【小説】おらく 1/5

1

 食卓に、私の知らない顔がいた。
 正確には、完全に知らない人間、というわけではない。どこか親しみの感じられる、他人とは思えない誰か。まるでずっと前から我が家の一員であったかのように、朝の風景に溶け込んで味噌汁を啜っていた。父も母も妹も、私以外の誰もが、その誰かを当然のように受け入れていた。
「やあ、ヒカルさん。おはよう。今日は寝坊しなかったんだね」
 その誰かは、朗らかに微笑んで私にそう言った。見れば見るほど不思議な風貌をしている。目じりのしわや疲れた背中から、年齢は四十そこらだろう。大体の年齢は推測できる。しかしけったいなことに――性別が、全くわからないのだ。
 中性的な見た目をした人というのも確かに存在する。しかしそういった表現は、普通十代か二十代くらいの若者に対してされるものだ。四十代になってもそういう見た目のままである人はほとんどいない。おじさんかおばさんかわからないような人もいるにはいるが、そういった人の外見とも一線を画している。人間から男性的特徴と女性的特徴を限界まで削ぎ落とせば、あんなふうになるのかもしれない。まるで、男でも女でもない、もう一つの性別を持っているかのような――そんな、私の常識の外にあるような人だった。
 しかしなぜか、私はその彼か彼女かわからない何者かに、嫌悪感は微塵も覚えなかった。それどころか私は、初めて会うはずのその人に、物心がついたころから一緒に居るような――そんな親しさを感じていた。得体の知れないこの謎の人物を、だ。そのことが、ひどく私を混乱させた。
 私はその誰かを指差し、率直に食卓全体に尋ねた。
「この人、誰」
 リビングが一瞬凍った。彼らからすれば、家族同然になじんだ人間に、いきなり私がおかしな疑問を投げかけたように見えているのだから、それも仕方のないことだろう。
 静寂を破るように、妹が口を開く。
「何言ってるの、お●●ちゃん? おくうさんのことわすれちゃったの? 寝ぼけてる?」
 妹の言葉の一部に、ノイズが入ったかのように聞こえた。私のことをどう呼んだのかが聞き取れなかった。いや、そんな些末はどうでもよい。大事なのは、その次のセリフだ。
「おくうさん?」私は復唱する。
「そうだよ。おくうさんだよ。アタシたちのめめ親の」
 めめ親、という言葉にも、同じく聞き覚えがない。親、とあることから、父親や母親と同じような言葉なのだろうか。だとすれば、おくうさんというのは、おとうさんやおかあさんと似た類いの名詞だと推測できる。しかしそこまでだ。それ以上、これらの単語が何を意味するか分からない。
「待てよ。おくうさんだとかめめ親だとか、わけのわからない言葉を使うなよ。もっと分かる言葉で、この人が誰なのかをだな――」
「おいおい、ヒカル。に本当におくうさんが誰かわからないのか」
「ふざけて言ってるわけじゃないの? 寝ぼけてもいない?」
 おとうさんとおかあさんも、私におかしなものを見るような目を向ける。どうやら、ここでおかしいのは私の方らしい。もしくは、家族全員がおかしなことになっていて、私だけ異変に気付いているのか。
 混乱が食卓全体に広がりかけていたそのとき、問題の誰かわからない――家族にならうならおくうさん、とやらが言った。
