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覚えていない…

食事中のこと。
どういう会話の流れだったか、もう既に思い出せないのだが、妻が、立川の成城石井で万引きをした女の子が捕まった現場を目撃したという話をした。6、7年前の出来事だ。
「へえ、どんな感じだったの?」と俺が言うと、妻は少し驚いた顔をして言った。
「え、あなたその時一緒に居たわよ」
「……全然覚えてない。どんな女の子だった?」
「制服着てたわよ。高校生みたいだったよ。沢山人が駆けつけてるのを見て、ああ、あれは前もって警戒してたんだろうね、ってあなたそのとき言ったわよ」
我ながら不安になる。記憶の片隅にも引っかかっていない。全然、これっぽっちも思い出せない。どうでもよいような些末なことならそりゃ忘れるだろう。でも制服着た女子高生が万引きして取り押さえられる現場を目撃する、というのはかなり衝撃的な場面のはずだ。記憶に焼き付きそうなものなのに。

こういうことが俺にはよくある。
同窓会で再会した友人達と、昔話で盛り上がるときなど、特にそうだ。メンバーが、そうそう、そういえばさ、と目を輝かせて口にするエピソードを、全く覚えていなかったりする。周りが笑い転げながら、あの時は……などと言っているとき、俺もうんうんと頷きながら、時にはそうそう、などと合いの手なんか入れて一緒に笑いながら、心の中では、そんな話全然知らねえよ、と呟いていたりする。しかもそのエピソードは俺自身が関係していることだったりする。
思うに、俺は記憶を意識的に反芻したり、反復したりするとある程度人並みには定着するが、そうしないと全然駄目のようだ。オートマチックに記憶する能力が欠如しているのだ。手動操作でしか記憶ができない。ある種の発達障害なのかもしない。

妻と長女は記憶力がいい。それも相当にいい部類に属する。二人とも俺が全く覚えていない何年も前の出来事を細部まで鮮明に覚えている。
何年も前の事柄を「何月何日の何時頃ってところまで、覚えてるよ」と二人はこともなげに言う。
長男はすごく忘れっぽい。クラスの忘れ物大将らしい。楽天的で打たれ強いが、それはきっと嫌なことをすぐ忘れるからだ。俺に似ている。

記憶力がなくて困ることはたくさんある。
モノをすぐなくす。免許証も財布もキャッシュカードも何度か紛失した。財布をなくすのは、きまってお金を下ろして財布に入れた直後と決まっている。それほど大事でないものなど、何を無くしたかも覚えていないくらい無くしている。妻から呆れられ「あ、また異次元ポケットに落っことしちゃった」などと言ったりする。そのポケットはきっと、俺が紛失したいろんなものでパンパンに膨れあがっているはずだ。
面白い話を仕入れたと思って話してみると、それ前に聞いた、と言われる。
人の名前と顔を一致させて覚えられないから、例えばパーティとか懇親会とかは苦手だ。
夫婦喧嘩では圧倒的に弱い。「あなた、あの時○○って言ったでしょう」と過去の発言と現在の自分の言動が矛盾していることを追及されるともう一切反論できない。だから喧嘩になりそうな雲行きになったらすぐに折れるようにしている。無抵抗主義に徹している。

ほんの少し、いい(かもしれない)こともある。
こちらの話を、それ前に聞いた、と言われるのと丁度逆の効果で、人から聞く場合、同じ話でも、初めて耳にするときの新鮮な驚きを何度でも味わえる。あなたはいいわね、と妻から言われる。もちろん皮肉なので喜べない。でも一つのネタで三回も四回も楽しめるのはお得なのかもしれない。
嫌なこともすぐ忘れる。忘却力があるおかげでつまらぬことをくよくよ思い出して悩まずに済む。失敗からの立ち直りも早い。

「俺、若年性アルツハイマーかも」と妻に言うと「違う」と言われる。
「あなたは結婚した当初から今と変わらず忘れっぽかったし、元々そう。記憶の仕分けがはっきりしていて、興味があること、必要だと思う記憶はしっかり保存するけど、どうでもいい記憶はバッサリ捨ててるのよ」と言う。
「高校時代覚えた英単語とか、作曲家の生没年とか、画家や作家のなんたらかんたらの代表作がどーのこーのとか、誰それのコンサートであの曲のあそこがどんな風に凄かったとか、講習会で勉強したこととか、そういうのは忘れていないし」
そういうものだろうか。念のため五年くらい前に脳ドックで精密検査を受けた時は何ともないと言われたけれど、でも不安は拭えない。

今朝の万引き女子高生の話のあと、妻から少し寂しそうな顔で言われた。
「あなたとは思い出とか、共有できないんだ……」
これは応えた。いや、そんなことはないよ、と返す俺の言葉に説得力は全然ない。
俺は過去に囚われず、現在に生きて 未来を向いて進む人間だよ、と心の中で嘯いてみる。囚われるべき過去がどんどん消えていくのだから、前を向いて進むしか無いではないか。それは自分の後ろにどんどん崩れてゆく崖があって、前へ前へ追い立てられる感覚に近いものがある。

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