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ジジェクさんってどんな人?年齢は?気になる彼女は?以外のことについてまとめてみました!



スラヴォイ・ジジェクってだれ?公式が言うことにゃ·····

1949年、スロヴェニア生まれ。
哲学・精神分析から、映画・芸術、現代政治まで、縦横無尽に論じる現代思想界の鬼才。
『斜めから見る』『ラカンはこう読め!』『ロベスピエール/毛沢東』など著書多数。
(スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳『イデオロギーの崇高な対象』著者プロフィールより)



・ジジェクってどーゆー人?ギョーカイから見て/ギョーカイの外にいる僕から見て

超絶難解な精神分析理論で知られるジャック・ラカン。そのラカン自身によって「ラカンを“読む”ことのできる少なくとも一人の人間」と認められた一番弟子ジャック=アラン・ミレールの入門書を読んで、むっちゃわかりやすい!&こんなにわかりやすくていいのか?と頭がごちゃごちゃになった余勢を駆って今だ!今なら読める!と、ミレールの一番弟子ジジェクの『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』(スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳、青土社、1995)に再チャレンジしている。
相変わらず部分的にはむっちゃおもろい。けど、ムズいなー。
みんなは「ジジェクはわかりやすくておもしろいけどそのイメージでラカンを読むと死ぬから気をつけろ!」とか言うけど、僕にはそもそもジジェクが全然わからへんのよ🤔
ジジェクは5冊ぐらい持ってて(本人は300冊以上書きまくってる。内容は金太郎飴=似たり寄ったりの再生産とも言われているが)、うち2冊を通読、3冊は途中で挫折って感じやねんけど、ほんまにみんなジジェクわかってんの?読めてんの?という疑いが拭い切れない。
普通に考えてや。こんなんさらっと通読できますう!?
ギョーカイの方々やユーシキシャ諸賢が「ジジェクは1980年代末の現代思想界に彗星の如く現れ、19世紀末のウィーンでフロイトによって創始された精神分析理論を継承し一気にむずかしくしたラカンの理論をさらに継承し一気にわかりやすくした上で、映画をはじめとする大衆文化の読解に応用したりマルクス理論と組み合わせて政治批判の道具として使ってる人やから、むしろわかりやすくしすぎたり他の分野に拡大適用しすぎてるせいでフロイトやラカンの本来のエッセンスが伝わりづらくなってるところが問題なぐらいで、よーするにむっちゃわかりやすい」と言いすぎてるせいで僕があほみたいやけど、他にもそう思ってんのに声上げられへん人がいっぱいいてると信じて言う。
「ジジェクはムズい!!!」

(ここからちょっと脱線、ならぬ脱輪スマソ(´ω`🙏))

ってゆーか、読んでて腹立つんは、「絶対もっとわかりやすく書けるはず」って思うとこやねんな。
やから、義憤の念に駆られつつ自分はそーゆーことをやってるわけやけど、実際にわかりやすくおもしろく書いてしまうと評価されず····
「なるほどなるほどおもろいなー。でもちょっと待って、それ最初の3行で言えたくない?よーしやったろ」
ところが意味や内容を高度に圧縮して実際に3行で書いてしまうと、やってること自体のすごさ=文章のvalueも同じ3行分として過小評価されてしまうという·····
本当は10行なり1冊分のvalueが詰め込まれているかもしれないのに😢
これは夢みたいな話だけど、文章家・脱輪がやってることのすごさを説明してくれる翻訳家なり批評家がぜひとも必要なんよなー。
そーゆー存在を育てることも、自分が主催している“人類初!お金がもらえる文学サークル”『お茶代』の目的のひとつなんだが。『お茶代』は、良き友と切磋琢磨し合える仲間と恐ろしい敵(アイツが見てるからヘタなこと書けねえ!と逆に奮い立たせてくれる存在)を同時に作るための試みだったり。

現状、自分がやってることの翻訳ないし説明ないし批評も自分でやってるけど、どーしても限界がある。
実際、僕は脱輪という人間の思考のエッセンスを延々と“説明”し続けているだけだったりする。その意味ではフロイトを説明し続けているラカンやジジェクと一緒か(笑)


・行動しすぎる思想家ジジェクの功罪

ジジェクが哲学者なり思想家として特殊である所以は、あほみたいに本を書きまくるだけではなく、リアルタイムの社会問題や政治的な事件に敏感に反応し、積極的にメディア出演を行い自らのメッセージを伝えようとする“大衆の方を向いた姿勢”にあると言っていい。
一方で、ギョーカイからは「ものごとを単純化し過ぎている」「正確な知識を持っていない分野についてもうっかり口を出してしまう」などの批判も多い。

