その1、 「長崎二丁目家庭科室」のつくりかた
2017年4月に、東京は豊島区、椎名町という場所で「長崎二丁目家庭科室」をつくった。 まちに飛び出した「家庭科室」で世代をつなぎ、それぞれの年代に合わせた健康の保ち方を学んだり、介護・福祉についてまちの人たちが知るきっかけをつくる場所。 0歳から80代まで、徒歩圏内・自転車圏内のまちに住む住人が、毎月平均のべ100名が様々な習いごとや催し物に参加してくださった。
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結論からいうと、①誰に届けたいのか ②誰とやるのか。この2点の結果で「長崎二丁目家庭科室」をつくることになった。そして③畳みかたを決めておく、も少しだけ話しておきたい。
①誰に届けたいか
この問いには、特定の地域、特定の対象層、そして土地柄を知ることから始まる。
(よもやここで”多世代交流をしたい”なんてはやまってはいけない。それは結果でしかないことは口すっぱく言っておきます)
2015年11月、会社を立ち上げたものの、具体的な事業内容が決まっておらず、執筆や編集から仕事がスタートした。12月にR不動産・三浦市・東海大学が企画した「トライアルステイ@三浦」に参加し、家族で港町の暮らしを12日間たっぷり味わいつつ、高齢化率40%の三浦市の光景をみながらある考えが頭に浮かんだ。「通える範囲で、面白そうな地域をみつけて、そこで何かしらの”現場”を持ちたい」。
もともと50人規模の住宅型有料老人ホームをつくった介護ベンチャーの創業メンバーとして、介護が必要な人とその家族の営みの”現場”にどっぷりと浸かっていた身として、何かウズウズしたのだろうと思う。
年が明けた2016年1月に、「としま会議」を企画する中島明さんと出会い、それがきっかけで私と椎名町が出会うこととなった。
豊島区長崎地区。椎名町と呼ばれるこの地域は、駅前に5つもの商店街が所狭しと並び、トキワ荘で知られるようないわゆる木賃アパートも多く残っている。平日まちを行き交うメインは手押し車を引いた高齢者が目立つ。一方で付近には3つ以上の幼稚園、大型・小型の保育園が数多くあり、歩いて通える範囲の中で4つの小学校がある。公園には幼児からピンク頭の青年も集うし、ホームレスであろう男性たちも集っていることもよくみかける。いつもお酒片手に陽気な様子だ。
そんなまちに、私が豊島区と出会った同じタイミングで、空き家をリノベーションしてできた、商店街のお宿、シーナと一平という場所がオープンするという。家から通える範囲のまちに、新しい気運が流れていることを直感的に感じた私は、シーナと一平を会場にして、まちに住む作家が企画する「ご近所フェスティバル」の打ち合げに、関係者でもないくせに無理をいって参加させてもらい、多くの作り手たちと出会った。何でも笑い飛ばし陽気な彼女たち。でも作家として繊細で素晴らしいセンスを持ち合わせていて、本当に魅力的な人たちばかりだった。
そして仲良くなるにつれて知っていくと、彼女たちのほとんどは、このまちが地元ではなく結婚や子育てを機に住み始めたということだった。
先述したように、このまちの面白さを直感的に感じた。そしてそれは自ら動きまちの中の人と出会っていくことで確信となってきた。そして、このまちが地元ではない人たちに、この面白さを共に共有したいと考えるようになった。
そこで既に常連として通っていたシーナと一平の場所を毎月1時間だけ借り、2016年7月から2017年の3月まで、数えて全8回開催することに決めたのが、「しいなまちの茶話会」だった。
話し手は商店街のお店を持つ人や高齢者のグループ活動に勤しむ人、旅館を営む人など、このまちに長く住む人。聞き手は子育て世代や大学生、若手社会人たち、そしてもちろん私。企画者の私が一番ワクワクするのは、縁もゆかりもなかったこの地の面白さを、好きな人たちとともに知っていくプロセスそのものだった。
初回は、54歳の旅館の番頭さんとそのお母さま、82歳。話し手も聞き手も半信半疑、何が始まるのかという面持ちだった。当日、まっピンクのシャツの襟をたて、ベージュのカーディガンを羽織り、真っ赤な口紅を塗ってきてくれた82歳の話し手のお母様をみて、私はこの会の成功を(大げさだけど)確信し、始めた。
第1回目(話し手:54歳&82歳・旅館の経営者とその親)
第2回目(話し手:81歳・シニアグループ代表)
第3回目(話し手:56歳・椎名町生まれ育ちの大学教授)
第4回目(話し手:51歳・まちにあるぬいぐるみ人形劇団員)
第5回目(話し手:朗読グループによる自作紙芝居「長崎村物語」の朗読)
第6回目(おとなも こどももかるたとり大会。かるた読み手:78歳)
第7回目(話し手:70歳・商店街・乾物屋店主)
第8回目(話し手:74歳・商店街・洋装店の店主)
