あなたは生きて
一
いまからする話が、本当にあったことなのかどうか、僕には確信がない。
それどころか、僕が自分を僕と呼んでいいものかどうか、それすらわからない。なぜなら僕には乳房があり、男性器のあるべきところには女性器があり、月のものもちゃんとある。つまり、僕の身体は間違いなく女性のものだ。
性同一性障害だとみなすのは簡単だろうが、それでは僕の持っている記憶と辻褄が合わない。僕はこうなる前、つまり女性の身体になる前には間違いなく男だったし、男として生活していた。もっとも、その記憶の方も辻褄が合っているとは言い難いんだが。
記憶障害とか、多重人格というのがいちばんもっともらしい説明だし、僕もそうであってくれればと思う。
それなら僕がおかしくなって——いや、正常でなくなってしまったというだけで済む。僕が正常で、世界の方が狂っているということにはならない。
二
僕が彼女と出会ったのは地下鉄銀座線の銀座駅だった。仕事が早く終わったので、夕方から映画を見に行った帰りだったと思う。なんの映画だったかは忘れてしまったけど、A10出口のそばにある、例の小さな映画館だ。
家で読む雑誌でも買っていこうと、僕は構内をぐるりとまわり込んだ。A10出口にいちばん近い売店は、エスカレーターをまたいだA8出口の方だ。
売店まで行くと、そこに一人の女性が立っていた。彼女は券売機の前で、不思議そうに辺りを見まわしていた。
あらかじめいっておくけど、僕は見ず知らずの女性にほいほい声をかけるようなタイプじゃない。確かにその人はモデルかタレントかというくらいの美人だったけど、そういう人ほど気が引ける。
でもそのときは、たまたまひと月ほど前に恋人と別れたばかりで、新しい出会いを求めているときではあった。それに運のいいことに——とその時は思ったし、いまでも運が悪かったとは思っていない——、人通りはいつもより少なかった。もしかしたら見たばかりの映画が恋愛映画で、その影響があったのかも知れない。
「どうしました?」
出来るだけ自然な調子で、僕は声をかけた。
すると彼女はゆっくりと、本当にゆっくりとこちらを向いた。
「どうしました?」
僕と同じ言葉を、彼女は返してきた。
僕は、文句をつけられるのだと思った。
昔、まだ大学生だった頃、コンビニを出てきたヤンキーにぶつかってしまったことがある。そいつはわざとらしくひっくり返ると、僕を睨みつけた。僕が慌てて「大丈夫ですか?」と声をかけると、そのヤンキーは「大丈夫ですかじゃねえんだよ!」といきなり胸ぐらをつかんできた。
そのときの記憶がよみがえった。
しかし目の前の女性は僕の胸ぐらをつかむこともなく、ただじっと僕の目を見つめている。ただちょっと、焦点が合っていないような気がしたけど。
親切心——ばかりではなかったけれど——が変な形で返されてはたまったものではないので、僕はそそくさと立ち去った。
他人に対してあまり深入りしないのは、東京の人間が冷たいからじゃない。それは身を護るための手段だ。
僕は雑誌を買うことも忘れ、急ぎ足で改札を抜けてから一度だけ振り返ってみた。
彼女はまだそこにいて、あらぬ方を向いている。
僕は胸をなで下ろした。これで振り向いたときに彼女がじっとこっちを見ていたりしたら、完全にホラー映画の出来上がりだ。そして僕は、ホラー映画が大の苦手だ。
ホームで、しばらくはさっき話しかけた女性をいぶかしがる気持ちと、うまくいっていればという気持ちとをもてあそんでいたけれど、電車が風をまとって滑り込んでくる頃には彼女のことはもうすっかり忘れてしまっていた。
三
彼女に再会したのは、それからしばらく経ってからのことだった。ひと月か、それともひと月半か、ふた月は経っていなかったと思う。
政府の発表では戦後最長の好景気らしいけど、僕ら一般市民にはそんな実感はまるでなく、さらには働き方改革などという余計なお世話も相まって残業時間はどんどん削られ、退社時間は早くなる一方だった。
飲みに行こうという誘いもなかったので、僕が銀座駅に着いたのは午後六時を少しまわった頃だった。
その日はちょうど切らしていたシャンプーを買うためにドラッグストアに立ち寄ったあとだったから、B5出口から階段を下りた。そこからだと僕の乗る銀座線までは少し距離があって、地上を歩いてA1出口を使ってもよかったんだけれど、傘を持ち合わせていなかった僕は急に降り出した雨を避けるために構内を歩くことにした。
