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TRPGとレジャーシート〜遠足〜
ここ数年、私はTRPGなるものにハマっている。
所謂、”おままごと”や”ごっこ遊び”の延長線で。参加者全員が一つの世界、一つのルールを共有し、思い思いの冒険活劇を繰り広げるのだ。
私はその中でも”マスター”と呼ばれる奉行役を行うことが多い。
マスターの仕事は様々だ。
時には裁定者として、参加者の行動や提案をゲーム世界に違和感なく落としこむ。
またある時には、「街道を行き交う行商」や「隊商の積荷を狙う盗賊」となり、参加者の前に立ちはだかる。
これらマスターの仕事に共通しているのは、参加者を導き、ある程度制限のある盤上で”可能な限り自由に”空想を楽しんでもらうことだ。
そんな、この役割(ロール)大好きで、オリジナルのシナリオを作っては、週末は友人達に遊んでもらっている。
私のライフワークになりつつある素晴らしい時間だ。
長い間、TRPGをする(もしくは創作活動をする)自分は「自分の世界を他人に知って欲しい」「絵や言葉で世界を表現したい」と、考えているのだと思っていた。
動機や原動力というやつだ。
しかし、最近「それだけじゃないんじゃないか?」ということに気づき始めた。
自分の原点を辿り、理由付けを行う中で、自分が「なぜTRPGにハマったのか?」「なぜ自分の物語を作り続けるのか」少しずつ見えてきた。
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小学生の頃、遠足にはお弁当と”レジャーシート”が必須だった。
“しおり”にある見学を適当に終えて、お昼を迎える。そうすると同級生は全員、地面に一畳ほどのシートを広げた。
一人でお弁当を食べるには十分過ぎる広さだ。友達と寄せ集まれば、パッチワークのように色彩豊かな景色が生まれる。
皆が楽しそうにしているそんな時、私はそこに集まり損ねていた。
長男坊で、人見知り。友達はいるけど、その”また”友達という関係は苦手でしょうがなかった。
結局、小学校初めての遠足は担任の先生とお昼を食べた。
哀しくはないが、いい思い出でもない。
おそらく、先生はそのことを両親へ電話などしたのだろう。
初めての子育てで不安だらけの中、両親は私に”新しいレジャーシート”を買ってきてくれた。
小学校低学年で、それを使う時は意外に早く来た。
お昼になると、子供達が野原にシートを広げだす。
地域柄、寒くなる時期に強い風が吹くため、青空の下、あちこちで帆を張るようにレジャーシートがたなびく。
そんな中、恐る恐る私が広げたレジャーシートは”他の子のシートを10枚繋ぎ合わせても勝てないくらい”大きかった。
周囲の驚く顔を今でも覚えている。
私は、瞬く間に人気者になった。
沢山の乗り物や建物、風景や動物が描かれたレジャーシートは”一つの世界”だった。
皆が私のシートに乗りたがった(ほとんど友達だったが)。
広々としたはずのシートは、あっという間に窮屈になり、肩を小突き合いながらお弁当を食べた。
それから私は、他の人をシートに乗せるのが好きになった。
それは、大きさを自慢したいとかそういうのではなく、”自分の作った空間で、友達が楽しんでる”ということが嬉しかった。
その歓びに笑いが止まらなくなるほど心が震えていたのだ。
少し気質が違えば、イベンターとか、そういう類の人間だったのかもしれない。
しかし、結局は抗いようのない人見知りだったので、皆が楽しそうに話したり、シートに描かれた道路を指でなぞってレースゲーム(?)をしたりしているのを見るので充分だった。
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ダイスを握り、アドリブの光るロールプレイをする。
息つく暇もない謎を追い続けるのもTRPGの醍醐味だ。
そして、それらを引き立てるための際立った情景描写、哀愁のある自作パネル絵。
TRPGほど創造性に富んだ遊びは他にない(と思う)。
ただ、求めているものは、常にあの日と同じもの。
レジャーシートを広げて、目の前に開かれた大きな舞台と繰り広げられるドラマを友人達に楽しんでもらうように、シナリオという世界を広げる。
自分にとって、表現が行き詰まったり、作品を他者と比べてしまった時、創作という言葉が重くなり過ぎてしまった時には、この気持ちが大事だと言い聞かせている。
誰も彼も背負えなくていい。
ただ、楽しませたい目の前の人に誠意でもって物語を届けようと思える。