渡辺浩弐さんの新刊『中野ブロードウェイ怪談』を読んだ
(2023/07/19午前に第6節を追記しました。)
私の好きな作家、渡辺浩弐さん(Twitter、note)の新刊が出たー!
2021年夏から渡辺さんがYouTube Liveで行っていた企画の単行本化、ということになります。(ご本人による再生リストはこちら)
以下、感想を書いていきたいと思います。
1.ジャケットの絵が良い!
まず、ジャケット(表紙)絵が良いですよね! 電球色のちょっと古ぼけた明かりのなかを逆光で歩く少女。中野ブロードウェイの"古さ"と対比される"現代"の少女。
本来なら交じり合わずに異物感があってもよさそう。なのに、それを調和しているのはタイトルロゴでもある「中野ブロードウェイ」という文字と場所なのかなと感じました。中野ブロードウェイには過去から未来までなんでもありますから。
左右にあるショウケースのなかには収録怪談を思わせるものがいくつかあったりして、読み終わったあとに見返すとこれを表していたのかなと気づかされます。
好みで言えば、渡辺さんのここ数年の単行本のジャケットで一番好きです。
あと、ジャケットとは厳密には異なりますが、帯のコピーも良いですね。
この本は、ほとんど本当の話です。99.9%くらいは。
「このほんは ほとんどほんとの はなしです きゅーじゅーきゅーてん きゅーぱーくらいは」で五七五七七で読めますし、最初二句に「ほん」の発音が三回出てきてリズムも良い。一度声に出したら頭にこびりつきます。
帯の折り返し部分には『2030年のゲーム・キッズ』が2023年8月発売予定と告知されていました! こちらもめちゃくちゃ楽しみ。詳しい日程はまだ出ていませんが、もしかしたら1ヶ月を切っているかもですよ。
2.リアリティレベルの変換がかっこいい!
前述のとおり、単行本のもとになったのは渡辺さんのYouTube Liveの企画です。
あの配信をリアルタイムで見ていた人、単行本の前に見ていた人はこう思っていたのではないでしょうか。
「浩弐、また急にわけわからないこと喋り出したな」と。
私個人としては、一つ一つのお話を小話として「へー」「ふーん」と毒にも薬にもならない感じで聞いていました。まあ赤トイレはいまだに何言ってんのかなって思ってますけど。
結局何がしたいのかなー、面白話をしたいだけなのかなーと思っていたところに今回の単行本化です! そして読んでみたら存外に面白かった!
ネット配信で話を聞いていると胡散臭い話ばかりなんですが、単行本に収録されたお話として読むと単純に面白いんですよね。
たとえて言うなら雑誌に連載されているコラム。しかも、雑誌のテーマとは完全に違うテーマを扱ってるやつ。極端な話、雑誌に掲載されていなくても問題ないのだけど、あったらあったで楽しく読んじゃうやつです。そういえば渡辺さん『1999年のゲーム・キッズ』もまさにそのポジションだった。
そんな雑味を残したままの単行本化が珍しいことも手伝ったのかもしれませんが、単純に面白かった。
語られている内容としては配信と基本的に同じ。なのにこんなに感想が変わるのは何故と考えましたが、媒体の違いによるリアリティレベルの違いなのかなと。
ネット配信で「中野ブロードウェイは上空から見ると、宇宙人語で「いらっしゃいませ」という言葉になっている」と言われると、間違いなくこの人ちょっと変な人なんだとなります。
しかし、単行本化されたなかで言われると「そういうお話なのね」と受け取れるようになります。
そもそものネット配信が単行本化を前提にしていたのかという点は不明です。しかし、媒体が変わると容易に受容されうることを認識していたのであれば、作者である渡辺さんも、出版元の星海社もさすがプロだなと思わされます。
3.「語り」が本になった!
