バスに乗せてもらえなかった、の話
バスに乗せてもらえなかった。
今日の話はこれで終わりだ。あとは本当に「バスに乗れなかったんですよ」ということを延々話すだけである。エッセイとは往々にして得るものの無いものだとは思うが、今日はいつにも増して、何も無い。
つい先日の稽古帰りのことである。稽古場から駅までは歩いて30分くらいで、さらに夜なのでバスは全然無い。いつもは仕方がないので、というか当たり前のように歩いて駅まで行っている。もう何度も通っている場所なので、案外歩けるものなのだ。
だからと言って、そこそこ疲れた帰り道でたまたま偶然、駅まで行ってくれるバスが通りかかったら乗りたくなるのが人というものだろう。「行きはよいよい、帰りはこわい」とはよく言ったもので、あれこれやった帰り道はそのまま家まで自動でワープして欲しいという気持ちは捨てきれない。
いつもと同じく一人で歩道を歩いていたら、後ろからバスが追い越してきた。電光掲示板に表示された行き先は確かに行きたい駅を経由してくれるものだ。しかも、すぐ目の前のバス停に停車する合図を出しているではないか。
これは乗るしかない。いや、むしろ乗れと何処かの誰かが言っている。筋肉痛を訴える下半身に鞭打って僕は走った。本当にバス停はすぐそこだったので、バスが停車して乗客が降りる前には辿り着く事が出来た。
あとはもう簡単である。目の前で開けられたドアから入って、スイカをタッチし、空いている座席に座れば良い。そうすれば僕自身は何もする必要が無い。四角い箱が自動的に、行きたい駅まで連れて行ってくれるのだ。
ありがとう、自動車を発明した人、バスという仕組みを考えた人、そして今ここに、バスの路線を走らせようと考えた人たち。このバス停にバスが止まるまでに欠かせなかったであろう全ての人に感謝を捧げる僕を置き去りにして、バスは発車した。
なんとびっくり、バスに乗せてもらえなかったのである。
驚き桃の木山椒の木とはまさしくここで使う言葉かもしれない。バスの到着に合わせてバス停に着いたら、バスに乗せてもらえなかったのだ。僕が「ただバス停に向かって走った人」になった瞬間である。誰かに祝って欲しい。
何処かの誰かが「バスに乗れ」と言っていると思ったのは全くの勘違いで、ただ僕の目の前で、バスが停留所に止まり乗客を下ろしてから発車する、という事象が発生しただけなのだ。
生まれて初めての経験に僕はただ笑顔でバスの乗客を見送るしかなかった。心なしか、見送る僕と目があったお客さん達もみんなビックリしていたように思う。もしかしたら独りで笑いながらバス停に立つ謎の青年に恐怖していただけかもしれないけれど。
頑張って走った後にバスを眺めてちょっと休憩した僕は、また何事もなかったように歩き出した。「これはエッセイのネタになるな」などと考えながら。
乗れなかったのは僕に原因があった可能性もある。例えばバスの死角に入っていて気がつかれなかったとか。バスに追い越されてから走っているので、ニアミスとはいえ運転手の目には「誰もいない停留所」が見えていたはずだ。夜だし後から追いついたところで見えなかったのかも知れない。
そんなに乗りたかったのなら、バスの前の方まで行って乗りたいアピールぐらいすれば良かったのではないか、という考え方もあるだろう。お客さんを下ろしている間に後部ドアを開けてもらえなかった時点で少し変だと思うべきだったかも知れない。
なんにせよ、バスに乗るための最善を尽くしていなかったのだから文句を垂れても仕方がない。ミスは誰にでもある。教習所でも認知ミスというヒューマンエラーの存在を教えてもらったではないか。エッセイのネタができたのだから、むしろ儲けものくらいに考えれば良いのである。
ただ、それはそれとして、このままだとちょっとオチもつかないので恨み節の一つくらいは言っておこうと思う。前もって断っておくが、たった今思いついたことなので本気に受け取らないで欲しい。
それではお聞きください。
「バスに乗せなかったのが、僕みたいな人間で良かったですね」
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