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それぞれの文化をはぐくんできた共同体の人間たちが、自分たちの感性、自分たちの論理をたしかめ、発展させるひとつのモメントとしての存在。2024.12.8
日々色々な専門性を持つ人たちと活動していると、その根底あるいは巡りの意味はなんだろうと考える。真ん中に据えているものはなんだろう。人の暮らしに近い現場であれば、中心に目の前の人の豊かさがある、という具合に。
11月に、『地球再生型生活記』著者の四井さんを訪ねに仲間と合流する機会があり、その問いと実践の深さにふいを突かれた気がした。
四井真治さんの現場を巡る。科学と民藝が行き来するいつだって発着は土なのである。私たちは簡単に忘れゆくんだけどそれでもこうした基点があると自分の活動がそれでもなお可能性を信じていいのかとホッとする。美しさへと未来への安堵からのため息が漏れた。 pic.twitter.com/qhO4xyyhlM
— Satoko N FUJIOKA (@wackosato) November 22, 2024
発着を土にするとプロセス一つ一つがより際立って意味の在るものになる。意味のある行為のために整理されたそのものがデザインなのであり私たちがいかに表層の装飾に一喜一憂しているかを自覚する。言えばよいものでもないし、作ればよいものでもない。巡りまでつくること。責任をもつこと。
そう続けて呟きながら、巡りについて、今の自分の地点を考えた。
人が真っ直ぐ生き、そうして暮らしを続けるために誰かの手が必要になったとき、生まれて初めてそのシステムを聞いたり固有名詞を聞いたりするシーンが増える。
複雑で専門性の高い海にザブンと放り込まれていき、手当たり次第ひとまずは浮き輪を掴む。そうこう言ってられないので、浮き輪をどうするとかは考えない、考えられない。ひとまずはこの浮き輪に捕まることが安心で、この先海が続くのか、島に到着するのか、それはわからない。浮き輪を投げてくれた人(人たち)に頼るしかなくなる丸裸状態になる。
浮き輪を投げる人(人たち)側なのだけれど、これが案外見えづらい。投げる側にもこうした角度で投げるべきだ、いや色は赤色がいいだろう、大きさはこのくらいが妥当だ、などとその裏側であらゆる立場の人たちがそれぞれの専門性を発揮していく。
試されるのは、この人(人たち)が何を真ん中に置いて話をしているのだろう、という姿勢。恣意的な何かが働けば巡りは中断し、人は容易に溺れていく。
私「言葉の世界では、言語というのはひとつの抽象だと思う。現実には、日本語、英語、朝鮮語等等があるだけだからね。それと同じように、音楽の世界でも、音というのは、ひとつの抽象ではないかと思うんだが、どうだろう?」
作曲家「たしかに音と言っても、具体的には、バイオリンの音であり、三味線の音であり、正弦波の音であり、鳥の鳴声であるわけだからね、けれど言葉とちがって、音は翻訳を必要としないものだ。たとえば我々がひとつの電子音楽作品の中で、三百サイクルの正弦波を使うとする。これは日本人にとっても、マサイ族にとっても同じ音として聞こえるはずだろう?」
私「だがたとえば、ジェット機を知らない人間にとっては、ジェット機の轟音は何か得体の知れない怖しい音かもしれないが、ジェット機を知っている人間にとっては、それが旅愁をそそる音に聞こえるということもあり得るね。同じように、たとえそれが一音であろうとも、日本人にとって三味線の音は、江戸文化へのあらゆる連想を含んでいるし、アメリカ人にとっては、未知のエキゾシティズムと感じられるかもしれない」
作曲家「そんなことを言い出せば、どんな音だって音楽だって、聴く者ひとりひとりの恣意的な感性によって受け取られるしかないという、当然のことになってしまうではないか。」
私「正にそこなんだよな。ぼくが問題にしたいのは、音という概念の導入こそが、そういう考えかたを導くんだよ。音楽というのは、本来そういうふうに聴く者を孤立させるものじゃなくて、むしろ逆に結びつけるものじゃなかったのかい?バイオリンでも、三味線も、シタールでもいいけど、ひとつの楽器はその構造も音色も奏法も、それぞれに固有の文化によってつちかわれてきたんだ。それぞれの文化をはぐくんできた共同体の人間たちが、自分たちの感性、自分たちの論理をたしかめ、発展させるひとつのモメントとして音楽も存在してきたと思うんだ、音楽を楽しむってことは、単に個人的な経験ではなかったはずだよ。」
それぞれの文化をはぐくんできた共同体の人間たちが、自分たちの感性、自分たちの論理をたしかめ、発展させるひとつのモメントとして医療も存在してきた、と当てはめて読んでみる。
発着は暮らしや文化であるはずなのに、歪さを持って医療というものが突出していると、主語は簡単に逆転していく。
四井さんの暮らしは、雨水を全く無駄なく利用しアクアポニックスで野菜を育て、もちろん液肥だって自家製だ。等高線に沿った畑、コンパニオンプランツたち(バグホテルもいい顔つきをしている)。コンポストや匂わない堆肥小屋の役割、バイオジオフィルターで生活排水を浄化し山に返す。そうした巡りのために、古道具に手を入れ愛でながら使い続ける。壊れたらもちろん直す。そうして変化し続ける。でも真ん中には確固たる暮らしぶりがある。
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使わなくなるでしょう?」
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「きれいな水と空気のなかでは、ムシゴヤシだってこんなかわいい木にしかならないの。瘴気も出さないとわかったわ。汚れているのは土なんです。(ナウシカがユパに説くシーン)」
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こうした巡りを一気に抽象度を上げ自分も昇ってあらゆる光景を思い浮かべると、浮き輪を必要とする人、浮き輪を投げる人(人たち)の巡り方に今は
意識が行き着く。
真っ直ぐに生きるを終える体制をつくるには、巡りを想定した手の繋ぎ方と段階がある。そうして今週おおやけに発表した仕組みづくり。
それぞれの文化をはぐくんできた共同体の人間たちが、自分たちの感性、自分たちの論理をたしかめ、発展させるひとつのモメントとしての存在になりたい。決して強者と弱者に垣根を委ねない、人間ができる巡りの可能性を願い現場で実践していく以外に道は開けないのだなぁと思う。
2024.12.8