履き古した靴
鼻緒が切れて、新たに買ったランニングサンダルを履いて走っているのだけど、ここ暫く長距離を踏んでいるのに足が痛い。なかなか馴染んでくれない。同じサイズ、同じモデルだ。一方、もう一足残して置いた履き古しのサンダルは、私の足型通りに程良く踏まれ、履くとホッとする。もう自分の足みたい。ランニングシューズの持ちは、何百キロとか1から2年とか言うけれど、要はソールが削れたら本来のクッション性や疲労軽減の機能が落ちて、買い替え時なのだ。靴にこだわると、ランニングも中々お金のかかるスポーツだ。
プロもアマも厚底が席巻する今、時代を逆行するかのように、ペラペラのサンダルにシフトして走っている訳なのだけど、長年走って来たからこその選択だ。長距離愛好家や走暦何十年と言う人の中に、サンダルに魅せられた人達が居る。
さて、馴染むとはくたびれ、古ぼけたとも同義だ。20代の始め頃、憧れていたサーファーが居た。仕事をしながら休日は海に繰り出すその人は、いつもヨレヨレのTシャツにクタクタのジーンズを履いて、足元はビーサン。若いのに笑うと皺だらけの顔は、目玉と歯だけが真っ白で、ご飯をガツガツと勢いよく食べる人だった。「こなれ感」「抜け感」などと言う今のファッション誌の作為的な緩み加減は、この人のカッコ良さと比べたら小細工にしか見えない。この人がカッコいいのは、少しも格好をつけていないからだった。
私のおろし立てのランニングサンダルは、お行儀が良過ぎてまだ格好が良くないのだ。蜃気楼の立つアスファルト、ぬかるみの道、凍り付いた道を何日も何日も一緒に過ごしたら、いつの間にかサンダルの存在を忘れているだろう。存在を意識しなくなった時、私に馴染んだという事だ。