これが六月のことだっていうのは、もういったかな?季節は別に重要じゃないんだけど、地下鉄駅構内はおそろしい湿気に満ちあふれていた。僕はあの湿気が嫌いだ。
まとわりつくような空気の中を銀座線の方に歩いていくと、向こうから歩いてくる彼女と目が合った。
ここでも、ホラー映画の筋書きは成立しない。人の流れの中で彼女だけがじっと立ち尽くして僕を見つめていたわけではなく、同僚とおぼしき女性と楽しげに話しながらこちらに歩いてきたからだ。
その途中で、僕に気付いた。「あら」という声が、聞こえたような気がした。
彼女は連れの女性に、「ちょっとごめん」かなにかいうと、僕の方へ小走りにやってきて頭を下げた。
「先日はすみませんでした」
僕は一瞬、どう返していいかわからず、「いいえ」ともごもごいうのが精一杯だった。
「あのときはちょっと酔っていて、まともにお話し出来なかったんです。本当にすみません」
彼女はもう一度頭を下げた。ついでにいっておくと、「本当に」は「ほんとうに」ではなく、「ほんっとに」という感じで発音していた。つまらないことかも知れないが、こういうところに性格が表れる。
つまり彼女は、見た目はモデルをやっているといっても通用しそうなほどなのに、非常に気さくな性格だということだ。
それにひきかえ僕の方は、まだ「ああ、いや」とかなんとかいっている。
そのうちもう一人の女性が追いついてきて、「誰?」という顔で彼女の横に立った。
「この前、ちょっとお世話になって」という彼女の眉は見事な八の字になっている。
もう一人の女性は「はいはい」と頷くと、挨拶と立て続けにいとまごいをして立ち去ってしまった。あとから本人に聞いたところによると、「気を遣ってあげたんじゃない」ということらしい。
しかし、二人きりで取り残されても取り立てて話があるわけではない。何度も、「あのときはどうも」と「いえいえ」の応酬になった。
僕は運命の出会いなんてものは信じていなかったから、この人ともそれきり終わりになるのだろうと思っていた。いつかまた、どこかですれ違うこともあるのかも知れないが、そのときにはただ会釈するくらいの間柄に過ぎなくなるのだろうと。
ところが、お互い繰り出す弾ももう尽きたかという段になって、彼女の方から僕にこういった。
「よかったら、お茶でもどうですか」
喉が渇いているときに、目の前に水の入ったコップを差し出されれば、誰だってそのコップを手に取るだろう。怒られるのを承知でいえば、女に対する男というのもこの関係に似ている。そして男の喉は常に渇いているのだ。実際にコップの水を飲んでしまうかどうかは別として。
僕は我知らず、「はい」と答えていた。別にそのあとどうこうと期待したわけではない。せっかくお茶に誘ってくれているのを、無下に断るのも悪いような気がしたのだ。
ただ自分が左手に提げているドラッグストアのビニール袋だけが、ちょっぴり恨めしかった。もう少しおしゃれな店でシャンプーを買っておいてもよかったろうに。
僕らは地上に出て、喫茶店に入った。最初に目についたのがたまたま可愛らしいお店だったから入ったけれど、それが中年サラリーマンが好んで使うチェーン店だったとしても、僕らは躊躇せずに入っていたと思う。見た目とは裏腹に、それくらい彼女には飾り気がなかった。
その日、僕らはとても長い時間、その店で話し合った。
お互いの名前を名乗るところまではぎこちなかったけれど、そこから先は旧知の仲のように喋った。
僕が映画が好きなこと、彼女が(意外なことに)歴史小説が好きなこと、僕が梅雨が嫌いなこと、彼女がカエルが嫌いなこと……。
彼女が、「代官山に住んでます」といったときには、正直驚いた。土地勘のない人のためにいっておくと、代官山というのはとてもおしゃれな街だ。そしてその分、家賃も高い。
ところが彼女は笑って、「嘘です、嘘です」と、顔の前で手をひらひらさせた。このときも彼女の眉は表情豊かに動いていた。
「あんなところに住めるお給料もらってません」
「でも、ブランド店なんでしょう?」
この会話の直前に、彼女は某有名ブランド店で販売員をしているといっていた。
「ブランド品を買うお客さんはお金持ちですけど、販売員はそうでもありません」
彼女は楽しそうにいった。それから、「わたしもこっち派ですから」といって、僕が足下に置いたドラッグストアのビニール袋を指差した。
彼女が本当に住んでいるのは、代官山と同じく東横線沿線ではあったけど、それよりはずっと庶民的なところだった。