こうしておそろしく地味でローカルなこの会が8回目、参加者がのべ105名となってきたときに、私の中で”現場”を持とうとまた再燃した。老人ホームや通所介護施設を構想したこともあったけれど、どうせやるなら儲かならくても(はっきりいっておきますが私は稼ぎたいタイプです)、頭に浮かぶ人たちに響く”現場”を持ちたいとそう思った。
②誰とやるのか
この問いはもちろん①と並行する。
「ご近所フェスティバル」のメンバーであり、元家庭科教諭であり、今は学校の外で家庭科の楽しさを伝える「子ども家庭科教室 korinco home」主宰の深野さんと話すうちに、料理や裁縫、編み物など手先を使うことが多い家庭科であれば、まちに長く住む人たちの中に得意とする人がいるかもしれないし、(すでに商店街にある洋装店の店主の顔が頭に浮かんでいた)学校の家庭科の授業の中で、福祉や介護のことも多少触れることを知ったときから、「まちのなかに家庭科室をつくる」という構想が出来上がっていた。
先生役はまちに長く住む人を始めとする人、習いにくる人は平日の日中に動ける人たち。頭に浮かぶ人たちが集まっている姿が浮かんだ。
場所や固定費、もちろん人件費の問題もある。でもそれは根本的には誰とやるのか、に帰結する。場所はシーナと一平しかないと思った。そして企画を持ち込んだその日に、2017年4月17日から、毎週月曜〜木曜まで「長崎二丁目家庭科室」を始めることになったのだ。
そもそもこればビジネスでもないので、固定費はこれぐらい・・と打診すると、シーナと一平側は、いや、家賃は必要ない。でもこの企画を実現させてくれ、といってもらえたのだ。これは一重に、「しいなまちの茶話会」の光景を共に共有してきたシーナと一平のメンバーだからこその提案であり、これには正直本当に助けられた。
さて人件費。これも先述した深野さん、途中から合流してくれたゆみちゃんと3人で日を分担することで、あくまで出来る範囲の中で手伝うから、という名目で完全にボランティアで運営に関わってくれることになったのだった。
③畳みかたを決めておく
ここまで書いているが、2018年2月28日をもって、「長崎二丁目家庭科室」は畳んでいる。①②と綴ってきたが、色んな意見があるだろうがここまでビジネスではない非営利事業を継続的に行なうのはとても大変である。
「まずは一年やってみましょう」と、シーナと一平側、そして運営に関わる深野さんにスタート時に期間の設定をした。
この時すでにおぼろげでも、最終日の光景を頭に描いていた私は、限りある時間の中で逆にどういうプロセスを生めばよいかを逆算していた。これは別に虚勢をはっているのではなく、頭に浮かぶ人たちがいたから想像できただけの話。
何かを始めるときに畳むことを頭におくのとそうでないかは大きな違いがあると思う。もちろんこれが営利的事業で、関わる人に対価を支払えるならまた別であるとはっきり思う。対価が全てではないが、お金は継続性の大きな理由となる。
畳むことについて残念だね、と言われることは多いしそれは事実私ももっと試みてみたいことはあった。でも畳む決意をしたのは、最初に自分がケツを決めていたからに他ならない。試みたが出来なかったことについては、次に誰かと一緒にするタイミングでやればよい。
何が何でも執着して無理に継続させるより、スクラップ&ビルドから生まれる価値にも目を向けたい。(もちろん、場の目的によって継続性が信頼性を生むこともこの1年弱で痛感している。継続されている取り組み全てにリスペクトを込めて。)
誰に届けたいか、誰とやるか、で何をするかが見えてくる。そうすると、畳みかたはどうするか、それまでの限りある時間の中でどんな光景を生めば、この取り組みが広まっていくのだろうか、そんなことを毎日考えていた1年弱だった。
次回はアウトプットと、アウトカムの設定について、詳しく話をしたい。
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このnoteは、2018年6月ごろまでの私の頭の中の備忘録です。
自身の生い立ちから有料老人ホームの立ち上げ・運営、
デンマークへの留学、「長崎二丁目家庭科室」の運営などから、
福祉の再構築という大きな問いへの小さな実践を残します。
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私、藤岡聡子については、下記記事を読んでみてください。
・灯台もと暮らし
【子育てと仕事を学ぶ #1 】藤岡聡子「いろんなことを手放すと、生死と向き合う勇気と覚悟がわいてきた
・soar
「私、生ききった!」と思える場所を作りたかった。多世代で暮らしの知恵を学び合う豊島区の「長崎二丁目家庭科室」
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