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Grapevine新曲「Ub(You bet on it)」で、田中和将は何と戦い、何にbetしたのかについて

 標題の通り、Grapevineがニューアルバム「Almost there」に先駆ける形で「Ub(You bet on it)」(※ 以下Ub)をリリースした。A24風のMVでフルサイズ聴くことが出来るので、まだ聴いてない方にはひとまずおすすめをしておきたい。

 さて、かれこれ四半世紀もディープなGrapevineファンなので、新譜が出る度に自分の人生に一つアプデが入る様な気持ちで作品を聞き齧っている。当然、今回も箪笥から袈裟を出して一番険しい山の上で坐禅を組みながらGrapevineの奏でる新しい調べに身を任せて瞑想をしているのだけれど、暁方、ついに啓示が降りてきたのでこの岩にそれを打ち刻み始めるところだ。誰ぞこの幽境に辿り着き我が碑を解読しようとするとも思えぬが、まあ、よい。
 まあいい。
 トレーラーのコメントを見ていると、「深読み前提になっているのは違うと思う」というものを早々に見つけて、「ならわざわざバインを聴かんでも」と思った。思ったが、容易く唾棄するべきものでもないか、と考え直す。ちょうどこの曲を聴く前に、米津玄師の「地球儀」に大きく心を動かされていて、それとの違いについても考えさせられるところがあった。「地球儀」は、多くの人の深いところにまで響かせることのできるパワーがある。それは歌詞の表層だけを見ても、正しい場所に正しい言葉が整頓されてある分かりやすさがあるのと同時に、その内側には自身の半生や宮崎駿という日本屈指の怪人との対峙、宮沢賢治やパウル・クレーと言った、米津玄師に深く影響を与えてきた作家と再び向き合うこと、といった様々な要素が複層的に折り重なっている深みがあるからだろう。「深読み前提」ではない優れた作品があるならば、きっとこういうものを言うはずだ。
 翻って我らがGrapevine「Ub」の歌詞を見るとまあ何という分かりにくさ。何について歌っているのかさえ、初見ではほとんど分からない。そもそも意味などない様にさえ見える。しかしそんなはずはないことをファンは誰しも知っている。初めはあれほど取っ付きにくかった曲が、ある時、ユリイカとも言える瞬間を得て、自分の中にするりと入り込み寄生してしまう。そんな感覚を何度となく味わってきた。そして今なのである。僕の身体の中ではUbがもう、血液を巡り巡って訳がわからん。すっかり効いてしまったのだ。まさに深読み前提の作りと思える。

 さあ開いていこう。

 違和感の始まりは2番のサビだった。

世界中が素敵だと感じたなら
あと一息ってとこさ
呆れるほど革命的なアティチュードで
きみを守り抜いてやる

 何とポジティブなフレーズだろう。人生は大団円に向かっている。ゴールはもうそこ(Alomost there)と高らかに歌い上げる田中和将。
 らしくない? いやそんなことだって歌うだろう。けれど何かが引っかかる。

〈疑問〉世界中が素敵ならば、俺は、一体何から君を守り抜くのだろう。

 一番では「世界中が敵」と断じたものが、打って変わって「素敵」になる。単純に聞き手として、この逆転と飛躍に、まずついていけなかったのかも知れない。
 しかしある着想をきっかけに、この違和感が恐ろしいほどの理解に変わる。まさにカードをひっくり返すように。

 その着想は、一つのSF小説の世界観を思い出したことだ。カート・ヴォネガットjr.「プレーヤー・ピアノ」。ハクスリーの「すばらしき新世界」やオーウェルの「1984」の世界観も、これに類するものだろうが、つまりはこう言うことだ。

 ーー文明が進みに進んだ未来。人類はついに、全人類が幸福に生きられる社会システムを構築し、世界中の全ての人が、世界を素敵と感じられるようになった。しかし、その世界に生きる主人公ポールは、その社会対する違和を感じて対抗しようとする。

