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対象物を馬へずらすと、人はどんな顔つきになるだろう?この町で、必然性のある、人と人の間におく何かについて。

私が住む町では、夏のある時期からは草刈機をタスキ掛けのようにして抱えて左右に刃先を揺らしたり、秋の入り口ではミレーの落穂拾いさながら、朴葉を中腰で拾い続ける。
身体性を伴い無心にさせる動きは、ふと空を見上げたときや終わったあとの爽快感は、スポーツの後に感じる爽快感と同じようなものなんだなと思う。

自分や他者の存在をあーだこーだ考えるよりも、手先、目の前、今この瞬間の時間に最も集中する時間を過ごしたという爽快感。


この町で、必然性のある、人と人の間におく何か

馬、という存在は私の恩人であるあやさんの活動を通して気になる存在ではあったもののそれ以上浮上する存在ではなかった。ところが、2021年、少し暑さも落ち着いたころにほっちのロッヂで共同代表の紅谷さんと共に、あやさんの「馬について」の話を聞くうちに、どうにもこうにも関心が強くなった。なぜか。

2019年ごろから始めたほっちのロッヂも、2017年ごろ主宰していた町に飛び出した家庭科室でも、2010年に創業者の1人として始めた老人ホームでも、振り返れば「人と人の間におく何か」に夢中になってきた。人の手が奏でる音楽、教えあって何かを編む所作、隣りなって庭仕事に向かう環境づくり、自分の表現活動に打ち込む様などここでは書ききれないほど、そしてとても小さな活動の瞬間を積み重ねてきた。いわば「福祉環境設計士」なんて自分を表してきたように。

「人と人の間におく何か」の引き出しは、なんでもかんでもあっていいと思う一方で、【この町で、必然性のある、人と人の間におく何か】を考え続けていた。どこの町でも行えることはきっと私たちがやらなくってもいいかもしれないから。

馬との暮らし、軽井沢町、発地。この町で私や私の活動として担えるものかもしれないからとピンときたのは、こんな理由からだった。

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大分、ゆれる。棚田で放牧される馬が夕日に染まっている

歴史が薄まった先に待つ未来

ほっちのロッヂの活動を通して私が出会う人は、大きく3つに分かれていく。「軽井沢町で生まれ、生き、生きるを終えようとしている人」から、「なんらかの理由で引っ越してきた人」、「ある時期だけ住まう人」。このうち1つもしくは2つは重なる町も多いかもしれないけれど、3つ重なり、しかも人口が大きく増えてきている、と聞くともしかしたら国内外でも珍しい人の動きがある町かもしれない。
人口減少が進むこの国全体からみれば、「うらやましい」と感じる人もいるかもしれないが、ところがどっこい、私が危惧しているのは、3つのそれらの人たちの分断が重なり合うことなくより進んでいくことと、古き地元の歴史が少しずつ薄まっていくことだった。

『軽井沢きき取り物語 じぃ・ばあからの贈り物(軽井沢きき取り物語実行委員会))』という本がある。確か2019年に軽井沢町に越してから、ほぼ同時期にじっくり読んでいた本。軽井沢町が極寒で、牧歌的で、貧しさもあったその環境の中で子ども時代に苦しんだこと、楽しんだことが書き取られている。
その中で動物、そして馬の記述が目をひいて、心のどこかにずっと引っかかっていた。改めて読み返す中で最も印象的な部分をいくつか。

--- 軽井沢は平安時代、朝廷に馬を納めた「長倉の牧」と言われ古くから馬との関わりがありました。近世になっても中山道の宿場町として、荷役や農耕に馬をはじめとする牧畜に深く生活が関わってきました。---(『軽井沢きき取り物語 じぃ・ばあからの贈り物』P69)

●馬がなければ田を耕せないからどの家も馬を飼っていました。発地は牛ではなくて馬だった。「牛はノタノタしていてラチがあかない」。飼うのはメス馬だった。(下発地地区・ 1935年生まれ)

●昔の農家は農耕馬と一緒の屋根の下に住むのが普通で、馬は家の中で飼っていた。こうした家は借宿でも四、五軒ありました。馬に餌をやってから食事をするのが習慣でした。(借宿地区・ 1933年生まれ)