「これは、ついにヒカルさんにも、私と同じような時期が来たということでしょう」
 なお一層、何を言っているのかわからなかった。同じような時期とは何なのだ。この、性別すらわからない謎の人物と私に、共通するところがあるというのか。確かに変な親しみを覚えているのは確かではあるが。
 しかし、混乱が深まる私を尻目におとうさんとおかあさんはその言葉を聞き、あろうことか、万歳をした。
「おおっ! ついにヒカルも、そういうお年頃か! それなら安心だ!」
「そうねあなた! 他の子たちよりだいぶ早いけど、来たのね! 今夜は、お赤飯たかなくちゃ!」
 騒ぐ両親に対し、妹だけは、冷めた目でそれを見ていた。
「おとーさんもおかーさんも、そういう時代遅れなことはやめた方がいいよ。赤飯たくなんて、お●●ちゃんに嫌われても知らないよ」
「いいじゃないか。だってめでたいことなんだから。そうかだから、おくうさんのことが分からなかったんだな」
 私以外の全員が、何かを理解している。置いてきぼりだ。もやもやする。おとうさんとおかあさんはなぜか馬鹿みたいに喜んでいるし、妹はそれを見て呆れている。私は辛抱たまらなくなり、いつもより一人分多い朝食が並べられたテーブルに、平手を叩きつけた。食器が軽くはね、着地の音で両親の騒ぎが収まる。
「何が何だかわかんないよ! 説明してくれなきゃわかんない!」
 おとうさんとおかあさんが、しまったという顔をして舌を出す。いもうとは、だから言ったじゃないとため息をついた。そして私の激昂に答えたのは――誰でもない、おくうさんだった。
「すまないヒカルさん。君にとって大切なことなのに、ほったらかしにしてしまって。君からしたら、わたしは顔も知らない誰かなのだろうけど、それでもわたしから、何が起こってるかを説明させてほしい。……それは、構わないかな?」
 カウンセラーのような、ストレスの一切ない話し方だった。冗談を言っているわけでも、私を騙そうとしているわけでもなさそうだ。私は不承不承、首を縦に振る。そしてようやく、椅子に座った。
 おくうさんは、目玉焼きに箸を伸ばしながら私に尋ねる。
「まず初めに、君はわたしの性別が何か、分かるかな」
「わかり、ません。おくうさん? でしたっけ。あなたは男っぽくも女っぽくもない。かといって、中性的というわけでもない」
 変な表現にはなるが、今まで縦と横の二次元の尺度しか持ち合わせていなかったところに、新しく初めて、高さという三つ目の概念を持ち込まれた感じだ。男と女の中間ではなく、全く別のところに、おくうさんはいる。
「それは正しい。なぜならわたしは実際、男でも女でもないからね」
「――は?」
 それはつまり、いわゆるトランスジェンダーということだろうか。私自身そのあたりの詳しい分類はよくわかってはないのだが……。つまりは、肉体と精神で、性別が異なるということなのだろうか。
「いいや、そういうことでもない。今の君にはわからないだろうが、この世界には生物学的にも、男、女、そしてもう一つ、第三の――わたしからすれば第一なんだけど――性別が存在するんだ」
 おくうさんはゆっくりと箸の先を目玉焼きの黄身に突き刺し、そして割った。
「三つ目の性別、それはこの世界で、『おらく』と呼ばれている」