本作は『令和元年のゲーム・キッズ』以降続いている、朗読や喋りが本になった作品の最新作でもあります。
そのなかで今回新しいのは「小説ではない」ということ。
渡辺さんがトークエッセイでしばしば言及する小説家ではない人たちが音声入力などを通してある種の物語を紡いでいくかたち。それを自身で単行本まで提示したことになります。
もちろん単行本化に際しては手を入れているのですが、コンテンツとしての核の部分は語りの部分で完成している。
最近めっきり本を読まなくなってしまったので分かりませんが、結構新しいことのような気はします。
うまく言えませんが同じ版元の『RPF レッドドラゴン』に似たところもあるのかなと。
普通のTRPGリプレイはゲームの結果が物語になる。RPF(Role Playing Fiction)は物語を紡ぐためにゲームをする(……とどこかで言っていたような記憶)。
『レッドドラゴン』も物語という核の部分は現場で語られることで本来終わっていて、それがある種の小説として出てきたのは結果でしかないのかなと。もちろんあれは単行本として出す前提の企画ではあったんですけど。
4.好きな作品など(ネタバレあり)
この節では単純に好きな作品や気になったをあげていきたいと思います。この節から内容に触れるため、ネタバレありになります。
「赤ん坊じじい」。この作品は「中野ブロードウェイ 都市伝説」でググると出てくるベビーカーの話とリンクしているのかなと想像しました。私たちが見て取れる現実と繋がりが見えると「ほとんど本当の話です」が本当に本当だったんだと味わえて収録一作目にぴったりでした。
「真夜中の水面から伸びる手」。有名なファフロツキーズから始まり、本当に起こっていそうな現象を綺麗に解明していて美しいですね。
「高速道路でできている?」。ホッピングばばあのことを知らなかったので、ちょっとおいてけぼり感を食らった。結構有名なんでしょうか。
「トイレットマミー」。局部をトイレットペーパーで隠した全裸のおっさんが、まさかの叙情的な着地を見るとは思いませんでした。短編の映像作品で見てみたいです。
5.隠された仕掛け(ネタバレあり)
ここからが個人的な感想の本題です。
私はkindle版が配信されてすぐに読んだので、紙書籍よりも先に電子書籍版で読みました。
まずは表紙、まえがき、目次を見ました。最後の一作以外はネット配信で語られたものだなーと確認した上で、本編には入らず奥付へ。
この本に関して発売前からひとつ危惧していたことがあり、それを確認したかったのです。
それは他の電子書籍にもテンプレートとして入っている「この物語はフィクションです。実在の人物・団体・出来事などとは一切関係ありません」がこの作品にも入っているのか。
だって発売前から惹句を「この本は、ほとんど本当の話です。99.9%くらいは」としている本で、これが残っていたらもう笑うしかないでしょ。
しかし結果としては、もう皆さんが予想のつくように「この物語はフィクションです。実在の人物・団体・出来事などとは一切関係ありません」は奥付にしっかり記載されています。
星海社仕事しろやって思いましたよ、まじで。法的な処置として書かなければいけない一文なのかもしれませんが、紙書籍版にはこれに類する文言はないようだし。「この本の記述は作者の取材・体験・考察に基づいたものですが、それが事実であるとは限りません」とかじゃだめなの? そもそも物語なの? 作り話なの? それを明言することになんのメリットがあるの?
そんなくさくさした気分で本編を読み始めました。
とはいっても読み始めてからは存外に面白く「メディアの違いを理解せよ」ってこういうことなのかーと腑に落ちていました。
唯一の完全新規作品である「忘れられた日記」も、これだけは都市伝説おじさんではなく、小説家として書いた傑作だなーと満足して本編を読み終えました。
そして再び訪れた奥付。やっぱり「この物語はフィクションです」って書く必要ある? 興ざめじゃない? 全部嘘だって書かれてもさあ。ん? 全部嘘? ってどっかで見たようなえちょっとまってそれってさっきのさくひんのさいごにおなじことかいてあったよねみなおすわやっっぱりあったーーーーーーーーーーーーーーーー!!111!!!!!!!!!11111!!
全部ウソだよ、バーカ。
作中の設定で書いてあるのは「ノートの最後」。実際に書いてあるのはノートと同じく冊子体である書籍の本文最後の最後!
私は電子書籍版を読んだから奥付の記述を知っている。けど、それがない紙書籍版でも「ノートの最後」が紙書籍と一致している以上、紙書籍でも「全部(単行本『中野ブロードウェイ怪談』)がウソ・創作であること」が示唆されている!
99.9%本当のことなら、残りの0.1%は何か。つまり、「全部ウソであること以外は、すべて本当のこと」ってことじゃん!
