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無我

寒い日が続きますね。
朝は霜が降り、畑の野菜たちも凍っております。
そんな野菜たちを見ると、日に日に甘くなっているのだろうと想像してしまいます。
「今イチオシの野菜はなんですか?」と聞かれると迷わず…いえ、「蓮根、ごぼう、人参、菜花に……」など迷いに迷った末「大根!」と答えるであろう、八百屋sanukisを営む、わがことの鹿庭が今週のnoteを担当させていただきます。


前回僕が書いたnoteでは宗教のことについて触れさせていただきました。
時々「公の場で宗教の話はやめといた方がいいですよ」とご指摘を受けることもあります。
反対に、「宗教の話をちゃんと聞けることが少ないから新鮮」と言われることもあります。
僕自身、霊的感覚を強く持って生きたいと思っています。霊的感覚とは霊感を持つということではなく、自分が魂の存在だという認識を持っているということです。
そういうわけで、今年は、仏教の言葉をもとに新年の抱負を決めました。

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釈迦の教えに「三法印」というものがあります。

「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三つです。

「世の中の物事・現象に不変なものはなく常に移り変わるもの」という意味の「諸行無常」は耳にすることが時々あると思います。永遠に存在するものはなく、物質に限らず人間がつくり出したものは全て移ろいゆくものなので、物やお金、地位、権利などに執着してはいけないということなんですね。

「諸法無我」 
この世に存在するあらゆる事は因縁により生じるもの。
「我」という実体の存在は永遠ではなく、いずれ滅びゆくものという意味です。(※因縁とは、ものごとは全てその起原(=因)と、結果に結びつく作用(=縁)で成り立っているということです。)
本当にそうだな~と思うのですが、滅んでゆくとは「死」に結びつく、なんとなく悲しく寂しい教えですね。なおさら、一度きりの人生を楽しく幸せに安心して生きたい気持ちになるかと思います。

なかなか学校では教えてくれませんが、諸法無我も「我」という肉体には限りはあるけれど、実体のない「魂」は永遠の存在としてあり続ける、ということなんですね。
魂は学びを深めるために何度も何度もこの世に生まれてくること、魂の方が実在であり肉体の方が仮のものだということ。たとえあの世の存在を信じている方でも、今この世で生きている私たちにはなかなか受け入れ難いなのかもしれないですね。

「我」に執着しない生き方
人間がそのような魂の存在であるなら、いずれ無くなっていく自分という存在・モノやお金・人間関係に執着しない方が自然なのではないかなと感じます。
「執着しない=無関心」ではありません。全くの無欲ということでもありません。人間は生きていく上で欲も必要で、自分以外の人や社会やさまざまなことに関心を持たなくてはいけません。自分自身が成長するためにも大切なことです。

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ただ僕は恥ずかしながら何年か前までは「我」ばかりでいたように思えます。
「自分が大変、自分がしんどい、自分はこんなに頑張ってる、自分がしていることを認められたい、自分はこう生きたい、自分はこれだけ仕事をした、自分は優しくしている、自分は理解している、自分は我慢している」など、口にしていなくてもどこかで「自分は自分は」とそう思っていました。
誰かの役に立とうとしても、そういう自分を認められたいと考えていたと思います。何かのために仕事を頑張っていても、待遇や給料などで認められたいと考えていました。

「自分がこれだけすれば上司は認めてくれるだろう、自分が頑張っていれば他の人はわかってくれるだろう」そんな意識が自分のどこかに見え隠れしていたと思います。そういう時、訳もわからず何か苦しかったり、自分の現状を受け入れられなかったり、誰かを責めたりしてしまいました。
不満や嫉妬、不安や怒りは自分の執着が生み出すものなんですね。もちろん、正当な怒りや生きる上での不安など、自分の命や生活を守るために必要なものはあります。

宗教においてさまざまなことを学ぶ中で、自分というものに執着しない方が、結果として自分がより楽になれたり自分がより幸福感を得られたりする体験を何度もしてきました。厳密にいうと、自分が幸福感を得られ安心できたのではなく、相手の幸福が自分の安心や幸福だと感じられるようになってきました。

「自分が幸福を感じるために誰かのために何かをする」のではなく、「自分の成すことが誰かのためになっている、それが自然な自分でいられる」ということです。

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「無我」というと自分を無くした生き方のようにとらわれてしまうかもしれませんが、全く逆だと思っています。自分は何を成すべきか、自分とはどういう存在かを客観的に見て、また自分の心の弱点を見極め反省と成長を続けることで、人や世の中により良い影響を与えられるようになるのだと思います。

見返りを求めず、自分の時間や力を誰かのためにつかえる人は、ただそれだけで愛されるのでしょう。しかし不思議なもので、同じことをしても見返りを求めた瞬間にそれは欲になり、その行為を施した人も施された人も幸福感が得られなくなってしまいます。
人や物や立場にも執着をもった瞬間に、自分のところから離れると失ったり裏切られたりするような気持ちになってしまいます。


仏教の言葉で「大我」というものがあります。個人的な主観や執着を離れた自由自在な境地という意味です。

無我の大我
永遠でも不変でもないものに執着をせず、個人の狭く小さな考えから離れ、自分自身がこの世界のためにどのような存在でいられるのかと考えられたときに、自分を制限する負の感情の縛りが無くなっていくのだと思います。この人生において個人として成長し、それが永遠の存在である魂の成長へとつながっていく………

昨年はそう強く感じることが多かったことから、今年はさらにいろんなことが起こりそうな予感がビシビシしていますので、「無我」を抱負にしようと思いました。
僕自身、まだまだそんな境地に立てているわけでもなく、経営者としても未熟者ですので、そのような目標を掲げてみた所存です。
ただ、永遠の魂の存在があるという証拠はなく、証拠がないことを教えようとしている宗教にさまざまな意見や評価は持たれますが、僕が大切にしていることは証拠があるか無いかではなく、どのような価値観が本質的に人を幸せにできるのかということです。

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地域にあるもの、地域で行われていることも本質的にどうなのか。
子育てや家庭、貧困、介護や福祉、教育や給食、農業、ジェンダーや人権、感染対策にワクチンなど、今考える素材はたくさん溢れていると思います。
様々な価値観を知ることももちろん大切なことだと思いますが、日本の歴史や文化、精神性を知り、古くより積み重ねられてきたものを見返して、自分たちの命をまた次の世代にどう繋げていけばいいか考えたいものです。
地域の力は、自分たちを守ることではなく、自分たちが未来を守ろうとすることでより強くなっていくと感じております。

流行り風邪にはかからなくても生きにくい世の中にはしたくないですね。
美味しいご飯と運動と睡眠と優しい心と与える愛で、心と体の免疫力をしっかり上げてお過ごしください。

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