ひとりで逝った父は可哀想だったのか
先週の日曜、父が亡くなった。享年75歳だった。父は、平成の次の時代を見ることはなかった。
昨年の8月に胃がんが発見され、ステージ4と診断された。9月に開腹手術をしたけれど、がんが腹膜全体に散らばっており、外科手術で取るのは不可能だった。
がんに対してはなにも出来ずにお腹を閉じた後、父は抗がん剤治療をしていた。幸いなことに、吐き気などの副作用はそれほどひどくはないと母から聞いていたので、遠方に住む娘としては、「父が闘病中」という深刻さをあまり意識することなく、いつもと変わらない日々を過ごしていた。親不孝な話だが、週末はほぼ全て息子のサッカーの予定で埋められていて、実家に子どもを連れて帰る機会を増やすといった事もしなかった。
先週の土曜に、母から電話があった。今度の木曜、母が用事があるため、実家に来て父の看病をしてくれないかという依頼だった。
その電話で知ったのだが、父は、1月はじめに抗がん剤治療の5周期目に入ってからガクンと体調が悪化した。食欲も無くなり、立ち上がることすらできなくなってしまったらしい。立ち上がれない父を支えてトイレまで連れて行くのは、体格差のある母には難しいため、ここ数日はオムツをさせていた。母の口ぶりでは、父の容体それ自体が深刻というよりは、そのオムツ替え要員として私に来てもらいたいようだった。母も、これほどまでに目前に父の死期が近づいているとは、まったく思っていなかったのだ。
病気が発覚してからも、殆ど看護に関わっていない後ろめたさがあったため、会社に休みをとって「行く」と承諾した。でも、正直ものすごく憂鬱だった。
子どものオムツならそれこそ数千回は変えているわけだが、成人のシモの世話というのは初めてのこと。しかもそれが実の父親となると、さらに抵抗感が大きい。何より、わたしにオムツを交換されている時の父の気持ちと、その時わたしたちの間に流れる空気を考えるといたたまれなくなった。歳を取ってからはだいぶ丸くなってはいたが、父は昔気質の人間だ。仕事もしていないいま、親としての威厳を保つことだけが父に残された矜持のように思っていた。
今考えると、何をそんなことくらい、と思う。でも先週土曜日のわたしにとっては、人生で初めて、親の尊厳にメスを入れる大事件のような気がしていた。
母からの電話の後、一日中、来る木曜日のことを考えていた。しかし、これは杞憂に終わった。
日曜の朝に母から電話があった。わたしは息子のサッカーの練習に付き合ってグラウンドに来ていた。
「お父さん、亡くなったの…」
普段から感情を表に出さない母は、こんな時も割と落ち着いていた。
母が朝起きたときには、もう、父は動かなくなっていたらしい。
救急車を呼んだが、既に息は無く、土日で主治医の先生が病院に居なかったので、別の病院に搬送され、死亡が確認された。搬送先がかかりつけの病院ではなく、また、自宅での死亡だったため、警察に遺体が運ばれて検死が行われることとなった。
昨日の今日のことではあったので、まさかこんなにすぐに、とショックではあったけれど、大きな驚きはなかった。
昨日の電話で母から「父が起き上がれなくなった」ということを聞いたとき、「もうすぐかもしれないな」と思った。がんは、最期の1ヶ月くらいでガクッと容体が悪くなり、あっという間に逝ってしまう病気だということを、最近ネットの記事で読んでいたからだ。だからこそ、木曜には父に会いに行くつもりだった。9月にガンの宣告を受けた時から、父が近く亡くなるということに対しては、覚悟はできていた。きっとそれは母も同じだったように思う。
誰の著書だったか、「ゆるやかに死に近づいていく『がん』は、本人にも、周囲の人間にも、死を迎える準備やお別れをする期間をくれる、死に方としては悪くない病気」という内容を読んだ覚えがある。
たしかに、その通りだ。
2年前に祖母(母の母)が亡くなった時に喪主を務めていた母は、同じ葬儀場にすぐに連絡をし、淡々と手続きを行なっていた。
「もう、びっくりしちゃって…自分の電話番号も間違えちゃったりね」
とか、母は言っていたけれど、わたしが想像していたよりしっかりしていて、そのことは私をほっとさせた。(ちなみに実家には独身の兄が同居しているのだけど、社会人としての能力が著しく欠けているのでまったく当てにならない)
