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いよいよクライマックス!両親が立て続けに死んだ話④完
こんにちは! 猿田信司です。
まさか、こんなに立て続けに逝かれるとは、
思っていませんでした。
ただ、ちょっとだけ不思議に思いました。
なぜ母は、ちょうど父の葬儀が終わった
次の日に逝ったんだろう?
まるで、父の葬儀が終わるのを待っていたように。
偶然にしては、出来過ぎてない?
そんなことを考えても、仕方ないのですが、
なんで?という思いはずっとありました。
会社に連絡
母が亡くなった次の日は、
ゴールデンウィークが終わって、
平日でした。
ですが、母の葬儀関連や、公的な手続きも
しないといけないので、しばらく
会社を休まないといけません。
ですから、朝一番で、上司に電話しました。
連休中に父が死に、葬儀も終わったこと。
昨日、母も死んだこと。
忌引休暇で一週間くらい休むこと。
この話をすると、上司にも、
ものすごく驚かれ、心配されました。
なぜかわかりませんが、
母の葬儀の場所を聞かれたので、
老人ホームの住所を教えました。
これで、母の葬儀に集中できます。
通夜の準備
母が亡くなった次の日のお昼頃に、
老人ホームに行きました。
父の時と同じく、今夜は通夜で、
一晩私が付き添わないといけません。
老人ホームに着き、葬儀屋さんとの
打ち合わせをしました。
ここでも、やっぱり、葬儀屋さんに
ものすごく心配されました。
流れ的には、父の時と全く同じでした。
さすがに、今回はかなり冷静でした。
この時は、悲しみのスイッチが壊れていたんだと思います。
悲しいというより、「なんで父の葬儀が終わった次の日に?」
という「不思議」だと思う気持ちが強かったです。
母の通夜の夜
夜になり、通夜が始まります。
父の葬儀の時も来てくれた、親戚だけでなく、
驚いたことに、会社から、
上司と数名が通夜に参列してくれました。
場所聞かれたのは、こういうことか!!
会社の人とも話したり、その時までは普通でした。
通夜が始まり、お経が始まった時でした。
涙腺がぶっ壊れたんじゃないか、と思うくらい、
ボロボロに泣いてしまいました。
お経を聞くと、「本当に死んでしまったんだ」
ということを思い知らされる感じがしました。
本当の号泣でした。
ですが、葬儀屋さんからも、
父の時に挨拶できなかったことを言われていたので、
母の通夜では、ボロボロに泣きながらでしたが、
来てくださった皆さんに、お礼を言いました。
お通夜も終わり、来てくれた皆さんも帰って、
母と二人きりになりました。
ここから、朝まで、線香とろうそくを
絶やさないようにしないといけません。
ですが、父の時と同じく、長時間もつ線香があったり、
ろうそくも何時間かはもつので、
特にすることもありません。
ですから、ボーっと考えていました。
なんで、父の葬儀の終わりを待つかのような
タイミングで母が逝ったのか?