2

 その日は学校は休みにしてもらった。おとうさんが話をすると先生は、あっさりと公欠を認めてくれた。いつもはかなり厳しいのに。
 おくうさんも、会社を休むそうだ。理由はなんと育休。私にいろいろと腰を据えて話すためだけに、休みを申請したらしい。そしてそれも、かなり急であるにもかかわらず認められた。
 おとうさんとおかあさんは仕事に出かけ、妹は元気に小学校に登校した。家には、私とおくうさんだけが残された。得体の知れない人と二人きりというのは恐ろしくもあるが、奇妙な信頼感がそれを緩和した。
 話は、二階にあるおくうさんの部屋で行うことになった。私の記憶では、もともと物置となっていたはずの部屋であった。存在しないはずの住人の部屋は、不確かさで満ち満ちていた。
 おくうさんが紅茶を淹れてくれた。アッサムだかローズヒップだか、茶葉の名前まではよくわからなかった。角砂糖を三個も入れたせいで、風味が損なわれてしまった。甘すぎる紅茶に顔をしかめる私を見、おくうさんは自分のカップを私のものと取り換えてくれた。余計なものを入れなかった紅茶は、確かに美味しかった。
「この世界には、三種類の人間がいる。おとこ、おんな、そしておらくだ。またお察しの通り、わたしはその三つ目のおらく、というわけだ」
 ついでに、男の親が父親でおとうさん、女の親が母親でおかあさんと呼ばれるのと同様に、おらくの親はめめ親、おくうさんと呼ばれるわけだ。おくうさんはそう付け加えた。
「めめ親も家族の中に組み込まれているということは、つまりその、生殖にもそのおらくというのは、かかわるんですか」
「そのとおり。基本的に、三種類の人間がいて初めて恋愛ができるようになり、また子供を成すことができるようになるんだ。例外もなくはないけどねおそらく保健体育の授業か何かで教わったはずだけど――今の君は、きっと忘れている」
 おくうさんは、甘ったるい紅茶を嫌な顔一つせずに口にする。さらにはお茶菓子のスコーンまで食べている。実は甘党なのだろうか。
 なるほど。いくつも謎は残っているが、とりあえずこの人が何者か、という問題に対する答えは出ている。ここは私が知っている二つの性別だけの世界ではなく、三つ目の性別、おらくの存在する世界で、この人は私のおらくの親、おくうさんなのだと。どおりで親しみを感じるわけである。
 しかしそうなってくると、当然新たにわからないことが出てくる。
「それじゃあなぜ、私は今まで、この世界には二つしか性別がないと思い込んでいたのですか」
 もっと言うなら、おくうさんの存在を、どうして忘れているのだろうか。
「実はそれは、思春期の子供には誰にでも起こりうることなんだ。普通なら十五歳から十七歳くらいの間に起こるんだけど、ヒカルさんは早かったみたいだね」
 私もお茶菓子に手を伸ばす。おくうさん曰く、本場のマカロンらしい。しっとりとした生地が口の中でほどけ、優しい甘さが広がる。さっきの暴力的に甘い紅茶とは大違いだ。
「そもそもおらくという性別は、基本的に思春期までの子供には存在しないんだ。それまではみんな、男か女のどちらかなんだ。しかし思春期に、一度自分の性別を見失う。昨日までは自分がどちらかだったかわかっていたはずなのに、突然忘れてしまうんだ。そしてそのとき、男か女かという二つに意識が集中し――おらく、という性別があったことを、記憶から失ってしまう。それが、今の君の状態だ」
 どうだい、君は今、自分の性別が何だったか思い出せるかい? おくうさんのその問いに私は黙るしかなかった。
 言われてみれば確かに、自分の性別が何なのか、今の私には思い出せなかった。どころか、それを認識するための五感にもノイズが混じっている先ほどいもうとが僕を呼んだときの不協和音もそれに由来するのだろう。いもうとは私のことを「おにいちゃん」と呼んだのか、「おねえちゃん」と呼んだのか、それは今もわからない。また、試しに自分のパンツの中を見てみたが――股間には陰毛が異常に増殖したかのような、黒いもやがかかっていた。履いているパンツが男物か女物かさえ、私には認識できなかった。
「そしてこの思春期の間に、元の性別を思い出すか、おらくとして目覚めるかが決まる。目覚める、というのは少し表現が違うかもしれないが……、まあともかく。この現象は、思春期なら誰にでも起こることだ。わたしもそうだった。この時期に、自分がおとこでもおんなでもない、おらくであると確信したんだ。だからヒカルさんも、そのうち思い出す。最初は違和感があるかもしれないが――すぐに良くなるよ」
 そう言っておくうさんは、カップを一気に飲み干した。カップの中には、溶け切らずに残っていた砂糖が、泥のように沈殿していた。