 ずいぶん前に読んだ小説で、うろ覚えもいいところだが、僕が思い出した物語はそんなあらすじだ。まさにこれだと思って歌詞を読み直すと、全てがぴたりと当てはまるように思えてくる。
 初めからいこう。

誰もがそれに飛びついた
おれはどうでもいい気がした

 のっけから出てくる「それ」。全くもって不親切な「それ」とは一体何を指すのか? 先ずはこれを暴かなければならない。「新しい果実」から2年、その間に誰もが飛びついた「それ」とは畢竟、今年に入り、俄かに右も左も大騒ぎし始めたChatGptのことである。
 この新しい世界的なスターのようなテクノロジーは、確かに単なる流行り物として「どうでもいい」と受け流すことも、ありふれた態度と言えるだろう。
 しかし、現実は、全てのものの判断において、ビッグデータとAIの活用が幅を利かせるようになってきている。コロナ禍対策も然り、ウクライナ危機もしかり、次に何の映画を作るかもAIの判断にたよるようになり、そもそも音楽や絵画すらも、AIが自動生成して、人間の制作物を駆逐しようとする動きが始まっている。人間の感受性というものは、データ化出来ないものだという僕たちの神話を「ホモ・デウス」の著書ユヴァル・ノア・ハラリはきっぱりと否定する。人間が何に心地よく感じ、何に感動して、何を購入するかを探るのは、むしろテクノロジーの得意分野だと教えられて寒気がした読者は、僕だけではなかっただろう。今回の「Ub」が対決するものは、まさにビッグデータとAIが人間の知性や判断、芸術を飲み込もうとする潮流なのではなかろうか。そして、「Ub」が水先案内案内している「Almost there」(ほとんどそこ)というタイトルは、つまりシンギュラリティを指しているのではかと予感している。

そう読むと、

次はスペードだ


と予言しているのはAIであり、剣や死を意味するスペードを告げるその声は、ウクライナ危機を思い出させずにはいられないし、不吉極まりない。

  1番のサビは、後ほど2番のサビと比較して改めて検討するとして、

新しい果実には当然
熟す時が訪れる
彼等はもう頬張る寸前 いやもう遅い
既に食べてしまったんだろう

というシークエンス。前作「新しい果実」という言葉がそのまま使われていることで、読み返せばますますこの歌詞を難解にしているのだと感じてならない。
 「新しい果実」とは、「ねずみ浄土」の中の「新たな普通」というフレーズが示す通り、あの時産み落とされた「新しい日常・ニューノーマル」という造語を引っ張った、コロナ禍の世界を描いてのワードだ。(「ねずみ浄土」は田中和将にしてはまことに珍しいまっすぐな応援歌だった。)
 しかし、時代が移ろえば新しい果実は次から次へと実り出し、その都度姿を変えるのだろう。ある象徴的な言葉の多義性というのは、田中和将が好んで使ってきた言葉遊びだし、そういう意味では、「Almost there」(ほとんどそこ)というタイトルも、シンギュラリティ以外の意味を持った使い方もしてくるはずで、今から楽しみだ。
 さて戻って、「新しい果実が熟す時」というのがまさしくAIが人間を超えるシンギュラリティであり、人類滅亡の始まりとしてSF作品お馴染みの世界観である。政治的判断をAIに頼って人類滅亡なんてシナリオ、子どもの頃から手塚治虫で何度も読んだ気がするけれど、大人になるとまさに政治家は答弁に「ChatGptを取り入れてみたい」なんて、無邪気に語ってる。「頬張る寸前、いやもう遅い、既に食べてしまったんだろう」がそのままだ。

 続いて、

熟れすぎたのは 是か非か

という一文。
 対応するのは前作「新しい果実」のリードソングとなった「Gifted」。「神様が匙投げた 明らかに薹が立った世界」である。「薹が立つ」も難読だが、要するに「熟れすぎた」と同じ意味だ。つまり熟れ過ぎたのはこの文明であり、それが是が非かと田中は我々を脅しているわけだ。

