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覚醒/Grapevine 読むバイン#1
#覚醒 /「覚醒」 1997年 #読むバイン
歌詞全文はこちらからご覧ください。 https://g.co/kgs/dtuJ6k6
君は頗るアクティブで 訳の解らぬことを 問いかける
記念すべきGrapevineの一曲目は、リードボーカル兼ギターの田中和将作詞作曲、当時23歳である。その一節目は、今年でバンド27周年を迎えるGrapevineの、一貫したその態度の自己紹介に思える。確かにアクティブで、ずっと訳の解らぬことを問いかけ続けている。そもそもCDを聞かなければ、「頗る」という漢字さえ読めない。Grapevineを知るということは、まず「頗る」という漢字の読みを知ることだ、と言ってもいい。興味ない人はないだろう。確かに、あなたが人生で、最愛の恋人へ贈る手紙の中に、「頗る」という漢字を使うことはまずないだろう。年賀状の挨拶にも、恩師への礼状にも、友人への弔辞にも「頗る」なんて書きはしない。取引先と接待ゴルフなんかして、「調子はどうかね?」と尋ねられて、万が一に「すこぶる快調です」と答えたとしても、平仮名だ。「頗るアクティブ」なんて文字、27年経った今でも、他で目にしたことはない。
勿論僕は、Grapevineを聴くと、珍しい言葉を知れて楽しいよ、なんてことを伝えたいわけではない。当然27年前の田中和将が、その後のキャリアを予測して、「僕らはずっと訳の解らぬことを問いかけますよ」と宣言しているのだと言っているわけではない。ただ、詰まっている。もう27年前から、田中和将は田中和将であり、GrapevineはGrapevineなのだ。要するに、とても不親切で分かりにくいが、結局は真理をずばり言い当てているし、その後の全てを予言している。常にそうだ。それは古代中国の易者が亀の甲羅の割れ方を見て国の存亡を予言したり、ギリシアの天文学者が星の並びに神の徴を見てとるのに似ている。彼らは見抜き、言い当てているからこそ、易者という職業が数千年も尊重されたのであり、天文学者という職業が神の預言者として機能した。もしも彼らの言うことが、いつもてんで的外れだったとしたら、易者という職業も天文学者という役職も歴史の中で残りはしない。彼らは予言し、そしてそれが現実に起こり続けたからこそ存在し続けた。
何故、彼らはそんなことが出来たのだろう? それは勿論、必ず当てはまることになる言葉を紡ぎ続けたからだ。それを可能にするのは、象徴性と、真理を見抜く洞察力だ。三流の占い師は、誰にでも当てはまる言葉を使う。より上等なペテン師は、その人の特徴に合った事実を伝える。そうすれば、ますます依頼者に自分の言葉を信じ込ませることが出来るからだ。広義に意味が取れるような象徴的な言葉と、人や時代を的確に見抜く力があれば、多くの人の心を掌握できる。また、あらゆる語り手は、それが出来なくては務まらない。人に何かを信じ込ませる力がなければ、誰もそいつの話は聞かない。語り手の嘘が見抜かれた時、彼は石を投げられ、唾を吐かれ、やがて町を出て行かなければならない。そういうものだ。
あなた色に染まったって やたら身につまされて切ってたって 変わんない
君のことを想ったって 君が僕の事をどう思ったって もういいよ 投げ出してしまえば いえど
めまぐるしく世界は動く ただ動かないのは二人の立つ場所
君のことを想って そして叶わぬ夢だと知ってしまった 「もういいいよ」と独りごちた
この、偶像(アイドル)へ希求と、それが報われない虚しさを、感じずに生きることができる人間は果たしているだろうか。いない。それは年端もいかぬ少女であれ、偉大なロックスターであれ、向かいの席のあの子であれ、神であれ、夢であれ、何にでも当てはまる。人は何かを求め、挫折する。その余りに明白な事実を、言葉の象徴性が一度粉々にして、聞き手に与え、聞き手はいつしかパズルを解いて、理解する。「人は何かを求め、挫折する」と。その過程は、その人の人生の中で起こることであり、パズルのキーの幾つかは、その人の人生から持ってこなくてはいけない。そのパズルを解いたとき、それはその人のユリイカになる。
Grapevineと我々聞き手の関係は、常にそのように進んできた。田中和将が答えを見つけ、噛み砕く、吐き出す、散りばめる。我々は困惑する、眉間に皺寄せ欠片を拾い首を傾げる。捨ててしまえばいいものの、そこには離れ難いメロディーとリズム、それにアイディアがある。離れられない。聞き続ける。そしてはたと、いつか気付く。このことか! と。それが我々の営みだ。
と、ここまでこうして、田中和将及びGrapevineを、まるでペテン師のように語ってきたが、それも違う。あらゆる歴史とあらゆる場所の中で、理解し表現し理解される、というサイクルは、同じように行われているのだ。キリストでも、孔子でも、ムハンマドでも、ブッダでも。なぜならそれは、洞察の中で生み出された真実に基づいているものだからだ。
これを「覚醒」という。
Grapevineを聴くということは、畢竟、日々の混沌、雑然、無意味に思える風の音に、はたと意味を見出して、ひとつ覚醒をしていくことに他ならない。それがGrapevineの音楽の本質だ。そしてあらゆる芸術が目指す目的地だ。Grapevineを聴くことは、ある意味宗教的な体験であり、人生を物語にし、火を付けて燃やしていくようなものだ。上がった狼煙を眺めて他人はその意味を知ることは出来ない。しかし自分だけは知っている。その煙になった数万字を。僕はそうしてGrapevineの一曲一曲をマッチ棒にして、自分の人生で起きたこと、それを書き殴った物語に火をつけて、ここまで歩いて来たように思う。とても長い話だが、もうほとんど何も残っていない。
だから、今日のお話はこれで終わろう。明日からもまた、一つ、マッチを擦って、君と火を眺めることができれば嬉しい。付き合ってくれるといいのだが。本当に君が覚醒するには、まだ、頗る早いはずだから。
【著作権について】
本記事では、日本のロックバンドGrapevineの音楽、主にその歌詞を考察していきます。Grapevineは、歌詞については、ギターとボーカルを担当する田中和将氏が書いています。そのため、歌詞の一切については著作権者は田中和将氏にあるものと考えております。ただ、日本の著作権法には以下のような一文があります。
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
本記事は、公表された著作物について、引用して批評・研究しようとするものであり、著作権者の権利を侵害するものではないと考えています。また、その意思はありません。万一、引用の仕方や分量について、著作権を侵害するような部分があると感じられた場合、ご指摘いただければ改善に努めます。
なお、本記事の文につきましては、先に述べました著作者Grapevine及び田中和将氏の権利を害さない限り、転用して構いません。その際、ご一報頂けると嬉しく思います。
和田東雲