3

 その後私は、おくうさんと図書館や書店に行き、思春期や性別にまつわる書籍を、いくつか手に入れた。
 書籍によるとおらくは、前の人類にはなかった、新しい人類にのみ特有の性別らしい。ということは、以前の人類は、さっきまでの私と同じく、二つの性別しか知らなかったということだ。ある新書には、思春期におらくのことを忘れるのは、その頃の人類の記憶がフラッシュバックするからだという意見もあった。また一方違う本には、おらくという性別をもたなかったからこそ、前の人類は滅んだ、とも書かれていた。
 そして翌日、さすがに二日連続で休むのはよろしくないので、普通に登校した。朝礼前、いつものように隣の席のヒビキが話しかけてくる。
「よう、ヒカル。昨日はどうしたんだよ。急に休むもんだからびっくりしたぜ。体調崩したりしてないか? もしかして、俺と顔合わせたくないからとかだったりしないよな」
「あー、そうだね……」
 目が泳ぐ。おくうさんの話や書籍の情報をまとめると、私のこの思春期はだいぶ早いものらしい。普通なら、高校生になってから発症するらしい。そう考えるとこの早すぎる思春期は、あんまり目立ちたくない中学生心理的には隠しておきたい。
「ええっと、法事だよ法事。突然遠い親戚に不幸があってさ」
「ああ、なるほどね。そりゃ失礼した」
「いいや大丈夫だよ」存在しない親戚だし。
「それならよかった。そして実は、お前に相談したいことがあるんだよ。昨日来なかったから話せなくて、もやもやしてたんだ」
 正直なところ、自分の悩みだけで精いっぱいではあるのだが……まあ、不自然な対応をして変な疑いをかけられるのも避けたい。私は椅子ごとヒビキの方を向く。
「相談したいことってなんだよ」まさか私の悩みとおんなじじゃないだろうな。
「俺さ、ノゾミと付き合ってるじゃんか」
 ノゾミというのは、隣のクラスにいる私とヒビキの幼馴染のおんなのこだ。小学生のころから三人で仲良く遊んでいた。最近になって、ヒビキがノゾミに告白して、二人は恋仲になった。
「そうだな。仲良くやってるの?」
「やってるつもりなんだけど、実はなんだかマンネリ気味でさ。俺もノゾミのことが好きだし、ノゾミも俺のことを好きなはずなのに、二人でいてもなぜか心から楽しいと思えないんだ」
「そりゃまずいな。倦怠期というには早すぎる」
「だからさ、今日二人で下校してるとこをさ、ちょっと離れて見ていてくれないかな」
「――え」
 ……なんだかおかしな方向に話が進んでいるような気がするが、とりあえず続きを促す。
「俺とノゾミのこと関係を、俺たち以上に理解しているのはヒカルしかいない。だから、俺たちが二人でいるところを見て、何かおかしいところがないか確かめてほしいんだ。頼むよ。お前にしか頼めないことなんだ」
「うーん……」
 理屈はわからないではない。確かに私はヒビキとノゾミのどちらとも仲が良いし、彼らのことをかなり深いところまで理解しているという自負もある。今更隠し立てすることもないし、私に意見を求めるというのは何も間違っていないように思える。方法が少し突飛なだけで。
「……分かった。違和感はあるけど、その頼み請け負おう。今日の帰りでいいんだよね?」
「やった! 助かるぜ。今日の帰り道、少し離れたとこから見ててくれ。ちょっとでも気になることがあれば、どんどん言ってくれよな」
「オッケー。オッケーなんだけど、もうちょっとやりようがあったような気もするけど」
 私がチクリと刺すと、ヒビキもうなずいた。
「そうなんだよな。別の方法もあるとは思うんだけど、なぜか俺たち二人とも、ヒカルに見てほしいと思ったんだよな。なんというか、ヒカルに見てもらえれば、全てが解決するような気がして……なんでだろ」
 そこまでヒビキが言ったところで、朝礼の開始を告げるチャイムが鳴った。担任の先生が教室に入ってくる。簡単に今日の時間割をおさらいした後、来週から教育実習の先生が来ることを伝えた。なんでもその実習生は、おらくの人らしい。中学生はまだ思春期を迎えていないやつがほとんどだから、おとこかおんなしかいないが、大学生ともなると、三分の一くらいがおらくなのだろう。それは一体どんな世界で、どんな社会が形成されているのだろうか――。私はまだまだ先のその混沌に、思いをはせた。
 そして心の奥には、さっきのヒビキの言葉が、釣り針のように引っかかっていた。
『なぜか俺たち二人とも、ヒカルに見てほしいと思ったんだよな』
 あれはどういう意味だったのだろうか。彼ら二人は、どうしてそう思ったのだろうか。

