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#君を待つ間/#退屈の花 #読むバインvol.7
歌詞全文はこちらからご覧ください。
https://www.uta-net.com/song/21430/
「君を待つ間」は、ファンの間では言わずもがなの名曲であると言っていい。度々開陳しているが、僕が始めてGrapevineに出会ったのは、1998年当時、土曜日の深夜に放映していた「Tower Countdown」という番組のスポット内だった。しかしよくよく調べてみると、この曲は同じく土曜深夜の音楽番組である「Count Down TV」のエンディングテーマだった様だ。この二つの番組は、局は違えど時間的にも立て続けに放送されたものだったし、番組の内容としても極めて似通っていた。
いずれにしても、Grapevine屈指のキャッチーでメロディアスな「君を待つ間」は、業界の中で注目の楽曲だったと言えるだろう。
田中和将らGrapevineの面々が、痴呆がすすんだ老人達が列を為す施設に佇むMVもとても印象的だ。老人ホームというよりは、むしろサナトリウムの様な佇まいのその場所は、「ワンダフルライフ」という是枝裕和の映画をも思わせる。(1999年の映画なので、下地になっている可能性はない。)そこは死者が次の世界に旅立つ前に、一時的に訪れる待機場所だ。老人達に囲まれた田中和将は、すでに無意識の世界にある人々の中で、例外的に紛れ込んだ有意識の若者達だ。歌詞との関連性を探すことは出来ないが、とてもこの曲の世界観に合っていると思う。
では、いよいよその歌詞を見ていこう。
やわらかな光に騙されながら行こうじゃない
泣きそうな顔もきっとバレてしまうのに君を待ってた だから
たまに会ってさ 喋ってたいじゃない
いつまでだって待ってるから
田中和将にしては、とてもあけすけで、ポジティブなラブソングだ。特に、初期の田中和将にしては。「退屈の花」で通しても見ても、一際その点が目立つ。しかしそれでも一般的なラブソングという点で見ると、やはり革命的に特異な歌詞だ。かつて、「光」をこのように、我々を騙す悪意のあるものとして描いたポップソングが有っただろうか?
僕が高校生の頃、若い、倫理科の女教師がクリスチャンで、「神はいない。しかし敢えて信じる」という自身の信仰の在り方を、どうせ判るまいとでもいうように、その日の教科書を閉じた後で言った。彼女の顔も授業も碌に覚えていないが、そのことだけは今も覚えている。「神はいない。しかし信じる。そういう信仰の在り方がある」と。それはキルケゴールの話をしていた時だった。
「柔らかな光に騙されながら行こう」というのは、まさにそういうことだ。この先にどうせ不幸はある。しかしそれは無視して君を求める、という宣言だ。
「退屈の花」、そして恋愛の大きなテーマの一つは、肉欲への耐え難き誘惑と、それを嫌悪する理性の衝突だ。それは「恋は泡」のテーマでもあるし、「鳥」、「泪と身体」、「永遠の隙間」など、繰り返し苦悩しては描かれていく。そこにあるのは、自分自身への幻滅と、相手もまた不幸になると理解していることへの苦しみと、それを甘んじて受け入れようとする相手への軽蔑、時に清々しいほどの開き直りだ。
「君を待つ間」はしかし、珍しく、その全てを肯定する歌だ。それはやはり、前回の「鳥」で紹介した、坂口安吾の恋愛論その通りだとも言える。いや寧ろ、坂口安吾に共感する田中和将の思想と言っていいのかもしれない。
田中和将の思想。これは、田中和将が、Grapevineというバンドを実に現時点で26年続けている中で、一貫して描いている考え方だ。何度か言及したが、それはまず「君」、そして「待つ」、さらに「風」と「夏」だ。この4つの言葉は、26年100作以上の作品の中で何度も繰り返し描かれるエレメントだ。
田中和将にとって、「愛する」という感情に対して最も誠実で真摯な行動というものが、「待つ」というものなのだと思う。「待つ」をテーマにした作品としては、言わずもがなの「風待ち」や、「すべてのありふれた光」などがある。(2003年には「会いにいく」というシングルが出て、これはこれまでのストーリーからダイナミックに転換するものだったのだが、2019年の「すべてのありふれた光」では、
きみの味方ならここで待ってるよ
と、戻っていることが興味深い。この曲はおそらく自身の娘に向けた曲で、最大の愛の表現として、「待つ」という行為が再来している。)
この、「待つ」という行為が、「愛」の最大の表現だという価値観は、幼少期、父が家を出て、母も居ない、たった一人拠り所の兄も離れていったという田中和将の生い立ちと結びつけて考えるのは下品だろうか。それでも幼い田中和将は待っていたはずだ。家族と暮らせる日々を。
少なくとも、
やわらかな光に騙されながら行こうじゃない
泣きそうな顔もきっとバレてしまうのに君を待ってた だから
たまに会ってさ 喋ってたいじゃない
いつまでだって待ってるから
という言葉は、家族と離れて暮らすことを強いられた田中和将の幼少期の母への想いを、そっくりそのまま重ねて読むことは可能に思える。
ここでの「君」が、離れて暮らすことになった恋人(「鳥」の物語の延長線の「君」。)であれ、「母」であれ、待つことは想うことだ。それは、「君」が居なくなることへの恐れに耐えるという宣言であるし、無条件で君を愛するということの表明だ。前提として、待つことは苦しみを伴うものだ。相手を愛おしく思えば想うほど。「待つ」それも「いつまでだって待ってる」ということは、相手は現れないという可能性を常に孕んでいると言える。見返りを求めない無私愛。それはほとんど信仰に近い。
果たして僕は待てたのだろうか。
今も待てているのだろうか。
ただ一つ確かなのは、此処が余りにも変わり果てたということだ。
君を待つ間に。
【著作権について】
本記事では、日本のロックバンドGrapevineの音楽、主にその歌詞を考察していきます。Grapevineは、歌詞については、ギターとボーカルを担当する田中和将氏が書いています。そのため、歌詞の一切については著作権者は田中和将氏にあるものと考えております。ただ、日本の著作権法には以下のような一文があります。
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
本記事は、公表された著作物について、引用して批評・研究しようとするものであり、著作権者の権利を侵害するものではないと考えています。また、その意思はありません。万一、引用の仕方や分量について、著作権を侵害するような部分があると感じられた場合、ご指摘いただければ改善に努めます。
なお、本記事の文につきましては、先に述べました著作者Grapevine及び田中和将氏の権利を害さない限り、転用して構いません。その際、ご一報頂けると嬉しく思います。