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永遠の隙間/退屈の花 読むバイン #8
歌詞全文はこちらをご覧下さい。
https://www.uta-net.com/song/26858/
人は成長することが出来る。今より改善することが出来る。少しずつマシになることが出来る。原理的に言って、そうだ。そういう神話がある。人は死んだら生まれ変わるとか、あの世とこの世があり、死んだら地獄か天国に行くだとか、そんな神話と同じ様に。もし、そうでなければ、恐ろし過ぎる。そんなことは嘘だと告げられて、悟ってしまったら、どうしたらいいか分からない。今生きている自分とは一体どういう存在なのか。
僕は42歳になり、随分草臥れた。恐ろしく色んなことがあった。けれど、これまでにあった色んなことの割に、成長しているかと言われるとどうにも心許ない。妻がいて子がいる。多くの人と関わってきた。成し遂げたことも数えられるし、誰かの役に立てたこともあったはずだ。(そう信じたい。) けれど未だに人間が分からない。人は成長することが出来る? 嘘じゃないか? 「永遠の隙間」を聴いていた18歳のあの頃から、僕は何も変われてないんじゃないか?
「永遠」も、田中和将が書く歌詞世界の中に、度々登場する言葉である。
ずっと待っていた
こうなるのを
一瞬の永遠を
永遠だって言ってた
地平線だって見えた
今でもまだ夢を見るよ
田中和将に限らず、「永遠」というワードは歌謡曲の中で、ごくごく有り触れた言葉だ。「永遠の愛」「ともに永遠に」多くの場合それは空虚な夢物語で、考察には値しない。耳あたりのいいスローガンに他ならない。
この世に永遠なんてものはあるのか? 勿論ある。それは【事実】だ。
「君のことを永遠に愛する」
は主観的な決意だが、多くの場合、それはおとぎ話の「その後二人は幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」と同じで、形式的な決まり文句に過ぎない。その後のことなど誰も気に留めない。時過ぎて夢の国を再訪すれば、メリー・ゴー・ラウンドは朽ち果て、観覧車は錆びつつき、色褪せたポスターが風に飛ばされて転がっている現実を、我々は知っている。
一方。
「君を愛した」
という【事実】は、その後如何なることがあっても、たとえ人類が滅亡したとしても、永久に変わることはない。悠久なるアカシックレコードに刻まれて、未来永劫事実は事実のままだ。「人は孤独だ」という事実と同じ様に。
君はそっと暮らしなさい
あまり若くはない
誰も居ない
そう君はずっとさ 独りきりだったんだ
何をやっても(たとえ肉体を交わしても)他者との隙間というものは存在し、それが埋まらないものだとしたら、我々はどうやってこの世界を生きていけばいいのだろう?
それを考えるにはやはり、「#6 鳥」でも言及した、本アルバムのモチーフである坂口安吾『恋愛論』を参照してみるのがいいだろう。
人は恋愛によっても、みたされることはないのである。(中略)むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。(中略)
人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。(中略)苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。
田中和将が、苦しみ、悲しみ、切なさを主に歌う訳は、まさにここにある。人生に、答えだったり、希望だったり、救いだったりというものは存在しない。田中和将は、常々歌によって人を救うことを忌避してきたことをインタビューで語っている。目指すのは、【救う】ではなく【掬う】。穢らわしいことや、愚かなることを白日の元に曝すこと。そのことで空白を満たして生きること。それが、田中和将とGrapevineが企んできたことだ。そのことをより焦点化したのが、次作「Lifetime」だと言っていい。大ヒットした「スロウ」も「光について」も「白日」も、そのベクトルの上にある。
人は、苦しみや悲しみ、切なさを避けようと願う。しかし苦しみや悲しみ、切なさこそが、その人の生を形作っていることを、やがて人は悟るはずだ。坂口安吾が代表作「堕落論」で敗戦後、途方も無い虚無状態にあった日本人に説いたことも、やはりそういう性質のものだった。堕ちて堕ちて堕ちることで、ようやく人として生き始めることが出来る、と。
悲しみをちょっと降らすのさ
余りに赤い花咲かせちゃって
悲しみを降らせて、「赤い花/恋」が咲く。それは救いではないが、人の生を彩るものには違いない。しかしやがて花は枯れる。永遠であるのは「愛」ではなく、結局は「孤独という名の隙間」というのは、事実なのだろうか?
いやいや、しかし現実的にはね、なかなか凹垂れますよ、四十二にもなるとね、随分堪えるよ、
…という不平を、さて安吾と和将、どちらに告げたら良いだろう。
【著作権について】
本記事では、日本のロックバンドGrapevineの音楽、主にその歌詞を考察していきます。Grapevineは、歌詞については、ギターとボーカルを担当する田中和将氏が書いています。そのため、歌詞の一切については著作権者は田中和将氏にあるものと考えております。ただ、日本の著作権法には以下のような一文があります。
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
本記事は、公表された著作物について、引用して批評・研究しようとするものであり、著作権者の権利を侵害するものではないと考えています。また、その意思はありません。万一、引用の仕方や分量について、著作権を侵害するような部分があると感じられた場合、ご指摘いただければ改善に努めます。
なお、本記事の文につきましては、先に述べました著作者Grapevine及び田中和将氏の権利を害さない限り、転用して構いません。その際、ご一報頂けると嬉しく思います。