父の死の翌日、検死が終わった遺体を警察署に引き取りに行き、その足で葬儀場と今後の打ち合わせをするというので、わたしも行くことにした。車の運転ができない母にとって、警察署や葬儀場、花屋などの間を何往復もするのは想像以上に大変なことだ。
斎場に安置されている父の顔を見ても、正直実感がわかなかった。数年前に総入れ歯にしていた父は、亡くなったときに入れ歯が入っていないために口元が酷く落ち込んでおり、これは葬儀の前には整えて貰えるのか、そんなことばかりが気になってしょうがなかった。
葬儀屋との打ち合わせの後、実家に行き、見覚えのある財布とPoloのマークが入ったボロボロのキャップ(10年以上も前、わたしが海外旅行に行ったときにお土産で買ってきたものだ)が、まだ持ち主がそこに居るかのように無造作にリビングに置かれているのを見たとき、
「ああ、この持ち主である父は、もういないんだ」
と、感情の波が襲ってきて、母がトイレに行っている間に泣いた。わたしは涙もろいくせに、泣いているところを家族に見られるのはすごく苦手だ。
「商社マンとしての仕事につまづき、その後全くの畑違いに転職するも、仕事で身を立てることができなかった父」
「成人した子どもにはそれほど慕われず、盆暮れ正月くらいしか孫を会わせに帰ってきてもらえなかった父」
「最期のときは誰にも看取られず、ひとりで死んでいった父」
父のことを「不憫」に思う要素はいくらでもある。決して理想の父親ではなかった。そんな風に娘に思われていることもやっぱり、不憫だ。
だから、父がこの世に生きた意味はなんだったのだろう、とか、もっと子や孫に囲まれた幸せな人生があったんじゃないだろうか、そんな感じのことを思って、胸が痛む。
特に、我が家の子どもたちが近居の義両親と一緒にいる姿を見て、切なくなる。
「遠くに住んでいるから」
「(義両親より10歳近く年上の両親は)子ども達とアクティブに遊んであげられないから」
とかいう理由で、こんな風に孫と触れ合う時間を十分に与えなかったのは、わたしだ。
訃報を貰った日の夜、8歳の息子に父が亡くなったことを告げたら、
「もっとじいじと遊びたかったな」
とポツリと呟いた。
外面ばかりよくて、子であるわたしや兄、そして母にとっては、威圧的で鬱陶しい父親だったけれど、孫にとってはちょっとおかしなことを教えてくれる、調子の良い好々爺だったのだと思う。
そして、家にある「このあとどうしちゃおう」という絵本(死んでしまったおじいちゃんが生前に、死後の世界を想像してノートに書いていたという内容の絵本。だいぶ楽しそうな想像で描かれている)を持ってきて、みんなで読んだ。
またも息子がつぶやく。
「ほんとうにこんな世界だったらいいな。じいじが可哀想じゃないから」
小学校2年生にもなると、死後の世界は本当はこんなおとぎ話みたいに楽しいものじゃないかもしれない、ということもまた、理解し始めているのだ。
顔を見せに家に帰ってこい、みたいなことは父にも母にも言われなかった。一度だけ、孫と一緒にみんなで食事がしたいと言われて11月の末に中華料理屋で食事をした。その時も、子どもたちはせっかくだから水族館にでも行ったらどうかと勧められて、ほんの少しの食事時間の後に、すぐに帰ってしまった。思えばあれが父と会った最後だった。
よく、親を亡くした時「もっと親孝行しておけばよかった」と後悔する、みたいなセリフを聞くが、わたしの場合は、後悔はしていない。義両親と比べて不憫だと思う気持ちはあるくせに、後悔はしていないのだ。
もう一度この数ヶ月を繰り返したとしても、わたしは頻繁に実家に帰る事はしないだろう。産み育ててもらったことに心から感謝しつつ、実子だからこそわがままに、自分の好きなようにいまの自分の人生を生きさせてもらう。
父が生きてきた証はなんだろうと考えたとき、それは、わたしや孫である息子、娘たちそのものだ、と思った。
親に依存せず、こうして自分たちの人生を謳歌できていることこそが、父にとって幸せなことなんじゃないだろうか。最期の瞬間に労ってもらえなかった父の人生を「可哀想」なんて思うことの方が可哀想だ。こんなに人生を楽しんでいる子と孫を持つ父は、幸せな人生だったはずだ。
身勝手な考えかもしれないが、そう、思うのだ。
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