ウォッチメイラータケオ
僕はウォッチメイラータケオ。日頃からウォッチメイルを着て生活している。
ウォッチメイラーとは何かと人々は問う。全くの愚問だ。僕がウォッチメイラーであって、またウォッチメイラーが僕なのだ。僕とウォッチメイラーとの間にある結びつきを解いて、どちらか片方だけを取り出して説明することに意味はないし、そもそも不可能だ。ウォッチメイラーとは何か、その問いの答えは僕という存在そのものを知ることに他ならない。それは僕を見、僕を聞き、僕に触れ、僕を嗅ぎ、そして僕を味わうことなのだ。
そういうわけで僕はその問に対して、君たちが納得するような端的な回答は持ち合わせていない。けれども、だからといって僕やウォッチメイラーに興味を持ってくれている君たちを突き放すのは少々心苦しい。ここでは少しだけ僕、およびウォッチメイラーについての考えが深まるような足がかりを提示しておこう。
趣向を変えて、こう考えてみよう。ウォッチメイルとは何だろうか。
これもまた難渋な問いではある。しかしこれはもう少し具体性のある説明が可能だ。
その質問に対しては、即物的な回答としては腕時計を繋ぎ合わせて成形された衣服であると答えることはできる。しかしそれは風防をなぞるような表面的回答でしかない。時計がそのケースの中に極めて精巧なムーブメントを隠すように、その問いの本質はもっと深くにある。
それは僕の存在意義についての問いでもあるから、形而上学的な意味合いを帯びざるを得ない。これについて僕はまたインスタントな回答を持っていない。僕自身が今でもなお問い続けていることであるからだ。けれども、あえてこの幽遠な思索をコンパクトな言葉にまとめるのであれば、身体とは異なった意味での僕の精神の空間的延長である、と表現するのが妥当だろう。
ただ始まりと終わりだけが刻印された僕という存在、すなわち混沌のなかで、生から死へと向かう不断の変化の瞬間を刻々と切り取り、それぞれに時間として意味をもたせるもの、それが精神なのだ。
ある日、僕はこの精神を形にしたいと考えた。というよりもむしろそれが形を持つことは当然のことで、そうあるべきだということに思い至った。この出来事は思い出したと言うのかもしれないし、あるいは天啓が降りたとも表すのかもしれない。けれども僕にとってはそれらの違いは些細な問題に過ぎず、重要なのは僕の精神が身体とは異なった手法を用いて空間的に表現されなければならないということだった。
その日から僕は腕時計の蒐集を始めた。腕につけようと思ったのではない。腕時計を着ることで、この時を刻む者としての精神を表現しようと考えたのだ。
本質的な意味で人は誰しも生まれながらにしてウォッチメイラーではあるが、それをある種の表象として見るならば、僕はこのときからウォッチメイラーになったのであろう。
窓から差し込む陽光が部屋を照らしている。僕は寝起きのぼんやりとした頭で、しかし素早くカーテンの影の傾きから現在時刻を8時前後だと推定した。ウォッチメイラーたるもの、時刻はどのような環境下でも把握できなくてはならない。これは習慣であり、訓練でもある。
ウォッチメイラーの朝は自らの肉体をほぐすことから始まる。有り体に言えばストレッチだ。睡眠時の臥位によって凝り固まった筋肉を一つ一つ丁寧に伸ばし、血液を循環させる。これは身体との対話だ。僕と身体、ただそれだけが存在する空間で僕らは相互にコミュニケーションを取り合う。
身体とはつまり心臓を動力源とするトゥールビヨンだ。当然ながらその複雑機構はそれ自体がある種の装飾でもあるから、シースルーバックこそがふさわしい。換言すれば全裸だ。僕は純粋なウォッチメイラーだからウォッチメイル以外の衣類は着用しない。ベッドの中では常に裸だ。ウォッチメイラーはそうあるべきだと僕は考えている。
一通りストレッチを終えると、今日のウォッチメイルの作成に取り掛かる。
作成と言っても毎朝ゼロから作り上げるわけではない。ウォッチメイルのフルスクラッチにはあまりに時間がかかりすぎる。到底毎朝のルーチンとしてこなせる仕事ではないのだ。こればかりは仕方がない。皆の期待を裏切って申し訳ないとは思うけれど。
