オーロラに駆けるサムライ(2)アラスカ
<前回>友人フランクに自分の生い立ちを語り始めた愛媛県出身の17歳の少年ジェームス・和田。日本からサンフランシスコに渡航し港に到着するなり、英語を教えてくれるという白人にだまされ、バーで酒をのまされ、気を失い、3年間北極圏を巡回する捕鯨船に売られてしまった。さあどうする?
<ストーリーの背景を説明する動画を一番下に入れてあります>
捕鯨船に3年間80ドルで売られる
船底で目を覚ましたジェームスは、「ここはどこだ?どこに行くんだ?」と騒いだ。その様子を無表情でジーッと見ている傍らの男の静かな目がきになり落ち着きを取り戻した。
「あんたは日本人か?」
全く反応がない。髪も目も黒い。身長も自分と似たりよったりだが、何かちょっと違う。ジェームスは、まだエスキモーを見たことがなかった。引っ張られて船長の部屋へ向かった。
船長の前に連れ出された瞬間、180cmの大男の白人であることがわかった。
船長は「この船はバラエナ号。お前の契約は使用人として働くこと。3年で80ドル。契約書にサインしろ」といったのである。当然ジェームスにはなんのことかさっぱりわからない。何とか船長にサンフランシスコへ帰してくれと懇願したものの、全く意に返されなかった。既に時遅し、船はアラスカへ向けて出港していたのだった。
船の乗組員のほとんどはアメリカ人以外の外国人で、ドイツ人、スウェーデン人、ノルウェー人、シベリア人の総勢20人と猟犬2匹であった。アジア系は日本人のジェームスただ一人。
船長の名前はヘンリー・ノーウッド(39歳)、バラエナ号とは太平洋蒸気船捕鯨組合に所属する船で北極圏でクジラを捕ったり越冬するための他の蒸気船の補助がミッションであること。サンフランシスコを出航したのは1982年(明治25年)3月15日。自分(ジェームス)は出航の前夜この船に売られてきたが、その時に連れてきた白人青年には、手間賃が支払われたと知ったのは、かなり後になってわかった。
北極圏でのつらい捕鯨船生活
ノーウッド船長は、手が空いている時は意外に気さくな人だった。何をいいつけるにしても、言葉がわからないジェームスに閉口して、少しずつ単語を教え始めたが、飲み込みの早さに驚いて読み書きにまで手を出してしまった。
「当時17歳のじぶんには、船はつらく、きつい学校だった。でも料理は覚えられてよかった。ノーウッド船長は仕事には厳しいが、話しているうちに大変よい男に映った。幸いなことに、バラエナ号には非常に充実した図書館があり、そこにあった本を全て読み、航海術、測量術などをみにつけたんだ。3年後、東海岸のニューベットフォードに寄港したときには十分な英語力を備えていたよ。船長には感謝してもしきれない」とフランクに語った。
This is my country
「もう日本へは戻ろうとも思っていない。」
フランク、聞いてくれ。「ココは私の国だ。私はこの国が好きだ。ここに住んでいる人も好きだ。死ぬまでこの国に暮らしたい。」と言って、ポケットから帰化申請書お取り出してみせた。
「いつも肌身離さずもちあるいているんだ」とジェームスは空を見上げた。そう、ジェームスはまだアメリカ国籍を取得できていなかった。
フランク・コッター
コッターが重次郎に初めて出会ったのは1904年の冬。フェアバンクス市(現在のアラスカ州都)のあるホテルだった。ジェームスはここフェアバンクスで開催されるマラソン大会に出る為に滞在していた。当時既にこの界隈ではマラソン・ランナーとしては知られていたジェームスは、あいにく右足にかなりひどい筋肉の痛みがあったようで、コッターが軽く見ると捻挫をしていたようであった。
早速コッターは、湿布、電気加熱パッド、タオルを手に入れ応急処置を施した。 順調に回復し1か月後のマラソンを走ることができた。それを機会に私たちの間には友情が芽生えた。実はコッターは、北米ではかなり有名なロードバイクのアマチュア選手でした。これは1897年のサンフランシスコの新聞で取り上げられたコターに関する記事である。
この後、コッターは、プロのロードバイク選手となりヨーロッパ遠征を重ねて、けがが元で引退しアラスカのフェアバンクスの親戚、(前出のフェアバンクスタイムス新聞)ではたらくことにり、1904年にフェアバンクスでジェームス・和田に会うことになる。
コターは自分がスポーツ選手であったので、彼の経験から重次郎が足をねんざしたこと、そして、応急処置ができた。
ーつづくー
(まとめ)捕鯨船に3年間80ドルで売られた17歳の少年ジェームス・和田、3年間極寒の北極圏での捕鯨船での生活を強いられた。荒くれ者の白人と、エスキモーとの間で自分は日本人であることを再確認させられることに・・・。
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