以下を見てみてほしい。
ロシアのウクライナに対する侵略戦争の開始後、ロシア国内の抵抗者(レジスタンス)に向けてジジェクが発したメッセージ。おそらくは多くの人が頷けるであろう真っ当な内容。

 ·····「残念なことに、アーティストや思想家も戦争の基盤になり得る」
·····「だからこそわたしたちは連帯する必要がある」


続いて、『ホモ・サピエンス全史』で読書界の話題をさらったユヴァル・ノア・ハラリとの対話。時に過激な発言も辞さないパフォーマーないしはアジテーター、優れた“演技者”としてのジジェクの側面が垣間見える。

·····「私たちが機械に奴隷化されることだけが問題なのではなく、奴隷化は人類の間の分断を強化する結果に繋がる」
「こうした技術を作り出す側と技術に管理される側の間の分断だ」


最後は一見して趣きの異なるカジュアルな動画。しかし、ここにこそ彼の本質が·····

·····「不文律の役割を軽視すべきではない」
「私たちのコミュニケーションを司るのは明示的なルールだけではない。不文律は明示的なルールを(わたしたちが)どれほど深刻に受け取るべきかを暗示する」
「例えばあなたにも何かしら日常的な儀礼があるだろう。会計が来た時に一度は「わたしが払います」と言うだろう」
「私たちどちらも最終的にあなたが奢られるのを承知するとわかっている。それでもこの儀礼(奢られる側が、奢られることをわかりつつも、いったんは財布を取り出し支払いを行う素振りを見せる)を通過する必要がある」

“食事を奢る”という誰しも経験のある日常的な話題を例に出すことで、視聴者=大衆との間で議論の前提を共有し、続いてそれを現代の政治的な問題(いわゆる世間知なり暗黙の了解を軽視しなんにでもルールの明示化を求めるファクト重視の風潮や、ファクトさえあれば過去の思想的遺産を否定し去ってもいいとするキャンセルカルチャーの問題など)へと一気に拡大適用することによって、ある種のカタルシス=「なんか知らんけどむずかしいことが急にいろいろわかった気がする~!」という知的開放感を生み出すジジェク独自の方法がよくわかる。
話し言葉のインタビューと違って書き言葉の所産である著作においてはそれがより精緻な形で行なわれるとはいえ、基本的には神をも恐れぬ飛躍力こそジジェク最大の持ち味であり、同時に彼の批判者がそのわかりやすさを問題視する部分でもある。
しかし、これだけではジジェクがフロイト=ラカンの理論を援用していることが伝わりにくいかもしれない。補足しておこう。


・ジジェクはフロイト=ラカンを使い倒している。でも、どこが?



実は、ここで彼が言及している日常のさまざまな場面につきものの「儀礼」なり「不文律」は、ラカンが言うところの“象徴界”や“象徴的秩序”、あるいは“大文字の他者”という概念に対応している。
“象徴界”とは、あなたとわたしとの間を隔ちつつ取り持っている権威的な他者たち=“大文字の他者”が形作る空間であり(公共の福祉の擬人化ならぬ擬建物化みたいなものだと思えばイメージしやすいかもしれない)、それはもっぱら言葉と法、言語的コミュニケーション=“象徴的秩序”を建築資材として作られている。なぜなら、わたしたちは言葉を使ってでしか、なんらかのものごとについて考えたり他者とコミュニケートしたりすることができないからだ。そもそも言葉がなければ、例えば木でできた4本足のオブジェを「机」と名指し呼びならわすことができないし、それを「木でできた4本足のオブジェ」としてだれかに説明し伝えることもできない。名指す対象が机より複雑なものだったり抽象的なものだったりすれば、その困難はますます高まっていくだろう。
わたしたちは普段一見したところ無くてもいいように思える社会的なルールや倫理的な縛りに息苦しさを感じつつ生きているものだが、しかしこのような象徴的秩序がコミュニケーションにおいて果たしている役割が軽視されてはならない、とジジェクは言う。というのも、社会生活全般に付き纏う不自由さなり拘束感は、人間のコミュニケーションに必要不可欠な言語そのものの特性に依存しているからだ。
どういうことか?
「机」という言葉は、木でできた4本足のオブジェを限定的に名指すことによって、その存在なり概念をスムーズに他者と共有することを可能にする。しかし逆に言えば、「机」という言葉が新たに生み出されることによって、言葉以前のイメージの世界では繋がっていたかもしれない、同じく木でできた4本足のオブジェであるところの「椅子」は「机」から完全に切り離されてしまう。
言葉は膨大なイメージ群の中からたったひとつのイメージを捕まえて拘束し、他者から切り離す性質を持っているわけだ。
だから、鉄やコンクリートの代わりに言葉を使って作られた象徴界がまず第一に発するルールは次のようなものになる。
「机という言葉が椅子を意味し、椅子という言葉が机を意味するような混乱した事態があってはならない。そうした事態が常態化すれば、言葉はそれ自体の硬さを失いふにゃふにゃになり、わたしという建物はたちまちのうちに崩れ去るだろう」
重要なのは、言葉は目に見えるが、それによって作られた象徴界はいわば透明な建築であり、その存在もそれが発する命令も目には見えないということだ。だが、言葉によって他者から切り離されたわたしたち(そうした特権的な言葉の最たるものが、あなたの名前=フルネームだ)が再び他者と交わり、円滑にコミュニケーションを行うことができるのは、まさにこうした象徴的秩序、目に見えない儀礼や不文律の接着剤のおかげなのだ。それはいやったらしい強制力によって、一度切り離された人間相互を繋げるのである。
さて、ここまで来れば、ジジェクが本当はなにを言いたいのかも明らかだろう。
明文化されない儀礼や不文律は一見すると無くてもいいもののように思えるが、しかし人間が言語を媒介してコミュニケーションを行う生き物である限り、あいまいなイメージの全体から切り離されることによって初めて他者と交わることが可能になる不十分な存在である限り、再接続のための装置=象徴的秩序の役割が軽視されてはならない、というわけなのだ。
さらに言えば、うざったらしい命令を次々に発してくる象徴界への行き来をキープし、その命令とうまく付き合いながら、同時に自己のうちに眠る真実の欲望(無意識)と対峙して生きていくのが目指されるべき方向ではないか?というのがラカン=ジジェクの提言である。
以上のように、ジジェクの短い話しぶりの中には、ソシュールの言語理論を参照したラカンの声が谺として響いている。
ジジェクの天才は谺が呼びかけてくる声を日常的な領域に引きつけることによって万人に聞き取りやすくした点にあり、問題は、その谺の本体である声(フロイトやラカンの思想)が聞き取りづらくなってしまっている点にあると言えるだろう。
ジジェクには、“元ネタ”を使い倒すあまりそれを超え出てしまうようなところがあるのだ。



