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しなければならない
これまで生きてきて、たくさんの選択をしてきた。
一番最初の選択は、保育園の年長さんの頃。
バレエを始めるかどうかだった。
同じクラスでバレエを習っている子が多かったからという理由で、お風呂で母親に打診したことを覚えている。
その次は私立中学の受験。
クラスでちょっと成績がよかったから、もっと勉強がしたいと思い、学習塾に行きたいと母親に伝えた。
ここまでは、理由がどうであれ、自分が「したい」という意思から選択していたように思う。
ただ、これ以降の人生は無意識の「しなければならない」で選択したように思う。
例えば、
中学に入学後、クラブ活動を「しなければならない」と思い、その「しなければならない」のうちで選択したバドミントン部に入った。
年長さんの時は、習い事を「しなければならない」という意識はなかったはずで、バレエを「したい」と思い始めた。
高校への進学も、みんな進学するからそもそも進学しないという道があることすら知らなかった。
大学への進学も、みんなが大学へ行くから行かなければならないと思い、勉強した。
どこの大学に行くかは、もちろん自分の意思で選んでいるが。
就職活動も、大学を出たら「社会に出なければならない」から自分なりに自己分析をして、会社を選んだ。
大きな括りの決断は、無意識の「しなければならない」で、それ以外の道があることすら知らなかった。
むしろ、何も知らない視野が狭い状態だったからこそ、背水の陣で乗り越えられた事も多かったように思う。
ただ、無意識の「しなければならない」ができなくなったときに、どうすることもできなくなることを知った。
足が竦んで前に進めない。
だが右を見ても、左を見ても、後ろを見ても、水が迫ってきている。
私は長い間、熟考して決断を下してこなかったからなのか、前に進めないなら、何も考えずに自然に体を委ねて溺れて死んでしまおうとする。
水を止める方法を必死に考える人や、泳ぎきってやると意気込む人もいると、最近になって知った。
人生には選べることが自分が思っているよりたくさんある。
「しなければならない」は思い込みなのかも。
じゃあ、そもそも「生きなければならない」はどうなんだろう。