【映画評】『クラブゼロ』(2023) 「正義」に過剰に適応する若者たち
『クラブゼロ』(ジェシカ・ハウスナー、2023)
評価:☆☆★★★
環境問題についての意識が高く、健康志向で、資本主義に疑問を持っていて、スピリチュアルで、情緒不安定で、過激な思想にすぐ飛びついてしまう――そんな、絵に描いたような「今どきの若者」たちが、栄養学の教師の提唱する怪しげな健康法にのめり込み、カルト集団化していく様子を戯画的に描いた映画。
摂食障害の未成年者へのグルーミングに着想を得た作品だろう。そして同時に、扇動的なエコロジー運動を描いた作品でもある。それらの現象を結びつけ、学校教師が授業を通じて生徒を洗脳する物語として描いたところに監督のシニカルな視点があるのだが――
残念ながら、かなり不満の残る作品だ。
The Film Verdictによれば「全盛期のキューブリックを彷彿とさせる冷静な眼差し」とのことだが、キューブリックもなめられたものである。劇中にはキューブリックのいくつかの作品へのオマージュがあるし、テーマ自体、『時計じかけのオレンジ』的ではあるが、……それだけだ!
『時計じかけのオレンジ』が、「悪い大人」に対する若者の反抗、などという甘っちょろい問題設定に追従するような作品でないことは言うまでもないが、この『クラブゼロ』も、「大人」と「若者」という問題設定そのものの限界を露呈させるくらい、シニカルさを徹底させるべきだっただろう。
物語の舞台は、ある名門高校。
新たに赴任してきた栄養学の教師ノヴァクは、「意識的な食事」という健康法を提唱する。瞑想しながら、一口ずつ噛み締めて食事し、食べる量を減らしていくという食事法である。これをやれば、幸福度が上がり、体力が向上し、食品ロスも減り、環境保護にもなり、つまり良いことづくめである――というノヴァクの指導を疑うことなく受け入れる生徒たちは、この食事法にのめり込み、みるみる食べなくなっていく(が、さほど痩せない。それどころかノヴァクの言うとおり、生活の調子が良くなっていく)。
次第にノヴァクの指導はエスカレートし、「少食」から進んで、「無食」を推奨するようになる。流石についていけない、と脱落する生徒も多少出るものの、多くは残り、指導通り、全く食事をとらないように。生徒の親たちも異変に気づき、別件でノヴァクを解雇させるものの、時すでに遅く、生徒たちはノヴァクの言いなりに、親が用意した料理を口にせず、部屋にこもって反抗したりする。
やがて、ノヴァクは生徒たちを密かに集め、打ち明ける。この世界には、全く食事をしない人々のための秘密のクラブがある。自分はそのクラブの一員だ。あなた達も、この素晴らしいクラブに入ることができるだろう――。
そして、厳かな儀式が執り行われ、ノヴァクは、生徒たちを秘密クラブ「クラブ・ゼロ」へと招き入れる。抱き合って喜ぶ生徒たち。ノヴァクは生徒たちを引き連れ、実在するかどうかも分からない「クラブ・ゼロ」の本部に向けて、忽然と姿を消すのだった。
取り残された親と教師たちは、ただオロオロして頭を抱える。なぜ、子どもたちは消えたんだ。一体彼らは何を考えていたんだ。彼らは死んだのか。何が不満だったんだ。
ノヴァクの授業を受けながらも、「クラブ・ゼロ」入会の日に家族でスイスにスキーに行っていたせいで一人だけ置き去りにされた女子生徒は、皆と一緒に行けなかったことを悲しみ、大人たちに軽蔑の目を向ける。環境破壊、貧富の格差、食品産業の腐敗がはびこるこの世界から、仲間たちは脱出したのである。「みんなは死んでいないわ。死ぬのは、残された私達の方よ」。
――まあ、要するに、監督は、Z世代版の「ハーメルンの笛吹き男」をやろうとしたわけだ。この伝承では、最後に取り残されて「僕も山の中に行きたかったよう」と悲しむことになるのは、足が悪くてみんなに追いつくことができなかった少年だ(詩人ロバート・ブラウニングによる脚色)。映画で取り残される女子生徒が、スイスの山にスキーに行っていたのは皮肉な設定ということになる。