二人ともとっくに二杯目のコーヒーを飲み終わって、そろそろ帰ろうかというときに彼女がいったひとことがなければ、僕らはもう会うこともなかっただろう。
「彼女にプレゼントを買うときには、ぜひどうぞ」
彼女がいったのでなければ、それはいやらしい売り込みに聞こえたかも知れない。いや、彼女がいっていても、他の人が聞いていたら売り込みに聞こえていたのかも知れない。だけど僕の耳には、それはとても何気なく聞こえた。
もし本当に彼女が商売っ気を出していたとしても、それは無駄な努力だったろう。なにしろこのときの僕には彼女なんていなかったのだから。だから僕はいった。
「彼女はいません」
すると彼女は、眉を跳ね上げていった。
「あら、じゃあ、今度デートしましょうか」
本気とも冗談とも判断をつけかねたまま、僕は曖昧に返事をし、お互いのメールアドレスを交換してその日は別れた。
四
その次に彼女に会ったのは、七月も後半に入ってからのことだった。
あれ以来何度かメールのやりとりはしていたし、電話で話すこともあったけど、それ以上ことが進むわけでもなかった。
きっかけになったのは僕でも彼女でもなく、彼女の同僚の子だった。
「こんにちは」
昼休みに道端でいきなり挨拶をされても、初めは誰だかわからなかった。それはそうだろう。彼女とは違って、この子とは特別印象的な出会い方をしたわけじゃないんだから。
しかし販売員の記憶力というのはおそろしいもので、向こうは僕の顔をしっかりと覚えていた。
「怒ってましたよ」
ようやく思い出した僕に、その子はいった。
その子によれば、あれ以来、僕と彼女はメールをやりとりしているが、一向に進まない。興味がないならないでそういってくれればいいものを、のらりくらりとしたやりとりが一ヶ月も続いている。女が勇気を振り絞って水を向けたのに、アクションを起こさないとはなにごとか。というガールズトークが、あちらサイドでは繰り広げられているらしい。
「わたしがいうのもなんだけど、あんな美人でおもしろい子はいないわよ」と、その子はいった。引く手数多なんだから、いつまでもじらしてると売り切れちゃうわよ、と。
僕としては、じらしているつもりなど毛頭ない。それどころか、よってたかってからかわれているんじゃないかとすら思う。
「それにしてもねえ」といったあとには、どうしてあなたみたいなのが、と続くのかと思ったが、そうではなかった。
「なんで彼女、前の店であんなに評判悪かったのかしら」
彼女が前にいた支店——そのブランドでは何々支店という呼び方はしないらしいが——に勤める友達から聞いた話では、性格の悪さは天下一品だったらしい。他の販売員の客は奪う、邪魔はする、誰かの恋人を寝取ったことまであるという話で、たまりかねた販売員の陳情を受けて支店だけでなく勤務エリアごと配置換えになったらしい。
たまっていた有休と準備期間として与えられる公休を連結したほぼ一ヶ月の休みののち、戦々恐々迎えてみると、話に聞いていたのとは別人ではないかと思えるほどの気立ての良さで、あっという間に人気者になってしまった。
「あれが演技ならもうお手上げよ」
というわけで、安心して付き合えばいいという。ただし、彼女を泣かすようなことがあったら、支店の販売員全員を敵にまわすことになるからそのつもりで。
こっちだって彼女の真意をはかりかねてたんだ、などということは男としてはいえるはずもなく、僕は会社に戻った。
彼女をデートに誘ったのは、その次の日のことだった。
あんなことをいわれた当日ではどうにも情けない気がしたし、それ以上待つには「売り切れちゃうわよ」のひとことが気になり過ぎた。
結果、あっけなくデートの日取りが決まり、僕らは三度目の対面を果たすことになった。
五
僕らがしたデートについては、話すことはなにもない。
普通にドライブに行ったり、映画を見たり、食事をしたりして、そのうち手をつないだり、腕を組んだり、キスをしたりした。
僕の、それほど多くはない経験からいえば普通のものだったし、世間一般から見てもごくあたりまえのものだったと思う。
その後、僕ら二人のこの普通の恋愛には、三つの普通でないことが起こる。それもご丁寧なことに、小、中、大と順を追って大きくなる形で。いや、二番目は十分に大だったかな。だとしたら三番目のは特大か、無限大だ。
