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シアトル、ベインブリッジアイランドのedgeから眺める水面 2024.7.30
出張先には2種類の本を持っていくことが多く、1種類は仕事に直結するもの、もう1種類は小説やエッセイをランダムに選ぶ。今回ふと手に取った『春になったら苺を摘みに』はかれこれ10年は繰り返し読んできた梨木香歩の作品の一つで、日系アメリカ人が経験した強制収容所の情景が描かれた章がある。
もう何度も何度も読んできたこの章に通ずる現場に自分が訪れることになろうとは、思いもしなかった。
『春になったら苺を摘みに』内、「それぞれの戦争」では、梨木香歩が慕ったアメリカ人児童文学者の父親が米軍で出兵し、銃を強制させられガンとして命令を聞かず軍事裁判にかけられ無実となった奇跡のような出来事と、梨木香歩が偶然に電車内で隣り合わせた日系アメリカ人の物語が重ね合わせられている。
私はカリフォルニアで生まれ、向こうで教育を受けました。
-では戦時中は日本にお帰りに?
いや。アメリカで過ごしました。強制収容所で。
ひどいもんでした。まるで馬小屋ですよ。急造のバラック建てて床にはアスファルトが流し込んであって、冬は寒くて寒くて。フレスノ強制収容所というところです。カリフォルニアの真ん中にある。そこからアーカンソー州のジョロムというところで忠誠の問いを立てられたのです。つまり、おまえたちは敵国出身だが、アメリカに忠誠を尽くす気があるのかと。怒りましたね。自分たちはずっとアメリカ人だと思ってきた。それなのにほとんど着のみ着のまま、荷物は両手で持てるだけしか許されず、貯金は凍結、いきなりあんなひどいところに押し込められて。だってドイツ人もイタリア人もそんな目にはあってないわけです。それが日本人の血が一滴だって混じっている者は、強制的に収容されたのです。
この男性が高校生の時であったときの壮絶な経験は、収容所監視員の不義、暴力と無秩序が渦巻き、それでも生きてハンガーストライキの末、シアトルから海軍輸送船で日本に送られたことで一つの結末を迎える。しかしその時の記憶はアメリカにも日本にも公式に残っておらず、秘密裏に行われた400名分の捕虜の交換だった可能性が高く、この男性がアメリカで生まれた記録も抹消されたことが、エッセイには綴られている。
彼が72歳になったとき、通っていたカリフォルニアの高校の卒業証書をもらう機会があり、それは全米で大きなニュースになった。その時に自分の中の戦争が終わったと思った、そう結ばれていた。
おそらくこの男性を含めた日系アメリカ人が一堂に集められたであろう島が、シアトルの港から30分ほどのところにある島、ベインブリッジアイランドだろう。
昨年から参加しているUSJLP、米日リーダーシッププログラムのカンファレンス中に訪れた機会で、私は今まで想像にもしなかった日系の方々が置かれた環境について知ることとなる。
ベインブリッジ島日系アメリカ人排除記念碑
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メモリアルとして保全されているのは、いわゆる資料館などの建物ではなく、米国内からベインブリッジアイランドに到着し、そして移送されて行った人たちが歩いた道(path way)と、その全体の植生が保全された場所だった。
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歩けば10分で終わるであろうそのpath wayを、1時間ほどかけて説明を受けながらグループで巡る。日系アメリカ人としてハワイで生まれ育ち、長らくこの島で学校教員をしていたJoyceは、まるで見てきたかのように昨日のことかのように語り継いでくれ、明快に話をしてくれる。
エピソードに絶句しながらも、天気に恵まれ、風が気持ちが通ることが救いだった。
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当時この島から強制収容所に送られた方々の話を聴くチャンスに恵まれた。その時彼女らは5歳前後で、母親が彼女らを守ってくれたことが当時の記憶としてあるが、あの頃の10代から上の世代は非常に苦しかっただろうと話す。まさに梨木香歩が隣り合わせた男性の話だろう。
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強制収容が終わっても、日系への差別は平然として行われた。この島ベインブリッジアイランドに元々居住していた日系の方々もそうなってもおかしくなかったはずだが、実際のところそうした差別はほとんど行われなかったと語り継がれている。
当時5歳ごろだったアメリカ人の方に、なぜそうした差別がこの島ではほとんど行われなかったのか。帰りのバスに乗る手前で急いで個人的に聞かせてもらった。
ちょうど強制収容所から帰ってきたのが8月で、新学期が始まる時だったの。それで、学校の教師と親たちが、お帰りなさいのピクニックを彼ら・彼女たちに開いたのです。
そうして私たちのコミュニティに帰ってくる第一歩になった。彼ら彼女たちは行く前から大切な私たちの仲間だったからそれを証明したかった。
Ok, so this is.. It’s depend on what kind of community you have belong to.と、私は彼女に再度聞いた。
そうしたら、彼女はにっこり微笑んで、Yes, I do think so.と答えてくれた。
ここはCommunity-memorialだとガイドしてくれたJoyceが言った。そんな言葉、あるのだろうか。あるのか。言えるまでに保全し大切に継いできたのか。
日系何世ぐらいになるのかな、10代でロック好きの若き子も植物の保全活動に参加していた。光だと思った。
コミュニティの博愛の深さの重力が、大きく身体に刻まれた、そんな滞在だった。
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2024.7.30
シアトル・ベイブリッジアイランドにて