牽強付会に思われる方もいると思います。でも対比として、まえがきで「99.9%本当」と書いた単行本の、最後の作品の最後の一文が「全部ウソ」になることが偶然に起こり得ると思いますか。
しかも前書きを読み直してみると99.9%のくだりの全文はこうですよ。
筆者は主にフィクションを書いていますが、この本は、ほとんど本当の話です。99.9%くらいは。
「おれ、フィクション書きなんだよなー(チラッ)。あーマジ創作ばっかり書いてるわー(チラッ)」ですよ。
ここまでお膳立てされれば、この「全部ウソだよ」は単行本全体にかかっていると見て間違いないでしょう。そうでもなきゃ奥付にあの文言を残してある意味が存在しないじゃないですか。
……と興奮したまま文章を続けてきてしまいましたが、次に大事なのがなぜウソだと明かすかです。
渡辺作品には同様に作品の最後にフィクションであると(作品の中から)明言したものに『死ぬのがこわくなくなる話』があります。
あの作品は最後にウソだと明かすことによって、「何だかんだあっても創作物として読んでいた読者に、『いや、実際にあったことでもよくね』と虚構を擁護させる効果」があったと考えています。
では『中野ブロードウェイ怪談』では作者は何をなしたかったのでしょうか。
ここまで書いてきたものの実は私にはそれがわかっていません。虚構に虚構を重ねることが渡辺さんの作風だといってしまえばそれまでですし、全部ウソならそのウソという宣言もウソかもしれないので結局真実は藪の中なのかもしれません。
ただ私個人の感想として言えば渡辺浩弐がウソをウソだと書いた(と読者が読める)こと、が単純に驚きです。それだけで、なんかすごいものを読んでしまったという気分になりました。
この驚きは極めて個人的なものであることも理解しています。なのでどう言語化すればいいのかなと悩んでいましたが、ひとつ近いであろう表現を見つけました。
夢からの目覚めです。
夢の中で高いところから落ちてしまったとき、刃物をもった不審者に襲われたとき、皆さんに共通するであろう行動は、夢から覚める、です。
でも夢から覚めたからって「なんだ夢か。たいしたことなかったな」とはならないでしょう。
夢は現実ではないとわかっていながら「今の夢、超怖かった。ヤバ」と夢の怖さを認めますよね。
それと同じように「99.9%本当の話」として(もしくは最初からフィクションとして)読んだ物語が事実ではないことを理解しても、その物語の価値が毀損されることはないと思うのです。
あるいは、ここまでの思考が渡辺浩弐の手の内で、夢からの目覚めまでが物語の一部なのかも、なんて思っています。
ひとことで言うと『中野ブロードウェイ怪談』、名作です。
6.もうひとつの解釈(追加・ネタバレ)
最後の一行に関してもうひとつ解釈を思い付きましたので追記します。
最後の一行に使われている書体は男性のものとも、女性のものとも異なるものです。
これはつまり、男性でも女性でもない第三者が書いた可能性を示読み取ることができます。
作品内設定に寄り添って言えば、以下の流れになります。
女性が日記を書く
男性が日記に書き足す
関係ない第三者が最後の一行を書き足す
日記の読み手(主人公=渡辺浩弐?)の手に日記がわたる
女性と男性は(それぞれにとっての)真実を書いています。しかし第三者がそれをウソだと書き足したことによって、そこまでの記載を真実ではないものとしてしまったということになります。
この解釈が有意である点は二つあります。
一つ目はまず単純に矛盾なく物語を読み解くことができます。ただし、この矛盾なく読み解くことができるという点は、皆さんが最初に解釈したこの日記自体が大きないたずら(男性視点も女性視点も最後の一行も同一人物が書いた)である点と並立するものです。言ってみればどっちを真実としてもおかしくはないよねと。
ただし、有意である二つ目の点はこの『中野ブロードウェイ怪談』の構成自体を説明できる点にあります。
先にも書いた「99.9%本当のこと」とされた本書が奥付でフィクションだとされている違和感です。これは、この節で書いた日記の構成と全く同じ解釈で説明できるものです。
日記に関係ない第三者が「全部ウソだよ」と書き足すことによって、実際は真実であったにも関わらず日記はウソになった。
これと同じように、出版社である星海社が「この物語はフィクションです」と書き足すことによって99.9%本当のことであった本書はフィクションになったのです。
ちなみに電子書籍版ではない紙書籍でも同じ説明ができます。「裏表紙の裏側」である奥付の左上には大きく「星海社FICTIONS」と書いてあります(「裏表紙の裏側」だと厳密には表紙の厚紙の裏側になりそうですが、さすがにここには印刷できないようなので、そこから一枚紙をめくりました)。
少しメタな読みをしてみます。本書が星海社FICTIONSレーベルで発売されることになった際に渡辺さんはこう考えたのではないでしょうか。「作り話や、いわゆる盛った部分もあるけれど本当の話として楽しんでほしい」。
しかし、そもそもがFICTIONSレーベルなので、書かれているのは創作物であるという前提を読者は持っている。電子書籍版にも「この物語はフィクションです」と書かれるのが通例となっている。
ではこの前提を乗り越えて本当の話として読んでもらうにはどのような仕掛けをとればいいのか。そんな考えのもとに書かれたのが「忘れられた日記」だったのではないでしょうか。
本書は実在する中野ブロードウェイについて書いたものなのでもしかしたら関係者が記述内容に文句を言ってくるかもしれません。そのときには「フィクションって書いてありますよね」と回答できます。
逆に読者が「先生、これはどこまで本当の話なんですか」と聞いてきたら「(出版社がどう取り扱っているかはおいといて)99.9%本当の話を書きました」と回答できます。
そして、そのどちらも両立できるしかけとして最後の一行が機能していると考えると、きれいな解釈として成り立っていると言えるのではないでしょうか。