「笛吹き女」たるノヴァクの描き方も皮肉っぽい。「笛吹き」は、本来、異郷から出現するトリックスター的なアウトサイダーでなければならないはずなのに、ノヴァクの場合、ある男子生徒に母性愛とも恋愛ともつかない感情を抱いて執着したり、そのせいで解雇されてショックを受けたり、と、ちっともアウトサイダー然としていない、人間的な弱みの多い人物だ。どこにも異郷=「外部」のないグローバリズムの時代においては、「笛吹き」は、異郷ではなく、ごく普通に生きる人々の中から出現する――というより、普通の人が、「笛吹き」としての役目を果たさなければならない――ということだろうか。ノヴァクの弱みを描くことで、監督は、ノヴァクの行動に対するシニカルな距離を担保しようとするかのようである。
生徒たちの描き方も、一応、シニカルだ。生徒たちは資本主義を激しく批判するが、自身は、経済的に恵まれたエリート層である。生徒たちが大人を批判するために使う「正義」の言葉は、全て、公教育の場で大人から教わったものである。一見、ハウスナー監督の眼差しは、「キューブリック的」あるいは「ハネケ的」に冷静だ(ハウスナーはミヒャエル・ハネケに師事している)。
このような「冷静さ」がなければ、映画は、あまりにもひねりのない、カルト宗教の怖さを描いただけの作品ということになっただろう。ともかくも、ハウスナーは、作中の人物たちに対して距離を取ることで、「今どきの若者」たちの熱狂という出来事に、多面的な意味を与えようとする。
しかし、そもそも、ハウスナーがこの映画で前提としている「若者」とは、誰のことだろう。
「今どきの若者」が上の世代から不気味に思われるのはそもそもいつの時代でも同じことだろうが、それはともかくとして、デジタルネイティヴ世代をその上と分かつ大きい特徴があるとすれば、それは、関心領域の圧倒的多様化ということだろう。誰もがインターネットに手軽にアクセスし、自分だけのお気に入りコンテンツを楽しむ時代、「今どきの若者」は、特定の問題意識を抱いている、というようなことでひとくくりにし難い点にこそ、むしろ特徴があるはずである。たしかに、環境問題や格差社会について声を上げる若者たちは、目立つ存在ではあるだろう。しかし、彼らを「若者の代表」のようにみなすことは、若者たちの多様な側面から、分かりやすい部分だけを切り取り、不当に拡大することでしかないだろう。それはすなわち、ある世代に対して、そうあってほしい「若者」像を押し付けたい欲望の現れだ。
そうあってほしい「若者」像とは、この場合、政治的変革主体としての若者、ということである。人々の関心領域が多様化することもそうだが、あらゆる出来事が複雑に絡み合い、社会の変化を、誰それの主体的行動の結果として簡単に理解することが難しいグローバリズムの時代において、「若者たちが声を上げ、社会を変える」という物語は、あらかじめ必然化されていた方向性を正当化するため、不断に求められるフィクションに他ならない。
つまり、――左派の「ポピュリズム的」運動を例に、あえて単純化すれば――、グレタ・トゥーンベリがいなくても気候変動対策は俎上に載せられていたし、#MeToo運動がなくても、いずれセクハラや性犯罪は厳罰化されるようになっていた、ということだ。そのように社会を変えることが「正義」だから、ではない。長い目で見れば、自然を保護し、女性が働きやすい環境を整えなければ、グローバル資本主義を潤滑に稼働させることができないからである。だが、それにも関わらず、そうした方向性は、「若い活動家が声を上げた」ことや「若い女性たちが自分の体験を語った」ことで決定されたかのように喧伝されがちである。グローバリズムが必然化する方向性を、若者が主体的に選び取ったものであるかのように錯覚させることこそ、「若者たちが声を上げる」そうした運動の役割に他ならない。そこでは資本主義への激しい批判の言葉が飛び交うが、実のところ、それはいわば、グローバル経済の構造的な共犯者――というより下請け運動だ。