ただし誤解しないでほしいのだが、これは妥協ではない。毎日身体は微妙に変化するといっても、一晩にして脚が20センチ長くなったり腕が4本になったりするわけではない。型としてはほとんど一緒だ。そのため、僕は毎日の微妙な身体のニュアンスと気分を元にウォッチメイルに微調整を施す。例えば、今日は首の筋肉に若干の張りがあるから首周りはシンプルかつカジュアルな3針スポーツウォッチがいい、とか、あるいは今日は自宅で静かに思索に耽りたいから両腕をダイバーズウォッチで固めてみよう、とか。ウォッチメイラーはウォッチメイル技師であることも含意しているから、この調整にこそウォッチメイラーとしての力量が現れると言っても過言ではない。これはウォッチメイラーの実存をかけた闘争だ。ウォッチメイルには型はあってもレディメイドであってはならない。
一通りの調整を終え、僕はウォッチメイルを装着した。背中側のバックルを一つひとつ丁寧に留めていく。両肩にかかるずっしりとした重さが心地よい。それは僕の魂がヨルダン川を渡り終え安息の地に立ったような感覚だ。僕はウォッチメイラーとしてあるべき姿へと僕自身が収斂するのを感じた。
ひとしきり動作に違和感がないことを確認すると、僕はそのまま玄関へ向かい、G-SHOCKを敷き詰めたウォッチブーツを履いて外へ出た。
休日という事もあって中野駅は多くの人々が行き来していた。
街の人々はグランドセイコーのドルフィン針の煌めきに匹敵するほどの輝きを湛えた視線を僕に送った。厳密には彼らの視線の先には艷やかに照り光る僕のウォッチメイルがあった。
羨望と畏敬の視線を一身にうける僕の歩調は乱れることはない。僕は実存として時を刻む者であるからだ。ウォッチブーツはオン・タイムであることの空間的表現でもある。
僕はそのまま秒針がインデックスを順繰りになぞるように粛々と中野サンモールを進んだ。
サンモールを抜け、ブロードウェイに入ろうとすると、何者かに肩を――具体的には右肩のA.ランゲ&ゾーネ ランゲ1を装着しているあたり――を叩かれるのを感じた。
僕は秒針のように毎秒6°ずつ時計回りに振り向きながら言った。
「なんだい?僕はこれから時計店巡りをしなくちゃいけないんだ。ついでにまんだらけにも寄る。当然DEEP館にもね。そして見てわかるだろうが、僕はとてもパンクチュアルでね。帰る時間も決まっているんだ。あと56分23秒後に僕はブロードウェイを出なくちゃならない。僕がウォッチメイラーである以上、時間は不可侵の法典なんだ。深夜にデイトを調整してはいけないようにね」
おおよそ4時の方向になったとき、視界の端に捉えたその相手の姿を見て、僕は些か面食らったことを認めなくてはなるまい。
その男は全裸だった。紛うことなき全裸であり、彼の股ぐらの単振り子は十分に小さな角振幅θにおいて単振動している。
僕は唖然としながらπ/30 [rad/s]で回転した。
「……君は……?」
彼は静かに僕を見つめていた。その眼差しは穏やかではあるものの、しかし確かな意思を伴って僕を貫いた。
「……おっと失敬、君のその……ファッションに少々動揺してしまってね。僕もウォッチメイラーとしてまだまだ未熟なようだ。いい経験をさせてもらったよ。それでだね、時間がないと言っても、勘違いしてもらいたくはないのだが、僕は君に敬意を払っていないわけではない。君がたとえどんな格好をしていようともね。時間というのは一つの秩序で、当然僕もその側にいる。……君とはもしかしたら逆側なのかもしれないけれどね。……そうだな、5分。5分間なら時間をあげてもいい。きっかり300秒だ。それ以上はいけない。1秒たりともね。君にとっては些か神経質すぎるかもしれないけれど、それが僕の存在理由だからね」
30秒かけてその男と対面した僕は、左上腕に巻いたゼニス エル・プリメロのプッシュボタンを押してクロノグラフによる時間の計測を開始した。
「それで君の目的はなんだい?僕の両胸のヴァシュロン・コンスタンタンの向こう側の桃色竜頭かい?それとも、股間のムーンウォッチを剥ぎ取ってダークサイド・オブ・ザ・ムーンをウォッチしようとでも?」