考えたところで、答えなんか出るわけありません。
わかっているのに、不思議すぎて、
どうしても考えてしまっていました。
そうやって、考えているうちに、夜もふけてきて、
ちょっとだけ寝ようかなと思いました。
父の時は、寝ようとすると、
なぜか、天井から水滴が落ちてくる、
という謎な現象が起こっていました。
ですが、母の通夜では、
水滴が落ちてくることはありませんでした。
父の時と完全に同じ状況で、
晴れていて、湿気とかも全くなかったのに、
なぜか、その日は水滴が落ちてきません。
やっぱり、あの水滴は、
父の仕業だったんでしょう。
母の方が、やさしかったようです。
そのおかげで、3時間ほど寝ることができました。
火葬場へ出棺
翌朝、火葬場へ出棺しました。
この時、驚いたことがありました。
母の棺を、霊柩車まで運ぶのに、
私も手伝ったのですが、
父の時と比べると、
ものすごく重かったんです。
父は、半年くらい、栄養剤注射だけで
生きていたので、ものすごく痩せていたんだ、
ということに気付きました。
これで、ある程度わかった気がしました。
私はボロボロに泣いていたので、
父の時と同じく、親戚に運転してもらい、
火葬場に行きました。
3日前と全く同じ時間に、
父が入ったのと同じゲートに
母も入りました。
少し面白かったのは、立て続けに両親に逝かれた私に、
火葬場の方が気を使ってくれたのか、
通常の骨壺のほかに、小さな骨壺を
サービスしてくれたことでした。
「こんなところでもサービスとかあるんだ」
なんでも、私の宗派では、小さな骨壺に
のどぼとけの骨を入れて、
総本山におさめるのが、
栄誉なんだそうです。
ですが、私は全く興味がなかったので、
小さな骨壺は、今でも納骨堂に置いています。
母の火葬が終わるまでの間、
親戚と話をしていました。
「父が一人で寂しいから母を呼んだんだろう」
という親戚もいました。
やはり、3日違いで逝く、というのを
親戚も不思議に思ってたみたいです。
父の時と同じく、外にでて、立ち上る煙を見ました。
母の時も、父と一緒で、ものすごくいい天気で、
母が空に昇っていくのが見えるようでした。
火葬が終わり
火葬が終わり、母の骨を骨壺に入れました。
本当に不思議なんですが、父の時と同じく、
骨になってしまうと、悲しみがスッと消えて、
ものすごく冷静になりました。
のどぼとけの骨は、いただいた小さな骨壺に入れ、
そのほかの骨は、大きな骨壺に入れました。
3日前にやっているので、手慣れたものです。
ちなみにですが、全身の骨すべては、
量的に骨壺に入らないので、
残った骨は、火葬場で処分されます。
なんというか、モノになってしまった、
という感覚がありました。
火葬もすべて終わり、
老人ホームに戻り、解散です。
親戚や、老人ホームの方にお礼を言って別れ、
私は、お寺に母の遺骨を運びました。
車で走りながら、ずっと考えていました。
父は母が来るのを待っていた?
不思議に思っていた、3日違いで逝った両親。
父と母の棺の重さの違いで、
私は気づきました。
なぜ、一か月くらいしかもたないと言われていた父が
栄養剤注射で栄養が足りず、体重も落ち、
骨と皮のような状態になってまで、
半年生きていられたのか?
全てはつながっていて、父は、
母が来るのを待っていたんじゃないか、
と私は思いました。
連休初日のあの日、父に言った
「おふくろ、もうダメかもしれない」
を父が聞いていた。
それで、父はがんばって生き延びるのをやめた。
だから、母より父が先に逝った。
そして、母も父の葬儀が終わるのを待って、逝った。
こう考えると、ものすごく、
つじつまが合うんです。
とは言え、物理的には、絶対話し合うことなんて
できなかったはずなんです。
病院は車で30分くらい離れてましたし、
両親ともに生きているか死んでいるか
わからないような状態でした。
それこそ、テレパシーみたいなものがなければ、
こんな出来過ぎたタイミングで、両親が逝くことに
なるはずがないんです。
あの日、父に言った「おふくろ、もうダメかもしれない」が、
結果的に、父が死ぬことの原因になったのかもしれません。
ですが、両親が、奇跡的に、
ほぼ同じタイミングで旅立てたのは、
今思うと良かったと思っています。
正直言って、私から見ても、
そんなに仲のいい夫婦ではなかったと思います。
それでも、私にも見えなかった絆のようなものが、
両親にはあったのでしょう。
ちょっとだけ、うらやましいな、とも思います。
その後、お寺に行き、母の遺骨を預け、
父の時と同じく、四十九日までの法要をお願いしました。
ここまで、命日が近いのであれば、
今後の法要は二人一緒にすることになりました。
法要まで一緒って、どこまで仲がいいんだ(笑)
これが、私が両親を立て続けに亡くした、てん末です。
立て続けに逝かれて、残された私は、
たまったものじゃなかったです。
当時の私のメンタルはボロボロでした。
本当に天涯孤独になってしまい、
何かというと、両親のことを思い出して、
枕を濡らす日々でした。
これが原因で、いろんなことも起こるのですが、
今日はこれくらいにします。
最後までお読みくださり、
ありがとうございました。
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