「若者が声を上げた」とメディアで取り沙汰されるのは、あらかじめ許された方向性のもとで「声を上げた」例だけだ。許された方向性から少しでも逸脱する運動は、単に黙殺されるか、監視・摘発の対象とみなされ、抹殺される。そして、右派ポピュリズムは、そのような被害者意識の受け皿として、それはそれでグローバリズムが必然化する現象だ。
『クラブゼロ』は、大人たちが招き入れた怪物的な「正義」(ノヴァク先生として人格化される)に生徒たちが「過剰適応」する経緯を、シニカルに描く映画である。つまり、リベラルな公教育が招き入れた「68年」的イシューが、学校教育という枠組みと齟齬をきたしていく現象を描いた作品だ。
エコロジー、フェミニズム、多様性、などなどのイシューは、かつて、「1968年革命」において、世界中で勃発したアナキズム的諸運動の場で掲げられたものである。「68年」に反資本主義的な革命運動において掲げられたイシューは、現在ではグローバル資本主義によって受け入れられ、福祉国家を「上から」解体するための道具として積極的に用いられている。福祉国家型の学校制度の枠組みが時代にそぐうものへと「改革」される過程で、教育現場では、かつての「学生運動」まがいの現象が、擬似的・パロディ的に反復されさえするだろう。『クラブゼロ』が戯画的に描くのも、そのような、グローバル資本主義が先導する「若者の反抗」だ。
それは、既成秩序への反抗などではなく、「大人」の言うことに過剰に適応した優等生たちが、学校で教わった「正義」の徹底化を訴える運動だ。若者たちは「純粋」なので正義を徹底しようとし、大人たちは「不純」なので急進的な若者にオロオロする――という対立構図は、「若者」たちの「純粋さ」、そして政治的主体性が、あらかじめ許容された「正義」と矛盾しないものだということにしておきたい「大人」の側でお膳立てされたものに他ならない。
『クラブゼロ』は、「若者」たちの洗脳されやすさや、地に足のついていない狂信っぷりを皮肉っぽく描きはするが、それはつまり、「純粋な若者」というイメージをネガティヴな側面から強調するということである。そして、この作品の視点は、オロオロする親たちを戯画的に描くことで、最終的に、「若者」が「大人」を告発する視点と通じ合ってしまう。つまり、「純粋な若者」と「不純な大人」という対立構図を、作品は、最終的には無批判に受け入れてしまうのだ。
しかし、この作品がシニカルな目を向けるべきだったのは、むしろ、そのような対立構図が「現代的」な問題を代表しているかのように人々に錯覚させてしまう、グローバリズムの狡猾さに対してだっただろう。「純粋な若者」なるものは都合良く形作られた不自然なフィクションに過ぎない、という事実をこそ、作品はシニカルに描かなければならなかったはずなのだ。
問題設定そのものを疑う視点が、この映画には決定的に欠けている。
(奨学金目当てに授業に参加した男子生徒だけは、他の経済的エリートの生徒たちと違い、なかなかノヴァクの思想に馴染めない、という描写はある。「68年」的イシューが、今やエリートのおもちゃでしかないことを示唆する描写とはいえる。しかし、この男子生徒もすぐにノヴァクに洗脳されてしまい、その問題が掘り下げられることはない。まあ、そうした方向でその問題が掘り下げられていたとすれば、それはそれで安直すぎる作劇だっただろうが)。
シニシズムは、悪いことだ。しかし、何よりの害悪は、見かけの上でだけシニカルなポーズを取った挙句、最終的にはありきたりな「正義」と薄甘く密通してしまう、不徹底なシニシズムだろう。
[2025年2月2日執筆。4日一部修正]
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