最初の普通でないことが起こったのは、二人でいることが特別なことではなくなって、いつしか日常になり始めていた頃のことだ。勘違いして欲しくないのは、それがマンネリとか、飽きたとかいうことじゃないってことだ。
むしろそれは、お互いがなくてはならない存在になり、離れていくことなんて考えられなくなったということだ。
だから僕は、そのことを彼女に告げた。つまり、プロポーズしたのだ。
彼女も僕と同じ気持ちでいてくれると思っていた。ところが、彼女の答えは違った。
「あなたがわたしに飽きるまで、ずっと一緒にいる」
でも結婚はだめだというのだ。
僕はそんなに結婚願望が強いわけではなかったけれど、男として責任は持ちたいし、子供だって育ててみたい。彼女にそういった。
だけど彼女は、結婚と子供はどうしてもだめだという。問い詰めるようなことはしなかったけど、彼女の意志は固そうだった。
そんなことがあってから少しして、彼女は僕にいった。いつものように愛し合ったあと、ベッドで静かに抱き合っているときのことだ。僕と彼女はこの時間が大好きだった。もしかしたら、セックスそのものよりも好きだったかも知れない。
「わたしの秘密、知りたい?」
少しかすれた声で、彼女が囁いた。
僕は半分夢見心地で、「うん」とうなずいた。
僕だって、女性がするこういう質問にはイエスとしか答えてはいけないのくらい知っている。
「わたしはあなたが思ってるより、ずっと歳を取っているの」
そのとき、彼女は二十六才のはずだった。でももしサバを読んでいたとしても、僕にはそんなことは気にならなかった。彼女が二十八だろうと、三十だろうと、あり得なそうな話だが四十だろうと、僕は構わなかった。
しかし、千才を超えているとは!それはもう冗談以外の何物でもなかったし、いくらなんでも桁が違い過ぎた。
「千年以上も生きてるのよ。すごいでしょう」
彼女は僕の胸に顔をうずめた。僕はこうして彼女の髪を撫でるのが好きだったし、彼女もそうだった。
「その割りには、ずいぶん若作りだね」
僕は髪を撫でながらいった。
「身体を乗り換えるの。東横線が渋谷駅に着いたら銀座線に乗り換えるみたいに」
「便利だな。そのまま乗り継いだら、どこまでも行けるの?」
僕は彼女の話に付き合うことにした。これはカラオケで誰かアイドルになりきるのと変わらない、つもりの話だ。
「そうよ、継命族っていうの。人の命を乗り継いで、どこまでも行くわ」
「乗り換えられた方の人は、どうなるんだい?」
「その人は、古い身体に入るの。だから、入れ替わるのね」
ベッドで聞く彼女の声は、とても甘い。
「科学の大発見をする人とか、歴史的な音楽家とか、だいたいはわたしと同じ、継命族」
「アインシュタインとか?」
「そう、継命族が乗り移ったの」
「継命族が乗り移ると、頭が良くなる?」
「勉強が大好きな人が乗り移れば、そうなるわね。何百年も、もしかしたら何千年も生きてるんだもの」
彼女は大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
「五才までほとんど口もきけなかった子が、九才になっていきなりピタゴラスの定理を証明出来ると思う?」
「それは、無理だろうな」
とは答えたものの、それが本当かどうか、僕にはわからなかった。
「じゃあ、バッハとかも?」
「もちろん」
彼女は僕の口づけに応えながらいった。
「その人はバッハからサリエリに入って、そのあとモーツアルトになったの」
それに対しては、僕はちょっとだけ異議を申し立てた。
「でもサリエリが生まれたのは大バッハが死んだ一ヶ月後だよ」
こう見えても僕はひとかどのクラシックファンだ。代表的な作曲家の生年月日くらい、だいたいは記憶している。
「あの生年月日は、嘘」
「嘘?」
「本当の誕生日は一七四八年の八月十八日」
僕の記憶では、サリエリの誕生日は一七五十年八月十八日だ。
「若い方が、天才だって騒がれるでしょう。だから嘘をついたの」
それはベートーベンも同じだ。彼も二才サバを読んでいた。
「でもすぐにモーツアルトに乗り換えちゃったわ。乗り換えられたときのモーツアルトはまだ幼かったけど、自分の身体が乗っ取られたことはわかったみたい。だから、サリエリの身体になってからも、元の自分の身体に宿る誰かを憎んでた」
おもしろい話だった。僕の記憶に間違いがなければ、年代もぴたりと合う。
「そのあとは、誰になったの?」
「そのあとは、死んじゃったわ……」
そういって、彼女は目をつぶった。
「こんなおばあちゃんでも、愛してくれる?」