●私はずっと会社員だったけど、うちは最後の馬飼いでした。子どものころ、学校から帰るとまず馬のためのカイバ切り(餌にする稲ワラを刻む)をしないと、遊びに行けなかったものです。(油井地区・1952年生まれ)

●50年ほど前に耕運機が普及するまでは軽井沢には最高220頭の農耕馬がいました。また成沢にいた馬は戦後に米軍専用となり、後になってオリンピックの乗馬競技に使われました。千ヶ滝プリンスホテルには調教師が4.5人来て皇族の乗る馬の世話をしていました。また20年ほど前、皇宮警察に三頭の馬を納入しました。息子が現在中軽井沢の西地区で貸馬業を営んでいます。
(中略)このころ街中にはあっちこっちに馬ふんが落ちていましたが、発酵が早くていい肥料になったので、旧軽井沢、新軽井沢の人たちも自家菜園用に率先して拾っていました。(中軽地区・1937年生まれ)

すでにこれ以下の年齢の人たちは馬との暮らしを知らない世代。歴史が薄まった先に待つ未来は、今は良くても、いずれ”住み続ける理由がなくなる”地域になってゆく。いわゆる地域への愛着や郷土愛を持つ理由が見当たらなくなるから。

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発地を、Heartland (チャレンジドジャパンホースパーク) ロッキーと歩く。

人と馬、毎日が「ほぼ初めまして」状態

こんなことが頭にチラついていた時に、あやさんの話を聞いた。そしてそれを強くさせたのは、「馬は、個体識別能力が弱いという特徴がある」という話。個別識別能力...ヒトを見分ける力が弱い... ちょっとまってちょっとまって。それどっかで聞いたことある。年齢による記憶力の低下や、脳の病気の進行で、モノ・コト・そして最後にヒトを忘れていく人たちがいる。

人と人ならば「なんで忘れるの!」と怒りが伴うだろうけれど、人と馬、その毎日が「ほぼ初めまして」状態。人と馬は言葉で何かを交わせない。人と馬は圧倒的に体型が違う。人と馬は食べるものも違う。違う、違う、違うものだらけの両者は、「毎日が初めまして」状態だから、昨日も明日もほとんど関係がない。今この瞬間の出会いや時間に最も集中できる。

あやさんに紹介をしてもらい、ある人を訪ね島根や大分、もちろん軽井沢町にも来てもらった。いろいろ規格外につき人間界の名詞で括れない人物とも言われるという、よりたさん。「ホース・ウィスパラー(馬の言葉を話す人)」。
第4話 馬の言葉を話す人 , 第5話 馬の人 インタビュー に詳しい。)

英語が上手な人が相手と対話ができるかというと、そういうことではないと思う。英語は上手だけど、全然共感できないということは起きる。それは通じてないと言っていいと思います。だから、馬の言葉を知っていれば通じるということではないんです。コミュニケーションとは何かというと、馬の反応に対して、その都度こちらが反応を返しているということなんです。僕の反応と馬の反応がいったりきたりしている状態をつくるということですね。何もしていないように見えるかもしれないけど、馬のわずかな動きに対してわずかに反応する、それを繰り返します。これがコミュニケーションの中身です。(本文より

人と馬の応答について、知れば知るほど興味が強くなる。ここでは紹介しきれないほど。もしかしたら、まずは馬との暮らしをおくっていくことが【この町で、必然性のある、人と人の間におく何か】になるのかも。

そして、「毎日が初めまして」状態だから、昨日も明日もほとんど関係がない。今この瞬間の出会いや時間に最も集中できる。どんな状態や症状、年齢の子どもだって大人だって、この時間を重ねることで、生きていくその様に影響を大きく与えるような、いろいろなことに応用できるかもしれないという、確信が芽生えてきた今。しかも馬の歴史が長い発地のエリアで。

なるほど。一昔前は農業を中心とした営みに馬がいたとしたら、それをまた必要な状態にアップデートしていくようなそんな感じに近いのかな。

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島根、他力塾。暮らし型の牧場。ちょこんとのぞく住馬たち。

その準備は少しずつ少しずつ、進む。

藤岡聡子 / いつも人の流れを考えている、表現の舞台の作り手