπος ὃς ἂν εὔξηται εὐχὴν κυρίῳ ἢ ὀμόσῃ ὅρκον ἢ ὁρίσηται ὁρισμῷ περὶ τῆς ψυχῆς αὐτοῦ οὐ βεβηλώσει τὸ ῥῆμα αὐτοῦ πάντα ὅσα ἐὰν ἐξέλθῃ ἐκ τοῦ στόματος αὐτοῦ ποιήσει」

レビ記も民数記もほとんど原型を保っておらず、
二つを間の子にした概略を便宜上『』で訳したと思われる。

民数記ではこの後、娘は父の、嫁は夫の黙認がなければ誓願は無効であり、また男の反対があった場合も誓願は無効となる、と続く。寡婦と離縁された女の場合は完全自己責任との事。

この後「いっさい誓ってはならない」と続くがこれはちょっと意図が読み難い。実際以後のキリスト教徒はこの下りを一切無視して、神に、聖書に、等において色々な事を誓っているし、近代の契約概念は神にかけて誓う所から来たとまで言われている。

…拡大解釈すると、律法は神への誓いによって成立しているので、律法を増やすのはもう止めにするべきだし、また神への誓いと称してしまえば(特に不可抗力の)不履行も神への反逆になるから止めておけと言いたかったのだと考える事はできる。…全然別の方向を見ている可能性も大いにあるので、あくまで参考程度に。

更に「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ」とも続く。「否」でもいいという事は覚えておいても損はないかもね。

5:38 彼は神を書き換えた

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである」
出エジプト記21:24「目には目、歯には歯、手には手、足には足」
レビ24:20「すなわち、骨折には骨折、目には目、歯には歯をもって、
人に傷を負わせたように、自分にもされなければならない」
申命記19:21「あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、
手には手、足には足をもって償わせなければならない」
マタイ「Ὀφθαλμὸν ἀντὶ ὀφθαλμοῦ καὶ ὀδόντα ἀντὶ ὀδόντος
出エジプト記「ὀφθαλμὸν ἀντὶ ὀφθαλμοῦ ὀδόντα ἀντὶ ὀδόντος
「目には目を、歯には歯を」

旧約聖書以前に書かれたハンムラビ法典にも書かれている事で知られる、
とても有名、かつ当時よく使われていたであろう法である。

この後39-42で、
「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。
もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、
ほかの頬をも向けてやりなさい。
40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、
その人と共に二マイル行きなさい。
42 求める者には与え、借りようとする者を断るな」
とある。

レビ記では24:13「時に主はモーセに言われた」からの文脈で神が明白に「やれ」と命じているし、
申命記では19:19-21で
「あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、
こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。
20 そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、
その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。
21 あわれんではならない」
としており、悪を排除するために「やれ」と言明している。
ここで申命記のいう「彼」は(法律的な意味で)悪意を以て兄弟を陥れようとしている人の事。

明白に旧約とは逆方向。
旧約は悪を排除し正義を成す為に報復を成せとし、
福音書では「悪人に歯向かうな」とある。
41が不明瞭だが。一マイル行かせる事を強要してくる奴を引きずって倍の距離を行けってどういう意味なんだ。
(どうやら徴用の事を指すらしく、命じられたらそれ以上にやれと解釈されるらしい。しかしそれだと「その人と共に」が意味不明になる。当時の徴用は命じる側もやったのだろうか?)
また「悪に歯向かうな」ではないのかあるのかは絞りきれないけれど。

ともあれここが、ナザレのイエスと
律法、あるいはモーセ五書(トーラー)の決定的に違う点。
何故女性の再婚を否定しつつ(締め付け)
悪人に歯向かうなとした(緩めた)のかはちょっと私には分からないが。

5:43 悪への裁きから全てへの愛へ。多分、世界史上最も偉大な捏造

「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである」
レビ記19:18「あなたはあだを返してはならない。
あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。
あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。
わたしは主である」
マタイ「Ἀγαπήσεις τὸν πλησίον σου
レビ記「ἀγαπήσεις τὸν πλησίον σου
「隣り人を愛し」。

『敵を憎め』は先のレビ記とか申命記とかからの類推? ただ、19:18の該当箇所にはそんな記述はない。

で、44-48
「しかし、わたしはあなたがたに言う。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。
天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、
正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、
なんの報いがあろうか。
そのようなことは取税人でもするではないか。
47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、
なんのすぐれた事をしているだろうか。
そのようなことは異邦人でもしているではないか。
48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全な者となりなさい」

と続く。
すぐ前の「悪人に手向かうな」から続く非常に有名なくだり。
旧約の神は明白に悪の排除を命じているが、ナザレのイエスは「天の父が良い者も悪い者も愛する完全な存在であるように、あなたがたも良い者も悪い者も愛する完全な者となりなさい」と説いている。
ここでかつての正義を成す律法の神を、愛の神に書き換えたわけである。
旧約聖書の文脈を捻じ曲げ、独断で。

21世紀に学術としてやったら落第間違いなしだが、愛こそが神の真の本質であると説くキリスト教からすれば、なるほどナザレのイエスは律法を超える存在であり、神の子にして神と同格であるキリストであると認識したいのもすごくよく分かる。

律法、そして正しさでは救えない人は無数に存在する。
生きる事を否定された人々はどうすれば生きられるか。

この切実な問題に一つの回答を示した事こそが、
ナザレのイエスの絶対的な偉大さであったと私は断言する。
それが後のキリスト教に引き継がれているかどうかはともかくとして。

実は後述するイザヤ書56:4-6では、律法を守れば宦官や異邦人も神に受け入れられると書かれている。しかし律法を守る(ユダヤ教に服従する、と言ってもいいか)事は必須であった。

「そのようなことは異邦人でもしているではないか」という事で、
ナザレのイエスは罪人を招く為に来たとマタイ9:13で宣言する。なおこのマタイ福音書においては15:24-26でユダヤ人と異邦人は明白に分けている。
それがイエスの言葉なのかマタイの言葉なのかは…どっちだろう。

ともあれ、良くも悪くも旧約聖書の文脈は完全に無視しており、キリストは律法に違反しなかったとも主張している(実際にはキリスト>律法であるとして、色々と律法を書き換えているのは読んで頂けた通り)後世のキリスト教徒はこじつけに苦労したと思われる。
結局暴力でユダヤ教徒を踏みにじって何とかしたんだけど。

今回言及したマタイ福音書の第五章には、
ナザレのイエスの思想がかなり色濃く出ている事、
そして彼の思想がその時点におけるユダヤ教やその律法を完全に踏み越えている事が分かった、と少なくとも個人的には思う。
それがいいか悪いかは好みの問題になってしまうのでここでは触れない。

では、ここで一区切りして。次へ行く



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