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残酷な夏の終わりに奇跡を信じる

地上のものを全て灼き尽くすつもりか何週間も残酷に照り続けた空が、今度は突然不吉な雨雲に覆われた。

おかげであの息も出来ないような日差しからだけでも逃れることができたしばしの安堵と、長い厳しい夏の間に体力も気力も奪われたかのような重い身体で、ハンドルに寄りかかるように私は小雨の街中で車を運転していた。

大型台風の予報が引きおこしたパニックのせいで街はシャッターに閉ざされ、灰色の歩道には、まるで路上にいるのも罪のような風情で顔を傘で隠してそそくさと歩き去る人影がまばらに見えるだけだ。まだ風が吹き始めただけで雨足は強くない。

ワイパーが規則的に遮る異様な街の風景を目に映しながら私はとてつもない疲れを感じていた。

夏中続く災害の噂、長い人生の終わりのない事務仕事、振り切っても振り切っても追いかけてくる義務と責任と毒のような人間関係。
心身の疲労のせいか数日前から心が沈み頭の中まで暗い雲に覆われているかのように暗い考えばかりが支配する。

私は自分を幸せな気分にする為にほんの数週間前まで共に休暇を過ごし駅で見送ったばかりの男を想う。硬質で確実に私を安定させてくれるあの胸に自分の身を全て委ねたい、痛いほど強くその望みを感じる。

彼に抱かれたい、そう望むときの私はまるで我儘な子供のようだ。手足をバタバタしたくなるような、今すぐに手に入らないと泣き出したくなるような、そんな衝動。
そして彼はと言えば、かつて誘惑し堕落させた挙句に裏切り続けた私を何度でも顔色ひとつ変えずに受け入れてきた。たとえ両親を悲しませても。

その胸に頬を埋めるとき人生で経験した全ての悲しみが遠のく。世界の全ての悲惨が消え去る。満身創痍でしか生きることのできない私の為の完璧なシェルター。

それは彼が19歳、私が20歳だった頃から変わらない。

あれは渋谷で知人と集まって飲んだ夜のことだった。まだ20代だった私は向精神薬を大量に服用し体重は36キロを切っていてその上浴びるように酒を飲んでいた。当時婚約していた男は酒の上での喧嘩が引き起こした傷害事件で逮捕され東京拘置所に勾留中だった。

剥き出しの神経に直接触れられるかのような人との会話。好奇と哀れみに満ちた視線。全て自分のせいだった。そんな恋愛を選んだのも自分だった。だからこそ可哀想に思われたくない。ことさらに明るく、まるでトラブルを全て楽しんでいるかのように飲んではしゃぎ、疲れ果てて夜の街角でタクシーを拾った。

タクシーのシートに沈み込むと運転手に告げたのはもう何年も前に出て行った彼のアパートの住所だった。その時の彼は私の知っている年下の女の子と付き合っていたのだろうか、自分を捨てて私が走った男の醜聞は耳に入っていたのだろうか、よく知らない。
疲れ果てた私は灼けつくような望みにただ導かれていた。
彼に抱かれて眠りたい。

真夜中のノックの音にドアから覗かせた彼の顔は驚いては見えなかった。
彼は感情を顔に出さない男なのだ。
何年も前に出ていって突然また部屋に戻ってきた私に何ひとつ尋ねることなく責めることもなく受け入れた。まるで二人の間には何も起きなかったかのように。
何年か振りに抱く私は彼が知っていた頃とは別人のようにガリガリに痩せ細って病み切っていたはずだ。それでも彼は変わらず優しい目で私を見た。

吐き気を催すような罪悪感と自己嫌悪とそれでも彼が与えてくれる懐かしい優しさとに溺れながら私は言った。
「ね、これ言ってもいい?」
「なに?」
「めっちゃ気持ちいい」
私たちはお互いの耳元で笑い声を立てた。

次の朝、私たちはジャズの流れる中野の喫茶店に座っていた。物憂げにテーブルに頬杖をつく私の姿をフィルムに焼き付けた彼はそのモノクロームの写真を後にプリントして郵送してくれた。小さな手紙を添えて。

「レンズを通して君を見る僕の目は昔も今も変わらないようです。薬指の指輪が胸に刺さりますが」

運命はそれから30年近くもの間離ればなれで生きることしか許してくれなかった。それなのにまた今になって私は我儘な子供のように彼を求め、彼も全く同じように私を受け入れる。

彼がこう言った。
「奇跡と呼ぶのなら、そういう事なのかも知れません」

歳を重ねるごとに人生はますます残酷で
世界はどんどん絶望に近づいていくようにしか見えない。
それでもきっと奇跡はあちこちに潜んでいるのだ。
愛を諦めさえしなければ。

私はハンドルを握り締めて決心をする。
もう私は二度と自分を欺くことはしない。
この過酷な夏が終わって肌寒くなる頃にまた彼に会いに行こう。
それまで生き延びる体力と愛を諦めない強い精神力を育もう。
そしてそれはこの不安に満ちた世界をも満たしていくに違いないのだ。


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