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聴かせて!「手話サークル萩」のわがこと

今回お話を伺ったのは、わたしたちの主催イベントでも同時手話通訳でお世話になっている「手話サークル萩」さんです。
昨年から今年にかけて目黒蓮さんや北村匠海さんがテレビドラマでろう者の役を演じたこともあり、サークルに足を運んでくれる若い方がこのところ増えているそうです。
それはもちろん素晴らしいことなのですが、実際に関わっている方のお話はちょっと思っていたのとは違って…

「聴かせて!みんなのわがこと」とは?
香川県内でとても素敵な活動をされている個人や団体にスポットライトを当て、「共感の輪が広がっていってほしい」という想いから、その活躍や想いなどの わがこと(我が事)をインタビュー形式でお届けします。

Vol.9
手話サークル萩

サークルのみなさん。勉強会終了後の1枚。
いつもはもっと賑やかだそうです。

健聴者もろう者も、みんな一緒に繋がりたい

―今日はサークル活動の貴重なお時間を割いていただいて、ありがとうございます。

山田さん:こちらこそ遅い時間に来ていただいてすみません。みなさんお仕事や家の用事をすませてからなので、どうしても活動は夜になってしまうんです。

―そうなんですね、おつかれさまです!山田さんがサークルの代表をされているんですね。

山田さん:そうです。ただ私は設立当時からの会員ではないんです。当初から関わっているのは松岡さん。

松岡さん:はい。私たちのサークルは1986年10月設立で、今年で37年になります。

―そんなに長く活動されているんですね!普段はどんな活動をされているんでしょうか。

山田さん:活動拠点は牟礼地区で、毎週金曜日に牟礼コミュニティセンターで勉強会をしています。
サークルには健聴者の人もろう者の人もいて、勉強会の内容もろう者と健聴者がそれぞれ考えて、一緒に学びあっています。

―健聴者、ろう者というのは、なんとなくは分かるのですが、具体的にはどんな意味合いがあるのでしょうか。

山田さん:「ろう者」という言葉は、耳が聞こえないという事実に加えて「手話や口話など視覚的手段によってコミュニケーションを行う人」という意味があります。ろう者の人にとって、自分のアイデンティティに対する呼称なんです。
そして、その反対語が聞こえる人「健聴者」となります。

―なるほど、ありがとうございます。牟礼地区が拠点ということは、牟礼町内の方が多いんでしょうか。

松岡さん:そうですね。まだ高松市になる前、木田郡牟礼町だった頃はほとんど町内の人だけで、仲間内で和気あいあいとやっている感じでした。

今は町外の方も増えてきて、手話の資格を取りたいという人もいたりするので少し雰囲気は変わってきていますけど、地域と繋がって交流を深めていくという根本のところは今も変わらないですね。

―もともとサークルがスタートしたきっかけはどんなものだったんでしょうか。

松岡さん:十河さんという、ろう者のご夫婦が定年退職で大阪からUターンで帰ってこられて、牟礼町で手話講座を開いたのが始まりです。

ご主人は戦前、東京に行って口話教育を受けられました。口話というのは口の形から言葉を読み取って、口の形を真似することで言葉を発する手法で、ご主人は当時としてはとても先進的な教育を受けた方でした。

十河さんご夫妻は地域のみんなと繋がりたい、そのためには地域の人たちに手話を習ってもらいたい、と町に掛け合い、町民向けに手話講座を始めたんです。

山田さん:私たちの思いはそのころも今も同じですね。健聴者だけ、ろう者だけじゃなくて、健聴者もろう者もみんな一緒に繋がりたい、という想いがサークルの原点なんです。

その日の学習テーマを決めて、講師役の人が手話をメインに進行していきます。

自分のまわりに困っている人がいるから、なんとかしたい

―お二人は手話通訳のお仕事もされているんですよね。

山田さん:通訳の仕事は手話通訳者として登録をしている香川県聴覚障害者福祉センターから派遣依頼を受けて、個人として病院やイベントなどの現場に出向いています。
他にも手話通訳者として活動されている方はサークル内に何人かいますよ。

―てっきりサークルとして手話のお仕事を受けているのだと思っていました。

山田さん:サークルはあくまで健聴者とろう者との交流の場であって、手話を勉強するのもお仕事のためではなくて、交流のためですから。

―そうですね、なるほど。ところでそもそも「手話」というのはいつごろから始まったんでしょうか。

山田さん:1760年にミシェル・ド・レペがフランス・パリに最初のろうあ者教育施設を創設し、手話での教育が始まったとされています。アメリカでもレペの弟子から手話法を学び帰国したギャローデットによって広められました。