・永遠にわかりたくない欲望をそそるラカン


ジジェクが画期的だったのは、それまで一見さんお断りの秘教的な思想として敬遠されていたラカン理論を、映画やサブカルチャーなどの世俗的な領域に拡大適用することによって、作品読解のための斬新な視点の提示とラカン理論の大衆的な受容を押し進めた点にある。
まー「大衆的」ゆうても、実際にはジジェクとて僕のような大衆にとってはじゅーぶんな難物なのだが、にも関わらず「わかりやすくておもしろい!」と歓迎されたほど、逆に言えばラカンは当時「なにゆうてるかわからん」存在として見られていたわけだ(笑)
今でこそ良質なラカン理論の入門書がたくさん出ているけれども、やはり本人の「わからなさ」は少しも薄れていない、そこがイイ、としみじみ思う。
ラカンの難解さの魅力を味わってみたいという奇特な御仁には、本文が80ページほどしかなく文庫で手軽に読める『テレヴィジオン』(講談社学術文庫)をおすすめしたい。「テレヴィジオン」というのはフランス語でテレビのことで、本書はラカンがテレビ番組に出演した際に一番弟子のミレールを聞き手にして行われたインタビューを文字起こしした内容。
つまり、「なにゆうてるかわからん」精神分析学者ラカンが、自分の思想を広く大衆に伝えるために/書き言葉より親しみやすい話し言葉を使って/最初で最後のテレビ出演を果たしたわけだ。当然、いつもより数段わかりやすい内容になっているはず。だれもがそう予想するに違いない。
ところが!である。
これがゲロ吐いて垂直に5m飛び上がるほど意味不明なのだ(笑)ほとんど一行も、発言のひとつとして理解できないのだから恐れ入る(笑)
とはいえ、ラカンが今日まで読み継がれ多くの人を魅了してやまないのには理由があり、ひとつには発される言葉のすべてがかっこいいということだろう。わからないならわからないなりに「この人の言っていることを理解したい」という欲望をかき立てる神秘的なパワーを持っているのだ。
例えば、
『無意識は言語によって構造化されている』
『欲望とは他者の欲望である』
『われわれは大文字の他者から常に反転した形でメッセージを受け取る』
あるいは、
『女は存在しない』
『欺かれぬ者は彷徨う』
など、なんだかよくわからないがとにかくかっこいい一撃必殺のフレーズ、ラッパーでいうところのパンチラインが無限にある(笑)
わからないからこそ、わかりたい。わかりたいのに、わからない。こうしたジレンマによって欲望は終わらない自転車操業状態へと突入し、「わかりたい」欲望は永久に持続してゆくことになる。誤解を恐れず言えば、だから、ラカニアン(ラカンを好きな人)がひた隠しにする真実の欲望とは「絶対にラカンをわかりたくない!」ということなのだ。
なぜなら、ひとたび理解してしまえばわかりたい欲望は消失し、ラカン読解に賭けた彼の青春の日々はそこで終わりを告げてしまうのだから。安西先生じゃないが、ラカニアンにとっては「わかったらそこで試合終了」なのである。
このように考えてみると、ジジェクが一部から今だに毛嫌いされていることにも納得がいく。真のラカニアン(?)にとって、ラカンをおもしろわかりやすく紹介するジジェクは、今まさに自分が楽しんでいる最中の終わらない夏休みに終了宣告を突きつける無粋な大人であり、憎むべき敵なのだ!
ジジェクに批判者が多いことの中には、ひょっとするとそれ自体精神分析的な倒錯した欲望が潜んでいるのかもしれない。


