「問い・解い・トイ」ふりかえり2ターン目(2)さらに掘り下げる
RayArc(レイアーク)、ならびにRayArc Astrolabe(アストロラーベ)の皆さま、おつかれさまです。新規事業ユニットです!
ボードゲーム🃏制作プロジェクトからお伝えします。
ボドゲづくりのふりかえり、2週目!
少し前に、アナログゲームフェスタのふりかえりを行いました。
あらためて、ふりかえりとは!
単発で「気づいてヨカッタヨカッタ」で終わらせては、ポテンシャルの1割も享受できないもの! つまり、続けてこそです!
そこで、前回から程よく間も空いて2ターン目の「問い・解い・トイ」 を行いました!
今回のふりかえりの、前回まで(ややこしい表現)はこちらです。
ときほぐフェーズを続ける!
ここまで、といかけフェース→ときほぐフェーズと、それぞれカードをドローして進めてきました。
「イワカンの問い」
「問い・解い・トイ」を研修ゲーム的なものと伝える場面があったことへのイワカン
第三者性に「過度に」引っ張られ本質を見失なっていないだろうか?
「ソモソモの解い」
ゲームにおいては、あそび手こそが主人公である
ふりかえりに自分を合わせるのではなく、自分でこうふりかえりたい、こうあそびたいと思うままにあそんでほしい
「ドウシテの解い」
「問い・解い・トイ」は、お子さんにも、ご家族にもあそんでほしいゲームだった、と気づかされた
「問い・解い・トイ」は、現在「研修でござい」というゲームには結果的に仕上がっていない(と、考えている)が…それは…
今回は、ここでもう少し深く考えてみたくなりました。ソロプレイなら、ときにはあえて流れに任せて深く潜ってみるのも悪くはありません。
さらに掘り下げる!(1)
2つ目は「ドウシテの解い」でした。流れ的に「イワカンの問い」と
「ソモソモの解い」に対しての、ドウシテ…を掘り下げます。
私は、この得体のしれない「問い・解い・トイ」というゲームを(無意識に? むしろ意識的に?)研修ゲーム的なものとラベルづけしてきました。
そのことに、今このタイミングでイワカンを持ったのはドウシテでしょう? そして、ゲームではなくヒトが主役と再確認したのはドウシテ…?
「問い・解い・トイ」研修ゲーム的なものです、と名乗ること
つまり、研修ゲーム的なものを求める人を「問い・解い・トイ」のターゲットと定義すること
これらは、(ちょっと浅い気もしますが)マーケティング的にはいかにも定石っぽく、聞こえが良いかもしれません。でも…。
なんというか「私がボドゲを通じてほんとうに伝えたい、ものすごくコアな部分」を、見えないピックで削っているような感覚もあります。
じゃあ、削られているほんとうに伝えたいコア、根幹とはなんなのか?
さらに掘り下げる!(2)
そもそもですが、私は、
「まなび」と「あそび」
「シゴト」と「あそび」
を、必要以上に分け隔てること自体、あまりしっくりきません。
あそぶなんて(真面目じゃないなんて、ふざけるなんて)、ケシカラン
とか、
あそんでないで、勉強しなさい
と、あそびを「下げる」ようなわかりやすいイワカンはもちろんのこと。
勉強はイヤだけど、我慢して真面目にやるもの
勉強好きな子なんかいない、「みんな」はやくあそびたい!
コドモらしく、勉強ばっかじゃなくて、あそびなさい
みたいな(それぞれは、状況の中で相手のことを思っての発言であるとか、そういうことは一旦おいておいて…)、あそびとそれ以外を分断する、隔てる刷り込みに、とてもイワカンがあるのです。
もしも「問い・解い・トイ」が、
と受け止められやすいゲームだとしても。
私はそこに線を引くこと自体がイワカンなのです。その線を越えられる可能性を秘めてるから、ボドゲは興味深いとさえ思っているのですから。
なのに、それなのに。「問い・解い・トイ」研修ゲーム的なものです、と伝えていていいのか? いいのか? 私!
自分たちのゲームを伝えるとき、もちろんそれがエゴに寄りすぎたコトバでは伝わりません。しかしだからといって、
すべてが借り物で、一見「正しい」
こう伝えればダレカに怒られないだろう
的な発想だけで伝えることも、やはり違うと思います。
あえて堂々と「私は…」という「一人称性」を大切に伝える部分も大事…。
とくに 「問い・解い・トイ」 の伝え方に悩む中で後者を見失いがち、が課題ですね。
つづく
ナゾの沼に落ちた前半戦でした。あらためて言語化したら、脳のおかしなスイッチを押してしまい、思考の波がえぐいことに…。
「イワカンの問い」まとめ
第三者性に「過度に」引っ張られ本質を見失う時がある直感
「ソモソモの解い」
遊び手こそが主人公
「ドウシテの解い」
「研修ゲーム」じゃない、越境したい
(新規事業ユニット・ワクワク魔人S)