 そして最初の違和感だったサビに入る。

世界中が素敵だと感じたなら
あと一息ってとこさ
呆れるほど革命的なアティチュードで
きみを守り抜いてやる

 これが2番で、

世界中が敵だと感じたなら
選ばれたってことさ
呆れるほど独創的なプレイスタイルで
今ひっくり返しちまえ

 これが1番である。

 こうなると2番がより分かりやすい。
 世界中が素敵に感じるのは、既にビッグデータとAIに全てを支配されたプレーヤー・ピアノの世界であり、言ってしまえば人間性の放棄、ユートピアに見せかけたディストアの牢獄である。世界とは本来、素敵なものもあって、イラつくものも、不浄なものも、醜いものも混在していて初めて正常なのだ。だから革命的なアティチュードで君を守らなくてはならない。田中和将の子どもたちだったり、或いはリスナーだったりするのかもしれない。(ちなみに先行曲「雀の子」で「雀の子マイベイベー」と叫んでいるように、今回田中のいうベイベーとは我々ファンのことのようだ。)

 ようやく1番と比較する。
 AIに屈しないというのは態度の問題であるので、必要なのは「革命的なアティチュード」になる。一方で、世界中を敵にまわす人物が持っているものはプレイスタイルになる。
 AIアートはどうやって作品を形成しているかというと、世界中の人間が「これが好きだ」というビッグデータを読み解き、その合意点として一つの解答を提示している。もちろんChatGptも同じからくりだ。だから、自分が全然認められない、世界中が敵と感じる人間こそがAIの取捨選択で捨てられたものであり、逆説的に言って、「呆れるほど独創的なプレイスタイル」を持っている訳である。彼だけが、最適解を出してくるAIの作品をひっくり返すことが出来る。彼こそヴォネガットの「プレーヤー・ピアノ」の主人公たるポールにそっくりだ。(同時に「Gifted」で「お前の勝ちをくれないか」と呻いた主人公の逆襲でもある。与えられなかった無価値こそ価値であると。)

 「ひっくり返しちまえ」という視点は第三者でありポール的な人物への共感と応援である。2番になって、「守り抜いてやる」という視点は当然当事者であり、決意表明をする田中自身に他ならない。最後に放つ

ひっくり返すのさ
賭けてもいいぜ Baby

とは、文字通り、ポール的人物がAIの支配をひっくり返すという挑戦に賭けている第三者的立場でありつつ、同時に当事者のプレーヤーとして「この戦いに人生を賭けてもいいぜ」と田中和将が宣言するようにも聴こえる。

 いや、そうとしか聴こえない。

 この「理解」と僕が感じるものが、曲解なのか誤解なのか、空に尋ねても答えは返らない。見渡す限り人は居ないし、目の前には雲海と、4000字を彫りつけた異様な岩があるだけだ。何という静けさだろう。礫石を握る手は血で滲み、痩せこけて髭も髪も伸び放題だというのに、鼓動だけ、恐ろしく生き生きとしている。思えばGrapevineという預言者に出会ってかれこれ25年がこうだ。
 多くの人と深くを共有する「深読み前提でない作品」。それは感動の共有であり連帯である。顔も体も心も歳も生き方も何もかも違う他者と音楽を通してそれを行えるのは、まさに魔法だ。美しい。
 しかしGrapevineは常にそれを退けてきた。歪で難解で不穏。そこに何かを探してきた。何故なら、この世界が歪で難解で不穏だからだ。もちろん、美しさもある。そしてそれは、その、歪と難解と不穏を知っていればこそ見出せる美しさと、安らぎだ。
 きっと、新譜「Almost there」には、
もちろんそれらがつまびらかに執拗に描かれているだろう。疑うかい?

 賭けてもいいぜbaby

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