日本では1878年に古河太四郎が京都で「京都盲唖院」を設立し、手話の原形というべき言語が生まれたようです。ただ、その後しばらくは日本で手話の地位は低いままでした。
1963年に京都で手話学習会「みみずく」が誕生し、さらに健聴者でも手話を学び使えるようにと、1969年全日本ろうあ連盟から「わたしたちの手話」第1巻が発行されました。そうして、少しずつ手話が広まっていったんです。

わたしたちが手話を習い始めた頃は、まだ手話の辞書があったという程度でした。ろう者の方も、年配の方ほど文字を学ぶ機会が少なくて文章を書くのは苦手なので、手話を学ぶためにはろう者と実際にコミュニケーションを取るしかなかったですね。

イベントで手話通訳する松岡さん。お二人にはわがこともお世話になっています。
ろう者の方が学び、発言する機会が「当たり前にあること」を大切にしたいですね。

―おふたりが手話を始めたきっかけは。

松岡さん:学生の頃、田村町にあった香川県立保育専門学院(2011年閉校)に通っていたのですが、そのときに所属していたサークルが太田の聾学校(いまの香川県立聴覚支援学校)と交流があったんです。
JRで通学していたので、車内で会う子どもたちと話をしてみたいなと思ってました。
ただ、その後しばらくはなにもなくて。

保育所で働き始めて、そして結婚し子どもが小学校に上がったころ、十河さんご夫妻の手話講座が始まることを知り、わりと軽い気持ちで申し込んだのが最初です。
「手話はまだ誰もやっていないし、みんなスタートラインが同じだから面白そう」という感じでした。

講座で教えてもらった手話が通じたときは、嬉しかったのをいまでも覚えています。

山田さん:私は松岡さんと保育専門学院の同期なんですが、学生時代は別のサークルだったので特に聾学校の子との交流はなかったです。
結婚して牟礼に来て、近所に住む夫の幼なじみがろう者だったんです。夫は特に気にも留めていないようでしたが、二人の間に会話がないのが気になっていて、お話ができたらいいなと思っていました。

その後、松岡さんと同じ保育所に勤務することになり、お誘い頂いてサークルに参加することになったんです。

―ここまで長く続けてこられた秘訣はなんでしょうか。

山田さん:私たちのスタートラインは「地域のろう者の方と交流したい、困っている人を支援したい」なんです。手話を勉強するのもそのため。
必要にかられて手話を学び始めた、というよりは、手話のおかげで地域の方やろう者の方と繋がることができていて、それが楽しくて…だから今も続けているんだと思います。

松岡さん:十河さんご夫妻の力になれることも単純に嬉しかったですね。いまでは生活の一部で、生活の中にたまたま手話がある、という感じです。ボランティアをしているという感覚はないですね。

勤めていた保育所にろう者のご夫婦のお子さんが入ってこられたときがあったんですが、私がいればお母さんとお話しできるけれど、私がいないときもあって。そうしたら保育所の所長さんのひと声で、先生みんなが手話を勉強することになりました。
その後、その子が幼稚園、小学校に行ったときにも、先生たちは手話の学習に協力的でした。みんな自分たちの教え子だから、ボランティアクラブに関わったりご夫婦にも寄り添ったりして、なんとかしてあげたい、という気持ちでしたね。

―そうか、「自分のまわりに困っている人がいるから、なんとかしたい」なんですね。手話ができるってなんとなく「スキル」「資格」だと思っていたけど、シンプルに「コミュニケーションの手段」なんですよね。

山田さん:高松市内には地域ごとにそうした手話サークルがあるんですが、みなさん同じ思いなんじゃないでしょうか。
ろう者の人になんとかして自分の想いを相手に伝えたい、という思いが大切だし、相手に歩み寄るという気持ちを大切にしています。


地域のお祭りで手話体験イベントを開催。
ここでも地域でのつながりを大切に。

手話がもっと広がっていくために

―手話がもっと広まってくれたらいいなと思うんですが、そのための課題はなんでしょうか。

松岡さん:まず1つは、手話が使える場所が限られるということですね。
県の知事記者会見や大きなイベントでは手話通訳が付くこともありますが、セミナーやイベントに手話通訳が付かないと、ろう者の人が学ぶ機会が失われることになります。