・ヒッチコックの映画や大衆文化をラカン理論を使って読み解く


さて、一周回って『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』の話に戻ろう。
僕自身、フロイト=ラカン=ミレール=ジジェクの思想、及び映画をはじめとした批評理論全般を勉強中の身であり、っちゅうかぶっちゃけビギナーに過ぎないため、以下は隙を見て更新され続けるメモ書き程度の内容になる。
そう、なにもラカニアンに限らず、だれかに強制されて行うのではない自主的な勉強は、失われた子供時代を取り戻すための終わらない夏休みのようなものなのだ。

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ジジェクによるヒッチコックの『裏窓』読解鋭すぎる。
妻を殺害し、ある部屋の内部における性的関係から完全に離脱しおおせる殺人鬼は、主人公ジェフ(ジェームズ・スチュアート)のうちに隠された無意識的な欲望を成就しているがために、アパートの住人の中でもっとも目が離すことのできない欲望=まなざしの対象となる。ジェフの無意識的な欲望とは、恋人のグレース・ケリーを追い払い、性関係から離脱することによって、自らの性的不能を隠蔽することである。と。
なるほど、たしかに絵に描いたような美男美女が驚くほどスムーズに性関係の真っ只中へとすべりこむ一連のヒッチコック映画の中にあって、『裏窓』の主人公ジェフの行動はなんとも奇異なものに感じられる。即ち、あれほど美しく可憐なグレースを彼が疎ましく感じている理由が理解できず、また説明もされないため、見ているこちらとしてはいまいち共感できないのだ。
だが、ジェフが性的不能をコンプレックスとして隠し持っており、グレースとの関係が性的な領域にまで発展する危険を恐れていると考えれば、すべての理由がはっきりする。
また、カメラマンであるジェフが“下半身のトラブル”=事故による足の怪我?により車椅子生活を余儀なくされ、それをきっかけにしてアパートの隣人たちの生活を双眼鏡で覗き見る快楽に目覚める、という基本プロットにも筋が通る。不運な事故はしかし、彼がもともと抱えていた真実の“下半身のトラブル”=性的不能を隠蔽しつつ、「あくまで隠しおおせたい」という無意識的な欲望を強化していくわけだ。
そこに現れるのが、自らの不可能な欲望を成就させた(妻の殺害)存在としての殺人鬼!ジェフが夢中になって監視を続けるのも当然だろう。

『めまい』の読解もやばい。
“人間だけが真理によって騙すことができる”。即ち「自分はマデリンだと言って騙しておいて本当にマデリンである」という虚構の次元が有り得、そのために主人公のうちに「まさかマデリンではないだろう/からマデリンとして扱う」欲望が芽生え、幻の女を追い求める捜索のドラマが開始されるが、「本当にマデリンである」ことが了解されどっちつかずのテーゼが事実の次元へ上昇するや、欲望はたちまち霧散し、捜索劇は幕となる。と。
たしかに、『めまい』において、「自らマデリンと名乗る女が本当にマデリンであるはずがない!」という思い込みのゆえに、“自らマデリンと名乗る謎の女”は主人公がマデリンを自由に投影できる欲望のスクリーン=空虚な対象へと変化するが(ラカンが言う「女は(男の症状としてしか)存在しない」の実例)、「本当にマデリンである」ことが明らかになるや、主人公の性的幻想=ファンタスムは実につまらなく味気ない真理の次元へと上昇し、新たに象徴的現実の中へと組み入れられる。つまり、「欲望は成就されることによって挫折する」精神分析的な逆説を描いた映画こそが『めまい』だと言えるのだ。
ここで重要なのは、マデリンは嘘をついていない=主人公を騙していないという点だろう。彼女はせいぜいのところ「自らマデリンを名乗る女が本当にマデリンであるはずがない」という思い込みを利用しようとしたに過ぎず、それをトリックとして成立させたものは「マデリンであってほしくない!」という主人公の無意識的な欲望の方なのだ。
まさにラカンのパンチライン「騙されない者は彷徨う」を地で行くような話である。


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