4

 そしてその日の放課後。テスト前なので部活動もない彼ら、ヒビキとノゾミは、二人仲良くカップルらしく、下校をしていた。そしてその五メートル後ろに、それを尾行する怪しい影が一つ。何を隠そう私、ヒカルである。
 別に、隠れる必要はなかったはずだ。私が彼らの下校を見守るというのは、ヒビキとノゾミが頼んだことである。ついこの間まで三人で仲良く遊んでいたのだから、周りの目を気にする必要もない。
 しかしなぜだか、彼らの間に割って入る気になれなかったのだ。お互い好き同士であるあの関係に、自分が入り込むのが許せなかったのだ。二人の会話は、なんの問題もなく進んでいる。昨日見たバラエティ番組の話。好きなアーティストの話。時折ヒビキが、推しているアイドルの話をし、ノゾミがそれにやきもちをやくシーンもあったが、きちんと「もちろんそのアイドルの百倍はノゾミのことが好きだよ!」と直球すぎるフォローを返し、事なきを得た。変にごまかすより、こっちの方が気持ちが良い。仲睦まじい、理想みたいな中学生カップルだ。どこが倦怠期だというのだろうか。
 そして私自身はというと、驚くほどフラットな感情で、彼らのことを眺められていた。穏やかな気持ちで、彼らの尊いやり取りを見られていた。以前なら、こうはいかなかった気がする。これは恐らく、私が自分の性別を見失っているからだろう。
 一昨日までの、思春期に入る前の自分を、頑張って思い出そうとする。あの頃の私は、どちらかは覚えていないが自分の性別を自覚していた。だからたぶん、彼らのどちらかに、大なり小なり嫉妬していたのだろう。あいまいな記憶を手繰り寄せる。私たちはもともと、異性の混じった三人グループだった。そこに色恋沙汰が入り込めば、誰かがマイナスの感情を抱くのは当然のことで――それがおそらく、私だった。
 けれども私は、ヒビキもノゾミも恨みたくはなかったのだろう。私は彼らが好きだから。幸せそうな彼らを見ていると少しずつ感情が掘り起こされてくる。私は自分が男であること、もしくは女であることを恨んだのだろう。彼らに負の感情の弓を引くくらいなら、性別なんてなくなってしまえばいいと――そう願ったのかもしれない。
 その結果が――――
「よう! お疲れ様。わざわざありがとう。ジュースでも奢るよ。何がいい」
 私が脳内でぐるぐると思考を巡らせているうちに、いつの間にかノゾミの家の前までたどり着いたらしい。彼女をきちんと送り届けたヒビキが、私をねぎらった。
「じゃ、じゃあ」昨日のことを考えていた私は、つい「紅茶で」と答えた。
「ふーん、渋いな。俺はコーラにするわ」
 そう言ってヒビキは自販機に紙幣を吸い込ませた。取り出し口から出てきたペットボトルは、当然ながら昨日のカップとは異なり、冷たかった。自販機のアイスティーもそれはそれでよいものだ。私はキャップを開けながら言う。
「それにしても、何も悪いところなんてなかったように見えたぞ。仲の良いラブラブカップルだった。見せつけてくれるね」
「いやあそれがさ、昨日まではもっと険悪というか、良くない空気が流れてたんだよな。それこそ、俺がアイドルの話題なんか出したら、問答無用でノゾミがむすっとしちゃったり。逆に俺の方も、ノゾミの些細な言動が気になっちゃってイライラしたりさ」
 ヒビキは、まるで飲料メーカーのCMのように、喉を鳴らしてコーラを流し込んだ。
「でも今日は、ヒカルに見られてると思うと、俺もノゾミも穏やかになったんだよな。なんというかこう、言葉では言いにくいんだけど、認められてる感じというか……。俺たちの恋愛には、ヒカルがついてるんだぞ、みたいな誇らしさというか……。とにかく、今まで感じたことない安心感があったんだよ」
 ――なんというか、本当の恋愛をしている気がしたんだ。
 ヒビキは最後に、そう付け加えた。
 そのとき私の脳裏を、昨日おくうさんが話してくれた、おらくの説明が駆けた。

『めめ親も家族の中に組み込まれているということは、つまりその、生殖にもそのおらくというのは、かかわるんですか』
『そのとおり。基本的に、三種類の人間がいて初めて恋愛ができるようになり、また子供を成すことができるようになるんだ』

 そうか。わかった。つまりそういうことだったんだ。私の思春期が皆より早く来た理由も、ヒビキとノゾミの恋愛がつまらないものになった理由も、それが今解決した理由も、全てわかった。ついでに、どうしておらくなんて性別が生まれたのかの理由も、少しだけ。
「――ありがとうヒビキ。君たちのおかげで、霧が晴れた」
「? 何のことだ」
「明日、整理がついたらきちんと話すよ。昼休みに、ノゾミと一緒に校舎の裏の倉庫近くに来てくれ。そこで全部話す」
「お、おい。いきなりなんだよ。わけがわからないんだが――」
 疑問符に満ちた表情のヒビキ。しかし、申し訳ないが今は詳しく説明できるわけではない。早く帰って、おくうさんに私の仮説を話すのだ。そしてそれが正解か、きちんと示してもらうのだ。お墨付きをもらってはじめて、彼らにも話すことができる。
 私はヒビキにさよならを言い、自宅へと急いだ。

