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【寄稿】山田健太さん/ジャーナリズムの萎縮をもたらしたものは何か  「知る権利」の空洞化を止めるために

■表現の自由を規制する動き

21世紀に入り、私たちは情報公開制度という闘う手段を得て政府を見える化し、公権力の持つ情報の共有化を進めてきました。ほぼ同時にインターネットという技術的革新によって、政府や大企業からの一方通行だった情報の流れを双方向に変えました。まさに情報主権者として民主主義社会の主役に市民がなった、はずでした。

バラ色だった未来が陰り始めたのは、武力攻撃事態対処法や特定秘密保護法、共謀罪新設や盗聴法強化など、同時期に続々と整備されていった表現の自由を制約する法律群の誕生です。さらには、重要土地規制法やドローン規制法など、政府の意向で思想調査や取材規制が簡単にできる法制度も次々とできています。

さらに困ったことに、こうした公権力に様々な権限を与え、私権(私たちの権利や自由)を制限することで、国の安全が守られたり生活の平穏が維持されるのであれば、多少の不便は受け入れようとの雰囲気が社会全体を覆っていることです。こうした空気感を政府がうまく利用しているともいえます。しかも、コロナ禍での権利制限の一般化が、規制に抵抗を感じない空気を後押ししたことは否めません。

■力を失ったジャーナリズム

こうした時に、「おかしい」と声をあげる役割がジャーナリズムにはあるはずです。とりわけ日本は全国くまなくテレビ放送が行きわたり、新聞が毎朝自宅に届くというニュース環境に長くあります。新聞やテレビ離れは進んでいますが、それでも今なお、こうした「情報摂取環境」が維持されており、それだけに言論報道機関の社会的影響が大きい国です。

ではなぜ、本来の役割が機能しなくなったのでしょうか。その答えは読者の皆さんが肌感覚でわかっていることと思いますが、市民からの厳しいメディア批判と政府の硬軟取り混ぜたメディア戦略によって、すっかりジャーナリスト総体の力がそがれてしまったことにあるといえましょう。

前者のメディア批判は1980年代に始まりましたが、10年おきにその特徴を表すならば、疑問→批判→不信→否定→不要と進み、2020年代は排斥の時代といえましょう。まさに、市民の対メディア感情は、着実に悪化の一途をたどってきました。その結果、市民はメディアの味方ではなく、メディア統制を進める政府の側についてしまったわけです。さらにいうならば、メディア批判に乗じて制限的な新規立法ができ、それによって弱ったメディアをさらに政府寄りと批判するという螺旋型の悪循環が続いています。

■報道と市民の共闘はどこへ?

例えば、1980年代に提案された秘密保護法や共謀罪法については、報道界が一致して法案に反対し、多くの市民が賛同した結果、成立しませんでした。同じことが2000年前後にもありました。「メディア規制3法」と称された人権擁護法(国内人権救済機構設置法)、青少年有害環境対策法、個人情報保護法が、いずれも廃案・提出断念・該当条文削除といった結果になったのも、いまや死語ともいえる、報道と市民の共闘の結果です。

しかし2010年代には、特定秘密保護法に報道界の一部やリベラル系憲法学者も賛成するなど、社会情勢は大きく変わりました。もちろん一部の市民は危機感をもって国会の前に集まりはしましたが、野党を含め国会を動かす力にはなりえなかったのが現実です。

■政治的中立・公正?

市民とメディアの敵対状況を行政も見逃すはずはありません。それまでは憲法で保障されている表現の自由を大切にするという立場から「謙抑性」を旨としてきた運用を、大きく変え始めたのです。政府も自治体も「政治的中立」を御旗に、デモや集会を簡単には認めなくなりました。政治色を有する美術作品の展示の撤去を公然と求めるようになったのも2010年代からです。

そして放送局に対しても、「政治的公正さ」というマジックワードを使って、政府批判の番組を作ることに強い圧力を加えるようになりました。そして前述したように、こうした政府の態度を、一部の市民がある種熱狂的に支持をする状況が生まれ、それによってメディアはますます萎縮するようになってしまったわけです。

先日明らかになった鹿児島県警による、報道機関に対する強制捜査も、一昔前ならありえなかったし、もしあったら大きな社会的批判を浴びていたことでしょう。これは推測の域を出ませんが、地方の県警の現場判断で強制捜査を行ない取材関連資料を押収し、取材源や公益通報者を特定するといった芸当を、何の躊躇も見せず粛々と行なうのは、中央の指示なり了解があったと思うのが自然です。そしてまた、報道界も総体としてこうした姿勢を黙認しています。

■市民ができることは

取材・報道の制限が強まる事態の進行によって、最終的に大きな被害を受けるのは、私たち市民です。せっかく手に入れた「知る権利」が実質的に空洞化していくからです。

残念な事態は続いていますが、諦めてしまっては、せっかく築いた自由な社会は失われてしまいます。だからこそ、真っ当なジャーナリズム活動を応援し、私たち市民が育てていくことが求められています。日本で唯一のジャーナリズムを名称に冠する大学と大学院で教育・研究に携わる身としても、一層強い決意で学生と向き合っていきたいと思っています。

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