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「普通の人」が美大に進学した結果、四年間二百万の学費を払って自分の愚かさを知る話/ 真摯で実直な蟹歩き こつこつ ①

みなさんは何歳まで、自分は無敵だと思っていましたか?

これからやってくる困難も、立ちはだかる壁も、「努力次第でどうにでもなる」と、いつまで考えていましたか?

自分の努力の方向や質が、客観的に見て正しいものだと、どのくらい確信していましたか?

私は22歳、大学四年の終わりに、自分の愚かさに直面しました。


これぞ挫折

卒業制作が間に合わなかったんです。
ひたすら自業自得で情けないんですけど、やろうと思ってたものが全然できてなくて、講評までの数日間は大学にろくに行かずに家の中で制作をしていました。進捗やばすぎるのを見られたくなくて。

余談なんですが、この「進捗やばいから隠し、見せられるようになったら見せよう」って考え、ザ・悪手なので絶対だめって肝に銘じてます。
ドツボにハマってるとき・あるあるだと思うんですが。
やばいときほど報告するに限る。ていうか、報告とかいちいちしなくてもいいくらい常に開示しておく。思ってるより人は助けてくれるもの…。

展示スペースに区切られた大学の体育館で、私の作品は一番入口から遠い奥にありました。
もう10年以上前のことだけど、この時の心境は今でもはっきりと思い出すことができます。

手前の方の作品を講評しながら教授陣が自分のボロボロな作品に近づいてくる。これから、自分が愚かであることを開示するだけの晒し者の時間が来てしまう。もう逃げられない。全ての罪を認めるから、一思いに断罪して欲しい。

それからの一年は毎日のように夢に見ました。

200万も授業料を払ってもらって、何人もの教授に教えを請える環境にあって、四年間も時間をもらって、私は私の愚かさと向き合う機会を得たのでした。


回想、気付くチャンスはあったのに、勘違いし続ける そして現実からは逃げ続ける


思えば、ずっと、勘違いをしていたのです。
自分は選んでここにいる、と。
でもよくよく思い出すと、逃げていたのです、大丈夫そうな方へ。

私は歳の離れた兄2人の末っ子で、待望の女の子でした。
裕福ではなかったけど、自分が何か特別なものだという感覚をもててしまう程度には慈愛に包まれた子供時代を過ごし、「絵が上手」と言われればその気になってしまう。(この場合の「絵が上手」は「楽しそうに描いていて可愛らしい」程度の意味だったと思う)

活動的オタクだった中学時代、高校には公立でデザイン科や美術科のある学校があるらしいと知り、俄然興味が湧く。
この時、中学の先生や父親には「高校が普通科がいいよ」と勧められて推薦受験は普通科を受験するのだけど、失敗。しかもその後の模試で判定が下がり、「志望校を変えるならデザイン科に行きたい」と土壇場で強行突破した。

もしかしたら、私に何か光るものがあれば、普通科を勧められなかったんじゃないかと今なら思うけど、中学3年生にとっては自分の可能性は無限大なので、選んだ先で絶対輝けると疑いも持たなかった。
さらに中三の時の担任は体育の先生だったし、父も物理の教員をしていたので美術だのデザインだのは門外漢であり、私は助言に耳を傾けるつもりがなかったんだと思う。

逃げ① 直前の受験勉強追い込みを避け、楽しそうだったデザイン科へ逃げた

高校の学園祭は普段の課題の作品展示がメインだった。
優秀作品が選出される展示室「ようこそデザイン科へ(通称「ようこそ」)」というのがあったのだけど、私の作品が展示されることはついぞ無かった。
烏口できれいな線を引く課題はへたくそで、選択した陶芸もおおざっぱだったし、そもそも課題提出締め切りを全然守れなかった。
音楽部でバンドごっこをするのが楽しかったけど、コピーバンドでドラムを叩いていただけ。

なのに三年間手放しで楽しく、宝物のように輝いている。
高校の友達は一生の友達になった。
三日に一回は遅刻をして学期末には罰掃除をしてたし、ドラムも下手なままで作品も輝かなかったのに、楽しいまま三年間を終え、そのまま美術大学受験までしてしまった。

逃げ② 目の前の課題で一番になるとか、指定校推薦のある学校や就職先を目指すといった校内で評価されることをとことん避け、母数の多い美大受験に逃げた

受験のために通い始めた美大予備校の講評では、いつも1番や2番になる子を見ていて、「どうして自分はこうではないんだろう」と悔しさに向き合う前に、講師にもらった「弱いんだけどなんか気になるね」とかいうぬるっとした言葉を褒め言葉として受け取って大事におなかを温めていた。
もらった褒め言葉を自分の中で熟成させるのが得意です。

遅刻癖は相変わらずで、土曜日の学科の授業には特によく遅刻をしていた。

そんなこんなで武蔵美にも多摩美にも東京藝大にも落ち、先に合格していた東京造形大学に入った。「校舎は造形が一番好き」「通学路に馬がいるのがうれしい」「造形に入ってよかったのかも」と納得したつもりになってた。

逃げ③ 質の高い努力をしてこなかった結果を悔しがり反省することからの逃げた


美大入学。ここまで私は、全然大したものを作ってないのに、ものづくりの人なんだと疑いもせずやってきています。
予備校でデッサンはちょっと上達しました。平面構成は大したことないです。そんなレベル。

美しいもの、可愛いもの、面白いものは好きで、素晴らしいものを見ては自分が素晴らしいものになったような気になっている。
どうなりたいとか、これをしたいとか、絶対に実現したい夢は、ありそうでなかったのに、フワフワと楽しく過ごしていた。
手を動かすのは好きだった。誰かとものを作る時間も好きだった。
でも1人で作品を作り上げること、それをより良くするためにだけに時間を忘れて没頭することは、全然うまくできなかった。

綺麗に線が引ける人は、生まれながらに器用なんだと思っていたと思う。
いい絵が描ける人は、生まれながらに本物だとも思っていた。

分かった気になっていたし、やった気になっていた。

なにも分かってないし、やり切ったこともない。

それを自覚できたのが、冒頭の卒業制作・悪夢の講評編という訳です。

回想終わり


でも、生きてるのは、

わたくし、自分という人間は本当に情けない、ダメ人間ベースなんですけど、でもなんとか生きています。社会人をやりながら、それなりに楽しく。
いろんなものから無意識に逃げてて、本当にしょうもない人間だったのが、なんとか諦めずに生きているのは、人に恵まれたからだと思っています。
あと、ポジティブだし。

ちょっと長くなってしまった上に、書いておきたかったことまで到達しませんでした。

今日はここまで。
次回は、しょうもないダメ人間だと思っていた自分が、もう少し早く知れたらもうちょっとマシだったかも、と思ったYOUさんのyoutubeでのお話について書きたいと思います。

ここまで読んでいただいてありがとうございました。

わだのぞみ

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