再び目を開けた彼女は、僕に訊いた。
「愛すなっていわれても、無理だと思うよ」
僕は答えたけど、もう少し気の利いたセリフをいえれば良かったと、あとになって思った。
それでも彼女はうれしそうに微笑むと、静かに寝息を立て始めた。
僕も彼女の頭を抱いて、眠りに落ちた。
六
二つ目の普通でないことが起こったのは、それからほんの二ヶ月後、僕らが付き合い始めて丸二年経った夏のことだった。
僕らは夏休みを取って、長野県に旅行に来ていた。
僕らが滞在している間は本当に良く晴れて、恋人同士の旅行としては完璧だった。
馬に乗ったり、ソフトクリームを食べたり、温泉に入ったり、文句のつけようもないほどの夏休みを僕らは過ごした。
そして東京に向かう高速道路に乗ろうとインターチェンジを目指しているとき、僕の車は落石の直撃を受けたのだ。
大雨で緩んだ山の斜面が、ちょうど僕の車がそこを通りかかるタイミングで埋まっていた大岩を手放すことに決めてしまったらしく、まだローンが半分以上残っている車は見事に下敷きになった。
さいわいだったのは、助手席側がほとんど無傷だったことだ。おかげで奇跡的に、彼女は軽い打撲で済んだ。
ただ運転席側はといえば、僕の身体もろともぐしゃぐしゃに潰れてしまっていた。
ぶつかったときのことも、病院に搬送される間のことも、僕は一切覚えていない。スクラップ同然の車の中から、みずからの危険を顧みず僕と彼女を救出してくれたはずのレスキュー隊員のみなさんには、本当に申し訳ない。
ただ手術室らしいところに運ばれて、お医者さんたちが難しい言葉を怒鳴り合うように話していたのをちらっと覚えている。でもまたすぐに、意識をなくしてしまったらしい。
次に気が付いたのは、集中治療室だったと思う。あとから知ったところでは、救命救急集中治療室という長い名前の部屋だったそうだ。
どこからどうやって入り込んだのか、僕の枕元には彼女がいた。泣いていた。
あちこち包帯を巻いている彼女を見て、僕は「痛くない?」と訊こうとしたけれど、口に太い管が突っ込まれていたし、そもそも頭の横でダースベイダーみたいな音を立てている機械が僕の肺を支配しているらしく、声を出すことは出来なかった。
彼女は小さな女の子みたいに泣きじゃくっては、両手で涙を拭いていた。
この事故が普通でないことの二つ目だ。三つ目はこれに続けて起こる。
七
僕の意識がまた遠ざかり始め、目が閉じかけたとき、彼女が僕におおいかぶさってくるのが見えた。「いまはまずいよ」なんて考えていた僕は、状況をなにも理解していなかった。
でも思い切って目を開けて、彼女の姿が見えたとき、僕はほっとした。
彼女の包帯はもう全部取れて、店でよく着ている黒いパンツスーツ姿になっていた。僕はといえば、病院のガウン一枚だから始末に負えない。
僕は、「どうしました?」と声をかけた。初めて出会った日のことは、僕ら二人の間では語り草になっていたのだ。
ただ今日の彼女は、いつものように眉を上げて笑いながら「どうしました?」とは返してくれなかった。
彼女は白い大きな部屋の床に僕と並んで座ると、静かに話し始めた。
「継命族のこと、覚えてる?」
僕は、うなずいて「ああ」と答えた。
「わたしもその一人なの。たくさんの命を乗り継いできたわ」
彼女は冗談をいっているようには見えなかった。
「わたしが継命族だって気付いたのは、もう千年以上前のこと。日本が統一されたといっても、地方にはまだまだたくさんの国があった頃よ。わたしはその国のひとつに生まれたの。
あるとき、その国が飢饉に襲われた。そして誰かが生贄にされることになったの。その当時ですら、人身御供は野蛮な風習として禁止されていたわ。でも国の巫女は、どうしても人身御供を出すといってきかなかった。そしてその白羽の矢が立ったのがわたし」
彼女はいつの間にか、僕の横で小さな女の子の姿になっていた。貫頭衣らしい衣服に身を包み、顔かたちに彼女の面影はまったくなかったけれど、それでも僕にはそれが彼女であることがわかった。
「わたしは禊祓として三日間、国の真ん中を流れる河の中に座らされたわ。親も、兄弟も、誰も助けてくれようとはしなかった。寒くて、お腹が減って、半分気を失っているところを河から引きずり出され、祭壇に立たされた。
わたしは泣いて頼んだ。助けて、殺さないでって。だけど巫女は耳を貸そうともしなかった。
わたしは訊いた。本当に、本当に、わたしでなくちゃだめなんですか?
