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【連載】23歳のわたしから見える世界③刑罰ではなく在留資格を。誰かが切望する日常を。


「今度埼玉に引っ越したいんだけど、クルド人がいる地域は嫌なんだよね」。
バイト先で誰ひとり並んでいないレジに立ちながら、先輩から不意にかけられた言葉。私は何か言おうと口を開いたけれど、出てきたのは息を吐く音だけ。軽く投げたつもりが会話のボールは私のにクリーンヒットして、内臓が鈍く軋む音がした。痛い。
「佐津間さんがやってる活動は知っているし、今まで言えなかったんだけど、私の考え方は結構保守的だと思う」。
先輩は、クルド人のせいで治安が悪くなっている、彼らは無許可で日本に来ていることを強調して話し続けた。「クルド人が女子中学生をレイプした事件、知らない?」まるで、フェミニストなのになぜ怒らないのか、と言いたげだった。

私はそもそも日本の難民認定率がとても低いこと、命の危険があって祖国から逃げざるを得ない人たちのことを話したけれど、対話の境目をカッターで切るみたいに会話は平行線のままで、言いたいことが何も言えず、どうしようもない気持ちで店内を眺めた。
初対面で、きっと今後会うこともなかったならこんなにショックは受けなかっただろう。それは間違いなく差別だ、と言うこともできたと思う。仕事がうまく覚えられない時、私のために専用のマニュアルを作ってくれた、いつも助け舟を出してくれる先輩。いい人、政治の話をする時以外は。
そういう人はいくらでもいるし、バイトの隙間時間に差別と特権性について適切に議論するのは簡単じゃない。だけど先輩とぶつかるのが嫌で、上手く説得する自信がなくてそれを避けた自分に、私は心底むかついていた。

当たり前に雇用があって、当たり前に暇な時間にレジで駄弁って、当たり前に賃金が出て、当たり前に家があって、当たり前に自分の生まれた国にいられるのは、誰かにとっては奇跡みたいな普通なんです。
そして、日本人だから性犯罪を犯すわけではないのと同じように、クルド人だから性犯罪を犯すわけではないんです。私はフェミニストだから、特定の人種が犯罪に結びついているような言説には断固反対します。
そう言いたかった。言うべきだった。当事者じゃなくて私が言わなきゃいけなかった。
家について夕飯を作る間も、風呂に浸かる間もずっと考えていた。どんな言葉を返せばよかったのだろう。どうしたら、1%でもクルド人の人たちの痛みを伝えられただろうか。

2年ほど前、『牛久』という映画を観た。茨城県牛久市にある入管施設に強制収容されている人々の実態を明らかにしたドキュメンタリーだ。
戦争や迫害から逃げて日本にやってきた人々を何年も収容所に押し込み続けて、入管の職員は彼らを囚人のように扱った。いや、人としてなんか扱っていなかった。国から逃げることは甘えだ、日本に難民として来るくらいなら死んでしまえ。ウィシュマさんは実際に、政府からのこのメッセージを全身に浴びて亡くなったのだ。
サッカー場でゴミ拾いをして誇らしげに日本人の美徳と親切心を語りながら、難民をゴミみたいに扱う入管。何が日本の誇りだよ、馬鹿たれ。馬鹿野郎。だけど、一番馬鹿だったのは心のどこかでこんな酷いことが自分の国で起こっているわけないと、見て見ぬふりをしていた自分だ。

私が観た映画館ではその日、収容施設から仮放免中のクルド人デニスさんと監督のトークショーがあった。
映画が終わってから握手をした時、デニスさんの手のひらは大きくて硬くて、温かかった。当たり前に、人の手。青くも黄色くもない、同じ赤い血の通った人の手。
刑罰ではなく在留資格を。難民の送還ではなく保護を。去年入管法改悪反対デモに参加した時の紙を部屋に貼って、何度も何度も見返す。
先輩と次に会うとき、私は心の中で決めたことを伝えよう。彼らの温かい手のひらを知ってほしいと。映画や本を薦めるのも、自分の無力さに頭痛がすることがあっても、小さなことからでいい。私たちの当たり前が、誰かが切望する日常であることを共に理解し、行動するために。

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