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遠くの君へ/読むバイン #9

歌詞全文はこちらをご覧ください。

 「遠くの君へ」は剥き出し全力全霊のラブソングである。発表当時から人気が高かった。

君は断るったってさ ありのまま捧げたいんだよ

遠くの君へ/田中和将

 色白華奢な文学青年に、こんなにも愛を叫ばれたら、そりゃあ黄色い歓声が上がるに決まっている。そんな曲でもある。
 しかしこれは失恋の歌だし、挫折と悔悛の始まりの歌だ。

いつから好きになって そしたらムキになった
離れて暮らして まだ日も浅くて
新しい兆しだ 形になり出してんだ けど君はスマイル

遠くの君へ

聞き足りないと癪で 知ったら胃が痛くて
全て分かってたくて ただ眠れなくて

遠くの君へ

 田中和将にとって、この「遠くの君へ」で描いている女性は、とても重要な、特別な女性だ。30年近い年月の中で、度々この女性「君」は、亡霊のように描かれていく。

今の君は笑うかもしれない

真夏の子供達

君と暮らした 長い時間

虎を放つ

サイドミラーに飛んでいくthe girlはもう

片側一車線の夢

でも もう一度君に会いたい

エウレテリア

ここで再会する様な大団円はない けど他に展開はないのない

1977

 もしGrapevineを物語として読んでいくのだとすれば、この"the girl"との契り、別れ、そしてその後という展開こそは、田中和将が28年の歳月を掛けて描き続けているストーリーラインだ。

 さて、「退屈の花」というアルバムが、坂口安吾の「恋愛論」をベースにした、人生における一輪の花であるところの恋愛をテーマとした作品であることは既に触れたが(#6 「鳥」)が、さあ果たして、恋愛とは一体全体何なのだろうか。

 人類、引いては生物が、性交という手段を用いて種を存続させている以上、性交の動機としての恋愛は有力な説の一つに思える。しかし畢竟、恋など所詮性欲であるよ、……と言われても、人は誰も釈然としない。性欲はおぞましく、恐ろしく、不潔で、よこしまなものであると、後ろから誰かが囁いていくる。
 我々−−いや、取るに足らない何の才能も持たないもののサンプルとしての僕−−は、この世界がどのように成り立っているのかも知らないし、この世界に何ら影響を及ぼすこともない塵芥の様な存在だ。それでも一度恋に落ちれば、まるでその真理を明らかにせねばいられないような情熱に取り憑かれる。どんな犠牲も厭う気にならない。要するに、

君は断るったってさ ありのまま捧げたいんだよ

という状態になる。この世界の神秘や真理が一個の肉体と精神の中に、まるごと全て収まっている様な気がしてならない。それは性欲とは全く別の種類のもの、精神が充足を求めようとする渇望だ。それが正しいか正しくないかを決めるのは理性では断じてない。精神の奥底から湧き上がる正体不明の衝動だ。結論として、恋とは狂気である。
 そう言うと聞こえが悪い様だがしかし、狂気を持たない生に、一体どれほどの意味があるのだろう。全てが理性に従って、肉体が朽ちるのを待つのであれば、我々はバッテリー駆動のロボットと変わらない。それは完璧なる退屈だ。理屈に合わない狂気こそ、人を人たらしめている。あなたがもし、恋をしているのなら、または恋に破れて身悶え苦しんでいるならば、それは理屈という退屈からはみ出した狂気という花が、今ちょうど咲き誇っているということだ。

届かぬ歌唄ってさ 枯れるまで捧げたいんだよ

遠くの君へ

 それって素敵だと思いますよ。

【著作権について】
 本記事では、日本のロックバンドGrapevineの音楽、主にその歌詞を考察していきます。Grapevineは、歌詞については、ギターとボーカルを担当する田中和将氏が書いています。そのため、歌詞の一切については著作権者は田中和将氏にあるものと考えております。ただ、日本の著作権法には以下のような一文があります。

第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない

著作権法(昭和四十五年法律第四十八号)

 本記事は、公表された著作物について、引用して批評・研究しようとするものであり、著作権者の権利を侵害するものではないと考えています。また、その意思はありません。万一、引用の仕方や分量について、著作権を侵害するような部分があると感じられた場合、ご指摘いただければ改善に努めます。
 なお、本記事の文につきましては、先に述べました著作者Grapevine及び田中和将氏の権利を害さない限り、転用して構いません。その際、ご一報頂けると嬉しく思います。

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