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手のひらの上/Grapevine 読むバイン#2

#2 #手のひらの上 #Grapevine #覚醒 #読むバイン #和田東雲  

歌詞全文はこちらをご覧下さい https://g.co/kgs/rmEqTcX

https://youtu.be/ehOom-OhG-Y?si=p0mV3W-usMcmoaQA

 「はじめに」で広げた大風呂敷。Grapevineとは最も優れた小説であり、詩であり、絵画であり、映画であり、批評であり、哲学だという宣言。十分あなたが合点がいったとは、僕も思っていない。歌は歌だ、とあなたはいうかも知れない。伴奏があり、響きが乗り、そこには言葉がある、それが歌だと。
 確かにその形式は歌だ。しかしながらその実態は、たった一つのものだと断言することは、誰にも言えないだろう。「ラジオ体操第二」も歌だし、「Let It be」も歌だ。けれどその役割は全くに違う。人の心にどのように働きかけようとしているのがまるで違うし、その効果も違う。どのようなバタフライエフェクトをもってしても、アップルレコード本社の屋上でポール・マッカートニーは「ラジオ体操第二」を歌ったりはしない。

思い出したくもない事思い出になってた
言葉じゃ簡単なんだけど ほら

『手のひらの上』/Grapevine 田中和将 以下略

ただ好きなだけじゃこの手 離れるだけ
手のひらの上 残る 儚いもの 溢さぬ様

 気持ちよく旋律に乗り、ふと通り過ぎていくように感じるこの言葉の並びは、小説の言葉の組み立てかただ。形式としてはむしろ、詩としての韻の踏み方、母音の当たり方をしているが、本質は違う。何故か。それは思考と映像の移ろい方にある。

「思い出したくはないこと、思い出になってた」という独白から「ほら」の後に続くのは、手のひらの上に残る儚い何か(それは形や重さを持たない、観念的なものだ)を溢さぬ様持っているというこの状態。
 まず、映画的ではない。絵画的でもない。手のひらの上のそれに、姿形はないのだから。
 けれど詩的とも言い切れない。詩というには、前後の連と繋がりが強すぎる。時間が連続的過ぎる。勿論あらゆる例外はあるが、一般的な詩というものは、相互に関係し、全体を描きつつも、その一行一行が独立し、連が変われば場面も時も大きく変わるものだ。喩えるならそれは、コース料理に近い。全体としてテーマを描くが、個々は独立して味わわれることを望んでいる。
 一方小説はより連続的な性質を帯びている。Aが変容してBが起こり、そこに対立するCが持ち上がる、ということを、全体でも細部でも繰り返していく。それぞれの言葉が単独で味わわれることを基本的には望まない。

 有名な歌謡曲を例に挙げると、例えば井上陽水ならば、「少年時代」は詩的であり、「傘がない」は小説的である。松任谷由美なら、「春よ、来い」が詩的であり、「幸せに包まれたなら」は小説的であり、より具体的な「卒業写真」になると、ドラマ的、映画的である。すなわち、この中で言えば、詩がもっと断片的で抽象的であり、ドラマはずっと映像的で具体的である。(しかし、いつか言及することになるだろうが、詩よりも抽象的な作品として、絵画的な作品というものもある。そこに一見して、意味を感じるとることはもはや出来ない。ひたすら心象風景として重ね合わせるだけのものになっていく。「SEA」や「夏の逆襲」がそれである。)

 閑話休題。

 この「手のひらの上」は、田中和将が若干23歳にして軽々と、いや寧ろ飄々と歌い上げているが、歌詞を単独で見ても、これは優れた短編小説として、ほとんど完成している。無論、いつものように、小説というには難解すぎて理解を嫌がるきらいはある。出端の

つまりはいつもの様に過ぎるという事
或いは音を立てて崩れそう

伝わらない物の道理を伝えようと
か弱い老体に鞭打ってみたりして

など。恐るべき語感の良さだが、感覚でしか嗅ぎ取れない。これがGrapoevineの最大の特徴であり、美徳であり、弱みでもある。万人に理解されないどころか、ロックンロール評論家の、ほとんど誰もこの点について解説をしたり、言及をしたりするものは現れなかった。なんと惜しい事だろう。

 この作品のモチーフは、途中で出て来る「檸檬一個分」の「檸檬」。すなわち梶井基次郎の、代表作であることに、僕は疑いを持っていない。冒頭の「或いは音を立てて崩れそう」は、「檸檬」の中で、主人公が爆弾のように檸檬を置いて、逃げ出したくだりを思わずにいられない。

 田中和将はこれを、読者、もとい聴き手に理解してもらおうとして、書いていないだろう。好きなものを書いているだけだ。Graveyardで、「伝えるべきことはない」と吐いた言葉通りのスタンスで、一貫して来ている。それは見方によっては不親切だが、別の見方をすれば、その一切に嘘がないということでもある。だから信じるに値するのだと。それは何よりも、田中和将が傾倒してきた坂口安吾や安倍公房らのスタンスと同じものだ。だが、他の作家の影響については、別の機会に言及するとしよう。
 
 それにしても終盤の見事さよ。

時間が過ぎてしまえば儚いもの
もう手のひらの上 消えてなくなって
忘れらたはずなのに ふと何度も蘇るのは?

気がついたら 春だったとは

 まるで最後のページを繰る様に曲が終わる。恐るべき掌編である。

【著作権について】
 本記事では、日本のロックバンドGrapevineの音楽、主にその歌詞を考察していきます。Grapevineは、歌詞については、ギターとボーカルを担当する田中和将氏が書いています。そのため、歌詞の一切については著作権者は田中和将氏にあるものと考えております。ただ、日本の著作権法には以下のような一文があります。

第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない

著作権法(昭和四十五年法律第四十八号)

 本記事は、公表された著作物について、引用して批評・研究しようとするものであり、著作権者の権利を侵害するものではないと考えています。また、その意思はありません。万一、引用の仕方や分量について、著作権を侵害するような部分があると感じられた場合、ご指摘いただければ改善に努めます。
 なお、本記事の文につきましては、先に述べました著作者Grapevine及び田中和将氏の権利を害さない限り、転用して構いません。その際、ご一報頂けると嬉しく思います。
                             和田東雲

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