親子丼を落とした

親子丼を落とした。
どんぶりまるごと落として、ほとんどすべてを床にぶちまけた。

今日は起きてから妙に調子が悪かった。全身に力が入らない感じがして、思考も靄がかって鈍い。
私は現在減量中である。ある程度の食事制限を続けていてカロリーや糖質の摂取を控えている。
減量と言いつつ、BMIとしてはすでに低体重の領域に突入していて、減量するうえでの余剰が多いわけではない。そのためか、減量食を続けていると時折こうして倦怠感に苛まれる日がある。

このような日は思い切って栄養の多い料理を1食だけ摂ることにしている。
何を食べようかと冷蔵庫を開けてみると、ほぐしサラダチキンが目に飛び込んだ。出し抜けに、私の口腔で、サラダチキンの柔らかいながらにしっかりとした食感と、酒と醤油とみりんで優しく味付けされた卵の甘みとが広がった。
親子丼である。これは親子丼だ。
白米であればややカロリーや糖質が超過するかもしれない。代わりにオートミールを使ってみよう。
カロリーは全部で約350kcal。みりんなどを使うためやや糖質は高めかもしれないが、それでも25g程度に収まる。1食としては問題ない範囲だ。また、オートミールは全粒穀物から作られる食品であることから、血糖値の急激な上昇が抑えられ、糖の過剰な吸収を抑えることも期待できる。
私は早速料理に取り掛かった。
玉ねぎを4分の1にカットしてくし切りにする。本来であればだし汁と茹でて味を染み込ませるところであるが、火を使うと洗い物が増え面倒だから、ラップに包んで電子レンジで予め加熱した。玉ねぎはレンジでの調理が圧倒的に時間の節約になる。
加熱している間、どんぶりに醤油とみりん、酒を入れ、さらに和風顆粒だしを加えてよく混ぜた。そうこうしているうちに電子レンジの加熱が終了したため、しんなりとした玉ねぎを取り出した。玉ねぎとサラダチキン、オートミールをこのどんぶりに加えた。
卵を入れるまえに、このだし汁を具材に染み込ませるべく、どんぶり電子レンジに入れた。この間、ボールに卵を割り入れ、よく溶いた。白身をそのまま食べるのがあまり好きではないので、黄身と白身の境がなくなる程度まで撹拌した。
電子レンジからどんぶりを取り出して、温まっただし汁から立ち昇る香りを感じつつ、溶き卵でそれらを閉じ、再びレンジに入れた。電子レンジでの卵の焼き加減がわからなかったので短めに設定して様子を見ながら加熱することにした。

電子レンジの加熱終了のメロディが流れ、どんぶりを取り出してみると、縁側が多少固まっている程度で卵はほとんど生の状態であった。ラップで包んで蒸し焼きにしたほうが効率よく、かつ、ふっくら焼き上がるかもしれない。
ぼんやりとそんなことが脳裏によぎった次の瞬間、私の手からどんぶりが滑り落ちるのを感じた。

人は窮地に陥ったとき、感覚が鋭敏になって、周囲の景色がスローモーションのよう感じられるようになることがある。
私はその瞬間、それまでの気怠さはどこかに吹き飛び、どんぶりが指先を滑る感覚と、重力を一身に受けて徐々に加速しながら落ちてゆく親子丼の様子が鮮明に感じられた。
指から離れ傾きながら落下するどんぶりは、瞬く間に接地すると、その衝撃を余すことなくそのまま内部の具材に伝えた。親子丼は傾いたどんぶりから一直線に射出され、床にその肢体を擲った。

瞬間的に鋭くなった感覚から戻った私は、床にばらまかれた親子丼に視線を向けたまま、ぼんやりとそこに立っていた。
悲しみも怒りも通り越したように、ただ、今日の自分は鈍いだとか、握力も弱っているだとか、そんなことが重たげな脳内に過ぎっては消えた。

私は転がっているどんぶりを拾い上げて、わずかに中に残った親子丼をスプーンで掬って食べた。あのとき想像した味だった。柔らかなサラダチキンの触感も、よく味の染みたオートミールも、ダイエットのための代替品ではなく、全体との調和がよくとれていた。完成度の高い一つの料理と言って良い。
私の身体は、どこか遠くから、空腹を訴えているようだった。
私は空のどんぶりをシンクに置いて、フローリング用のウェットシートを探しに向かった。


私はかつての食材を片付けるべく床にしゃがみこんだ。
どんぶりから溢れ出た具材達は冷たいフローリングに静かに横たわっている。
ウエットシート越しに触れた親子丼は、まだ温かかった。

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