巫女はわたしにそっと囁いたわ。そんなことないよ、おまえたちなんか、誰が死んだって同じ。でもおまえが死ねば、穀潰しが減るだろうって。
わたしはまだ子を産める歳じゃなかったし、男たちのようにも働けない。だから殺して口を減らそうというだけだった。
祭壇の周りに集まる人たちにはもっともらしいことをいっておきながら、巫女のやっていることはただの間引きだった。そしていまからそれをやろうとしているあの女の身体からは、さっき食べたばかりの米の匂いがしていたわ。
わたしたちが食うや食わずの生活をしているのに、巫女たちは神事のためといって作物を徴収しては自分たちだけで食べていた。それに異議を唱えれば、神罰が下るといって脅された。ばかみたいに聞こえるでしょうけど、その当時のわたしたちにはそれはとてもおそろしいことだったの。
だけどわたしは、こわくてこわくて、とても死ぬのなんて受け入れられなかった。だから巫女が短刀を振りかざしたとき、無我夢中でしがみついたの」
僕の隣の女の子は、自分の身体をかき抱いて泣いていた。その身体ははっきりとわかるくらい震えている。
「背中を刺されたわ、何度も、何カ所も。痛くて気が遠くなりそうだった。でもわたしは生きたかった。死にたくなかった。
わたしは祈ったわ。なにに祈ったのかわからないけど、とにかく、死にたくない、死にたくない、死にたくない!
そして気が付いたら、わたしは短刀を自分の背中に突き立てていたの。
初めはなにが起こっているのかわからなかった。短刀を奪ったのかと思った。でも目の前には、背中から血を流しているわたしがいる。
わたしは自分を、短刀を持っている方の自分の身体を見た。そこには巫女の装束を着た身体があった。
もう一度顔を上げると、口から血の泡を吹いている自分と目が合った。流れる河や、せいぜい水たまりに映る姿でしか見たことのない顔だけれど、間違いなく自分の顔だった。
そしてその顔も、目を見開いて驚いていた。
血を流すわたしは、ごぼごぼいいながら小さく「返せ」って呻いて倒れたわ。
そのとき、わかったの。わたしは巫女と入れ替わったんだって」
彼女は、さっきの痩せ細った少女よりも年かさの、いくらかふくよかな女性に変わっていた。
「それがわたしの、継命族としてのはじまり。それ以来わたしは、寿命が尽きかけると他の人の身体に乗り移った。できるだけ咎人や、生まれつき心が空っぽな人を選ぶようにして。咎人になったときには別の国に逃げて、虚ろなる者になったときには神憑りを演じたわ。
でもそれがかなわないときには、近くにいる人を容赦なく襲った。
そうやって生きるうち、他の継命族がわたしに接触してきたわ。いま思えば、虚ろなる者が突然農耕や狩猟の知恵を語り出すんですもの、諸国に知れ渡って当然よね。
あるとき、東の国から来たという男がわたしにいった。「おまえは、命を渡り歩く者か」って。
わたしは知らないといった。真実を知られれば殺されると思った。化け物として焼かれるか、それとも天罰が下るかと。
でも、逃げようとするわたしに、その男はいったわ。「恐れなくていい。俺も同じだ」
此の世には、同じ力を持った人間がいる。その人たちはおまえと同じように、みずからの力に恐れおののきながら生きてきたのだと。もう何千年も前から。
それは、人ならぬ力などではない。その力を持つ者と、持たざる者がいるだけだ」
「遺伝みたいなものなの?」
僕は隣で背を丸くしている老婆に訊いた。
「わからない。子を儲ける継命族もいたけれど、その子が力を受け継いだという話は聞かない。継命族の親は、自分の子や孫が老いて死んでいくのを見ることになるのよ。もちろんそれに耐えられずに、姿を変えて国や集落を離れることの方が多かった。
継命族の親が、自分の子供も同じ力を持っているはずだと思い込んで、誤って殺してしまうこともあったわ」
彼女もそんな経験をしたことがあるんだろうか。僕の横でうつむいている、この粗末な身なりの少女も。
「わたしは東の国から来た男と共に旅に出た。諸国をまわり、何人かの継命族に出会った。でも大半は、自分が継命族だと知られると姿を消したわ。
平和なときもあれば、戦の時代もあった。ある戦乱の時代に、わたしは訊いた。「わたしたちは、なんのためにこんな力を授かったのですか」と。戦で簡単に人が命を落とすのに、なぜわたしたちだけが命を繋いでいくことが出来るのかと。
男は答えた。「この力に、目的などない」
山が聳え、河が流れることに目的などないように、この力にも目的はないのだ。
自分はおまえと出会う前からあらゆる国を旅し、同じように問うた。しかしその問いの答えも、答えてくれるであろう神すらもどこにも見出すことは出来なかった、と男はいった。