 答え合わせだ。

5

「――その通りだ。あえて隠していたのによくわかったね」
 まあ、自分で見つけてほしいから隠したんだけどね。おくうさんはハーブティーを啜りながらうそぶいた。確かに今思い返せば、図書館でも書店でも、読む資料をおくうさんがこっそり検閲していたような。
「わたしたち新しい世代は、単におとことおんなで性行為をするだけでは子供はできない。わたしたちおらくに、それを『見て』もらう必要があるのさ。恋愛ですらそうだ。二人きりではできず、おらくが見ていなければ、楽しさも快感も生まれない。二人だけではなく、第三者による観測が要るんだ。観測されることで事物は存在できるという哲学がある。それの延長線上だと思ってもらえればいい。昔の世代に比べれば面倒な気もするが、実はこれが必要なことなんだ」
 おくうさんはハーブティーを勧めてくるが、私はすでに紅茶を飲んだからと遠慮した。
「旧世代が滅んだ理由には様々な説があるけれど、有力なのは『承認』の暴走さ。人間関係が薄まり、自分が他人から必要とされているか、という点に皆が疑問を抱き始めた。疑いの天秤が『必要されていない』に傾けば、その個体は自滅してしまう。恐ろしい病だよ」
 私は聞きながら、お茶菓子に手を伸ばす。お茶はすでに飲んだが、こちらは話が別である。今日の菓子はチョコチップクッキーだ。夕食前なので、怒られないくらいにしておかなくては。
「従来のおとことおんなだけの求めあう関係では、その病に対抗できなかった。『自分が求められているのは、性別の差によるものからであって、性を抜きにした自分単体では、必要とされないのではないか』――インフルエンザが毎年形を変えるように、この病も深化したわけだ。それに対抗するためには、性を超越し承認を与える存在が必要だった」
 昔の人は、神とか真理とかにその役割を求めたらしい。しかし、神や真理では不十分だった。それらは性を超越はしているが――しかし承認は絶対に与えてくれない。神や真理は、いつだって沈黙している。
「そしていつの間にか現れたのが、我々おらくだ。おらくは承認を必要としないというか、承認をあきらめた存在だ。自分自身が承認されるよりも、他者や他者同士の関係を尊び、それを『見る』ことで承認の代わりの糧とするんだ」
 自然に生まれたものか、突然変異か、それは意見の分かれるところらしい。ともかく気づいたときには、おらくはすでにいたらしい。
「そして今現在は、第三の性別、おらくを持つ我々が生き残った。これが旧世代が滅んだ説の一つだ。もちろん他にもいろんな説があるし、これが間違っていると主張する学者もいる。けれどもわたしは、これが正しいと思うね」
 西から射す夕日が、おくうさんの部屋の中を照らした。橙色の光が、本棚に並ぶ背表紙に映える。そこにある本はどれも、私の頭では理解できないようなものばかりだった。
 そのなかでおくうさんは、僕に言った。
「それで、君は自分の『見る』べき対象を見つけたんだね」
「――はい」
「そうかい。では自分が何者なのか、はっきりしたことだろう。ここから先、私がいうことは何もない。自分の心の指し示す方へ向かえば良い。とはいえ、一応わたしは先輩にあたる。壁にぶつかったり、悩んだときには、相談してくれ」
 ――なんたってわたしは、君のめめ親、なんだからね。
 全てを理解し受け入れたことによって、私はおくうさんを、真に自分の親だと認識できた。この人がいたから私は生まれてこれたのだし、この人がいたから私はここまで育ってこれたのだ。
 昨日は不気味に感じていたが、今となっては、こんなに頼もしい存在はない。ひとつ皮が剥けたとはいえ、私はまだまだ中学生に過ぎない。これから躓くことも大いにあるだろう。しかし、この人が味方であるというだけで、何とかなるような気がしてくる。おくうさんは僕のめめ親で――なんといっても、おらくとしての先輩なのだから。

「ヒカルー。早く出ないと遅刻するよ」
 階下からおかあさんのせかす声が聞こえる。呼ばれた本人である私はというと、着替えの途中で困っていた。クローゼットの中には、以前の性別用の制服しかないのだ。今手元に新しい性別の制服がない以上、これを着ていくしかないわけだが……本当にそれでよいものか。
 すると、悩んでいる私を見透かすように、ドアの向こうからおくうさんの声が聞こえた。
「とりあえず今は、ジャージと体操服で投稿すると良い。休んだときに学校に事情は伝わっているだろうから、適当に処理してくれるはずだ。それに、無理におらくという性別にこだわらなくていい。今までのスタイルが自然だと思うなら、そのままでもいいんじゃないかな」
 さすがおくうさんだ。僕はドア越しに礼を言うと、すぐさま言われたとおりにした。こんなことで、今日学校を休むわけにはいかないのだから。
 私は今日、昼休みに、ヒビキとノゾミに告白をする。それは自分が、おらくであるという告白。そして、彼らを「見」させてくれないかという告白だ。
 きっと彼らは驚くだろう。しかし拒みはしないはずだ。私が彼らを好きなのと同じように、彼らにも私が必要なのだから。
 ジャージに着替えた私は、勢いよくドアを開けた。これから私の、おらくとしての新しい人生が始まるのだ。立ち止まってなんか、いられない。

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