斜陽を2冊購入してしまった話
初めて同じ本を2冊買うということをしてしまった。
斜陽 太宰治
あまりにも有名だ。私は、タイトルだけで話を思い出せなかった。
本をなんの疑問もなく購入し、冒頭を読んだとき全てを思い出す。
スープを啜ってお母さまが「あ」と言ったように
私も「あ」と声を漏らす。
おかあさまのふんわりした端麗さ
かず子と直治という名前
恋と革命
没落貴族
すべてが私の中で繋がった。
やってしまった。おんなじ本を2冊購入してしまった。
私が一回目に斜陽を読んだのは(noteの記事にもある通り)2020年の1月だ。
一年以上前なのに、すんなりと思い出せた。
というのも、今も良くしてもらっている教授に
○○さん(私)の斜陽の感想を聞きたい
と言われたからだ。
自宅でブックカバーをつけた斜陽は、私の目には止まらなかった。
そして、愚かなことにいそいそと私は本日本屋へ向かったのだった。
書籍について、分かち合う対象と言えば
私にとっては母であった。
東野圭吾、朝井リョウ、池井戸潤…すべて母の好きな作家だ。
しかし母は純文学は読まない。
私が文学部に進んでからは、私はあまり現代小説を読まなくなってしまった。
純文学を読まない母に送りつけてはどうかと思った。
文字通り押し付けがましいことではあるが
母から私へは読みきれないほどの本が送られてきており、うちに散乱している。
面白かったから読んで!と勧めることを可能にしているのは母なのだから
私からもなにか送ってもいいかもしれない。
そうして読まれずに実家に置いてあっても
読まれてなにも感想がなくやっぱり純文学は好きじゃないと言われても
私のこの手元にある斜陽へ存在していいと言っているような気になれる。
私から送る本は私が読んだ本だし
母から送られてくる本は(私が読んでいなくても)母に読まれた本だから
どちらかは内容を知っていて、今の母や私を形成しているのだから。
とはいえ、一年ぶりなので一度読んでから送ろうと思う。
同じ本を読み返すことは得意ではないが
純文学は表現を楽しむ文学だから、大丈夫だろう。
そして、感想を書いて、一年前の感想と照らして、教授に送ろう。
私は誰かに何かを送ってばっかりいるが
それはスゴく有意義なお金や時間の使い方だと思った。
特にオチもない私がやらかしただけの話である。
もしかしたら母も同じことをやっていたりして。