ではなぜあなたは旅をするのですか、とわたしは訊いた。答えがないと知りながら、なぜまだ旅を続けるのですか。
探しているのだ、と男は答えた。もう生きなくてもいいという理由を探しているのだ、と。
やがて、西の外つ国と盛んに人が行き来するようになった。わたしたちは海を渡り、そこで別れた」
彼女は髪を結い上げ、天女のような服を着ていた。
「広い大陸を、わたしは彷徨い続けた。ときには大陸の継命族と出くわすこともあったけど、多くはすれ違うだけだった。
その中で一度だけ、みずから宗教を興している継命族に会ったわ。彼は命の終わりが近くなると、小さな子を連れて来させて乗り移る。そしてその子は跡を継いで宗主になるの」
「ダライ・ラマか!」
僕は思わず声を張り上げた。
しかし、彼女は雪焼けした頬を僕に向けてこう答えた。
「いまの彼は違うわ。でも、わたしが出会った継命族のやり方をなぞっているわね。
彼はわたしに、これこそがこの力の目的だと語った。長く生き、賢明になり、身に付けた知恵を人々のために使うのだと。
わたしはとても感銘を受けたけれど、それは彼の目的であって、わたしの目的ではないような気がした。人々の幸福や希望を背負うのは、わたしには荷が重すぎたの。
だからわたしは丁重なもてなしの礼をいうと、そこを去った。彼は信者と共に、わたしの旅の安全と天啓を祈ってくれたわ。
それからわたしはヨーロッパに渡り、長い間そこに留まった」
「バッハにも会った?」
「ええ、いつか話したとおりよ。バッハになる前から、彼を知っているわ。その前は役者をしていたの。だから、バッハや、サリエリや、モーツアルトというまったく違う性格を演じわけることが出来た」
彼女は長い赤毛を振った。薄手のワンピースが寒そうに見えた。
「でも、モーツアルトになっているときに、音楽を極めてもなにも見つからないっていって、そのまま死んでしまったの」
僕は彼女に掛けてやる上着を持っていないのが残念だった。この部屋はとても寒い。
「そのあとはイギリスからアメリカに渡って、開拓団の一員として西に向かったわ。再び日本に戻ってきたのは、戦争が終わって少しした頃」
僕は日に焼けた彼女の肩を抱いた。彼女が凍えてしまわないように。
「そしてまたいくつかの命を乗り継いで、いまの姿になったの」
「その人はどうなったの、僕に出会う前にその身体にいた人は?」
「生きてるわ。でもクスリで相当いっちゃってるときだったから、そのあとどうなったかはわからない」
彼女の名誉のためにいっておくと、彼女はいまの身体を無理矢理奪ったわけじゃない。
同僚の子がいっていたように、前の支店で相当の厄介者だったらしい彼女(の元の人)は、その筋の人と付き合っていて、酒やクスリに溺れていったらしい。そんな彼女を、継命族の方の彼女はずっと見ていた。
転勤を命じられて怒った彼女は、店でさんざん喚き散らしたあげくにパーティーに行き、そこでしこたま飲み、クスリをやった。
パーティーがはねたあと、継命族の彼女は酔いつぶれた彼女を部屋まで送っていった。彼女は部屋に帰ってからも飲み続け、打ち続け、吸い続けた。
最後のクスリに火を点けるはるか以前に、彼女の肉体は限界を超えていた。
そしてクスリの火が燃え尽きるよりも早く、彼女の魂は燃え尽きようとしていた。
そのときに、継命族の彼女が乗り移ったのだ。
「わたしは薬物に強いから」
見慣れた姿に戻った彼女はいった。
「乗り移った先の身体でお酒に酔おうと思えば酔えるし、薬で風邪を治すことも出来る。でもそれをまったく効かなくすることも出来るの。でもさすがに今回は、ちょっときつかった」
ようやく彼女は、少しだけ笑った。
僕も笑顔になろうとするが、寒さのせいで歯の根も合わない。
「今度は、あなたに乗り移るわ」
彼女は僕を見つめた。
「傷だらけだよ」
冗談のつもりでいったけど、彼女の顔からは笑顔が消えていた。
彼女がなにもいわないから、「どうして?」と訊いてみた。我ながら、ばかな質問だったと思う。
「あなたが、死んじゃうから」
それは逆だろう、と思った。君が死んじゃうから僕に乗り移るのならいいけど、これから死んでしまう僕に乗り移ってもいいことはひとつもない。
「怪我、治せるの?」
寒くて、呂律がまわらない。
「それは無理。あなたの身体、ぐちゃぐちゃだもの。薬物には強くても、怪我や傷はたいして治せないのよ」
じゃあ乗り移っちゃだめじゃないか、といおうとしたけど、もう口が動かなかった。
「身体に気をつけてね」
彼女が僕の身体に手をまわした。
部屋が暗くなってきた。誰か、照明をいじったな?