僕は一向に口を開こうとしないその男の眼力に負けじと睨み返しながら言った。
「お前の時は空間の桎梏に囚われているようだな」
彼は低く穏やかに語りかけた。僕の言葉などまるで聞こえていないかのように悠揚な口調のその言葉はしかし強かに僕の耳朶を打った。
熱の籠もったウォッチメイルの中で、冷たい汗の雫が表皮を伝う。
「……へぇ、なるほど。どうやら君にも一家言あるようだ。しかし残念だけど、僕は時計の針がホモ・エレクトゥスの時代から動いていない人類の言葉を素直に受け取る気にはなれないな」
「時間は本来、質的なものだ。空間的な計測はある種の比喩でしかない。お前のそれは本来的な在り方を奪われ、本来的な在り方を失った時間なのだ。いわば屍で作ったマリオネットのようなものだ」
彼は僕の言葉を無視してそう続けた。
僕は思っても見なかった僕の在り方に対する反駁に驚かざるを得なかった。
「……いいや違う。時間は絶対的な審級だよ。我々遍く人類、自然、いや、宇宙と言っていい、それらを平等に俯瞰する神なんだ。それが時間であり、調和なんだ。君の言っている時間は主観的なもの、感覚的なものに過ぎないよ。完全に違うものだ」
「神……神か。いい表現だ。神は観想によって得られるものだからな。お前がやっていることは偶像の崇拝であって、偶像それ自体は本質じゃない」
「本質じゃない……?」
僕は絶句した。それはウォッチメイラーとしての僕のすべての否定だった。
「時間は超越的なものだ。我々の持つあらゆる観念を削ぎ落とした先の直感にはじめて現れる。それは絶え間ない変化の総体だ。間断なき過去の現前で、未来の先取りでもある」
「……」
「お前は恐れているのさ」
「僕が……恐れている……」
僕はふとウォッチメイルの重み感じた。ずっしりと肩にのしかかるそれに、これまで感じることのなかった息苦しさを覚えた。
「そうだ。言語、記号、概念。お前がこれまで金科玉条の如く守ってきたそれらを捨て去ることを恐れているのだ。執着しているんだ。お前は本当の意味で時間に向き合っていないんだよ。そのジャラジャラとした鈍重な鎧で身を固めて、それで何かを表現し、悟ったかのような錯覚に満足している臆病者。それが今のお前だ」
「……」
僕は恐れていたのか。この男が言うように。
僕はこのウォッチメイルこそが僕の持つ時間性を体現すると信じていた。それは誤りだったというのか。
クロックツー ウォッチのように並び立てた言葉と理屈が崩落していく。
「遍く人々は生の飛躍を本源的に内包している。それは生命における創造的変化の持続だ。純粋な持続だよ。お前がそれと向き合いたいというのなら、その窮屈な空間的、測量的な時間をお開放すべきなんだ」
生の飛躍。僕はその言葉に心臓の高鳴りを感じた。
次の瞬間、僕が着ていたウォッチメイルは1つ、また1つと外れ始めた。左胸のウブロ ビッグバンから生まれた亀裂は、ほつれた糸を引くように、続々と全身へと広がっていった。腕時計は音を立てて地面に折り重なる。
「そうだ。お前も身体的にはわかってはいたはずなのだ。何も恐れることはない。別れの言葉はもう必要ないな。俺はお前にとっての永遠だ。繰り返し現前する、連続的な過去なのだから」
僕は頷いた。彼はくるりと振り返ると、そのままサンモール方面へと消えていった。
身を固めていた腕時計たちはついにすべて外れた。最早僕という存在を覆い隠すものは何一つ無く、頭髪からつま先まで、肉体と呼べるものすべてが外界に晒されていた。ただ素肌を撫ぜる風の心地よさに揺蕩っている。
僕は緩やかに回れ右をし、積み重なった数々の腕時計を踏み分けてブロードウェイに入っていった
もはや僕はウォッチメイルを着ていない。けれどもウォッチメイラーを辞めたわけではない。時間は常に僕の精神にある。僕は時を内包したウォッチメイラーなのだ。
彼の言うようにもう何者をも恐れる必要はなかった。
「時計店巡りは取り止めかな」
僕は一人呟くと、まんだらけDEEP館へ向かった。
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