また、災害が起こったときに避難所でコミュニケーションをとれる人がいないと対応が遅れてしまうという問題もあります。ろう者の方の避難場所には手話の分かる人がいるというのが理想です。

山田さん: 手話は地域性が強いというお話をしましたが、結局はコミュニケーションのためのツールなので、地域内のろう者になるべく伝わりやすい言葉を使います。そうするとどうしても地域によって言葉が違ってくるという、いわゆる方言の問題があります。

たとえば香川県内のろう者が使っている古い手話では「坂出」という単語は手話で数字の6をつくって、それを左の掌に当てます。これは当時、坂出駅が高松駅から数えて6番目だったからだそうです。
県外ではこの手話で「坂出」とは伝わらないでしょうね。

いまは標準手話が全国で統一されてきているので、手話の方言は減りつつありますが、それぞれのろうコミュニティで生まれた手話を大切にしつつ標準手話にも馴染んでいけたらと思います。

松岡さん:それと教育の問題もあります。
実はろう学校では、以前は手話が禁止されていました。今の社会は口話が主で手話の分かる人はごく少数なので、社会に出るためには口話を使うべきとされていて、手話を使うのはみっともないとされていたんです。

ろう学校の先生もほとんどが健聴者で、話す内容も分からないし勉強も進まなくて、どれだけ能力があっても学ぶことに限界がある、そんな差別的な状況だったんです。

いまは手話が容認されて、手話ができる先生も増えてきてろう者の先生もいます。
そんな背景もあって、聴覚障害者でも手話が得意な人、手話よりも口話が得意な人、とさまざまなんです。

―なるほど…ぼくたちが言葉を話すのと同じように、耳が聞こえない人はみんな手話を学んで話すものだと思い込んでいましたが、そんな単純なことではないんですね…

年配の方も若者も一緒に。お子さん連れのお母さんも。

弱者に優しい人が増えてほしい

―今後、どのような活動を考えていますか。

山田さん:いまはテレビドラマの影響で手話に興味を持つ人が増えていて、参加者も増えているのはとても嬉しいです。
どんなきっかけでもいいので、手話に興味を持ってもらって、なるべく手話の勉強を長く続けてもらいたいですし、ろう者の方と繋がり続けてほしいと思っています。

松岡さん:37年前にサークルが立ち上がった頃は、連絡を取るにも直接出向くとか、電話が使えないのでFAXで、という調子で、ろう者の方が社会と繋がるのはとても大変なことでした。

それが今ではスマホで音声変換もできるし、LINEもある。病院に行くにも通訳が同行する必要がある場合、コロナ禍では遠隔手話通訳も取り入れられ、少しずつではありますが聴覚障害者にやさしい時代になってきたな、と思います。

ただ昔も今も、気持ちまで理解するなら対面が一番と思っています。

まわりでも手話を覚えたいという人は増えているし、理解してくれる人も増えてきている。
そういう人を増やしていくのも、サークルの目的の一つです。
弱者に対しても優しく接したいと思う、そんな人を増やしたいんです。

山田さん:ろう者の方はこれからも一生耳が聞こえることはないわけで、だからこそ今だけじゃなくてろう者の方に寄り添うためにずっと学び続けてもらえたら嬉しいですね。

そうしてたくさんの人が勉強を続けていけるように、楽しいサークルを作って行きたい。それが私たちの想いです。


取材を終えて

「地域の方と繋がりたい、健聴者もろう者もみんな一緒に交流したい」
これがサークル活動の原点。取材中、お二人の口から何度も何度も出てきた言葉です。
そして、お二人が手話を始められたのもこの想いから…。

サークル活動にも少しだけお邪魔させていただきました。ろう者の方が先生となり、手話はもちろんイラストや筆記を交えて、20名くらいの参加者に向けてお話をされていました。
私が参加させていただいた時間帯は「手話を教える」というよりは、「手話での世界観を共有する」という内容で、健聴者、ろう者ともにみなさんにこにこと、そしていきいきとした表情で参加されていました。

これがまさに、地域の方と繋がる、健聴者もろう者もみんな一緒に…なんだな、と実感!お二人の想いが通じているんだなと思いました。

インタビュー終了後に山田さんとわがことスタッフで。
お忙しいなか、ありがとうございました!

手話サークル萩
 お問い合わせ:牟礼コミュニティーセンター 087-845-4111


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