「最初のうちは、うまく動けないかも知れない。わたしたちが初めて会ったときみたいに」
そうか、あのとき君は酔っていたんじゃなくて、身体を乗り換えたばかりでうまく動けなかったのか。
「ちょっとくらいエッチなことしてもいいけど、ほどほどにしておいてね」
彼女はいたずらっぽく、顔をくしゃくしゃにして笑うと、僕の頭を抱いた。
彼女の髪が僕の顔にかかってくすぐったい。
彼女の匂いがした。
「生理痛って、結構きついのよ」
彼女は、例のよく動く眉を寄せてしかめっ面をして見せた。
待って。僕はまだなにも理解していないし、納得なんかしていない。
「なぜ……?」
本当はもっといいたいことや訊きたいことがあったし、彼女を説得してやめさせるつもりでいたけれど、絞り出すようにそういうのがそのときの僕の限界だった。「どうして」の四文字すら、発音することは不可能だったのだ。
「あなたが好きなんだもの」
彼女は僕の頬にキスをした。それからおでこにも。
「たくさん生きてきたのに、結局この力の目的なんて見つからなかったわ。でも、目的は見つからなくても、死ぬ理由は見つかったと思うの」
部屋はますます寒く、暗くなっていった。
「だから、あなたは生きて」
寒くて、暗くて、僕はもうそれ以上、なにも考えられなくなっていた。
八
気が付いたときには病室の天井が見えていたから、僕は夢を見ていたんだと思った。
もう、口を塞ぐチューブも取り除かれていたし、肺は人工呼吸器から仕事を奪い返していた。
ところがいきなり、頭の方でピーという音が鳴り始めた。
ドラマなんかで、心電図が平らになると鳴り響いて、やたらと緊迫感を盛り上げてくれるやつだ。
ちょっとびっくりしたけど、僕は慌てることはなかった。僕の肺は相変わらず自分の仕事をこなしていたし、意識すれば心臓の鼓動さえ感じとることが出来た。
きっとどこかの接続が外れて、誤作動を起こしてしまったに違いない。大急ぎでやって来たお医者さんや看護士さんたちに、申し訳ないような気がした。
ところがどうしたことか、彼らは僕をまたいでなにかごそごそやっている。
どうして彼らは僕のベッドの上に立っているんだろう?
頸をめぐらして見ると、シーツがやけにてかてかしている。糊を効かせ過ぎだな、と思った。
それにしても、このベッドはやけに硬い。
そう思ったとき、頭の中がはっきりした。
僕が寝ているのはベッドの上なんかじゃない。僕は、床の上に仰向けに転がっていたのだ。
すぐに、「誰かこの人運んで!」という声が聞こえた。
僕の身体はふわりと持ち上げられ、部屋全体が見渡せた。
白衣を着た何人もの人が、部屋の真ん中でたくさんのチューブに繋がれている患者を囲んでいた。
「除細動器!」とか、「エピちょうだい!」とか、テレビでしか聞いたことのない言葉が飛び交っていた。
その人垣の隙間からちらりと見えた患者の顔は、まぎれもなく僕のものだった。
僕は、「違う、違う」といおうとしたけれど、口から出るのは呻き声ばかりだった。
僕は、というか、彼女の身体になった僕は、その後一週間ほど入院することになったので、自分の葬式には出られなかった。でもまあ、僕の死を嘆き悲しむ両親を見るのもいやだったから、これはこれでよかったと思う。
入院中、見舞いにやってきた僕の両親は、息子の運転する車に乗っていて怪我をした彼女に、身体を二つに折って謝ってくれたけど、僕はどう答えていいかわからずに、ただ涙を流していた。
このときの涙の意味を、僕の両親が知ることはこの先もずっとないだろう。
彼女になった僕の奇妙な振る舞いについては、恋人を亡くしたことによる一時的な錯乱と記憶の欠落ということで、かえって気を遣われてしまった。仕事を一から覚え直すのは骨だったけれど、同僚の販売員たちからの圧倒的なサポートに助けられた。彼女がその店でどれだけ人気者だったかを、まざまざと感じた。
僕はこうして彼女とひとつになったけれど、この身体の中に彼女はいない。
千年以上生きた彼女が、僕のなにをそんなに好きになってくれたのか、それはいまでもわからない。
僕は取り柄もなにもないし、人に自慢出来るようなものはなにひとつ持ち合わせていない。
もし彼女に訊くことが出来たら、きっとまたあのよく動く眉を寄せて、「ないしょ」といって笑うのだろう。
時々、彼女の声で僕の名前を呼んでみたり、彼女の顔を鏡に映して長い間見つめてみたりしたけれど、決まって虚しくなってしまうのですぐにやめた。
彼女の残していったたくさんの物に囲まれて暮らしていると、死んでしまいたくなる。
それでも、僕は生きている。
彼女が、「あなたは生きて」と望んだから。
ただ、もう何年もこの身体で生きているのに、いまだに彼女みたいには、器用に眉を動かせないんだ。
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