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天使の羽


 『あそこに行けば、天使が迎えに来てくれる』
という、島に昔から伝わる言い伝えがある。
「一緒に行こうよ。」
君はそう言って微笑み、手を差し伸べてきた。
俺は黙ったまま、その手を握り返した。

ここに生まれた時点でいい人生は諦めた。
鬱蒼としたマングローブ。
蔦の這う苔むした地面。
年中暑く、雨がじとじとと降る。
そんなこの島にある仕事は、観光業と季節工ぐらい。
学もない金もない奴らばかり。
そんな貧乏人がまともに子育てなんか出来るわけもなく。
俺の家は、親父のDV、母親のアル中、両親ともにギャンブル依存症。
まるでクズの三重苦だ。
親父の怒鳴り声と母親の愚痴と借金取りの催促状で溢れかえる家。
そんな家で生まれた俺が真っ当な人生を送れるだろうか?
君も同じ。
シングルマザーの母親は夜の店で働き、男をとっかえひっかえ。
よく家庭環境が複雑だった人が成功したのを、美談のように語られる。
でも、あんなのひと握りだ。
大概のクズに逆転のチャンスなんかない。
どうせ貧乏ループに嵌り、親のような人生を歩む。
お金が無けりゃどこにも行けないし何にもなれない。
いっそのこと、今死んでしまったっていい。
そう絶望しきってしまうほどに、俺と君は世の中の汚いところばかり見てきた。

 俺らは手をつないだまま「オヤシロ様の森」に入った。この島の小鳥や蝶たちは、皆元気がいい。歌を歌い、踊っているかのようにひらりひらりと目の前を舞う。アダンも実を付けている。まだ青いが、やがて真っ赤に熟す。
マングローブの根に引っかからないように二人で進んでいくと、「天使の大樹」に着いた。目の前にそそり立つ大木。遥か上まで葉が茂っており、てっぺんは見えない。相手の顔もぼやけるような暗さなので「太古の闇」と言われているらしい。
静謐な雰囲気だった。二人で苔むした地面に寝転がった。
「このまま天使の迎えを待とうか。」
と君は微笑みながら言った。俺も黙ったまま頷き、目を閉じた。

―どうやら眠っていたみたいだ。目を開けると、太陽が真上に上っている時間帯なのか、ここにも僅かな光が差し込んでいた。
とその時、白い羽のようなものが上空からはらはらと旋回しながら落ちてきた。
俺らは言葉も出ず蔦の這う地面の上に寝転び、その光景をただただ見つめた。
それは、淡雪みたいにふわりと頬に触れて、滑り落ちていった。
『天使が俺たちを迎えに来てくれたんだ。』と俺は思った。
背中に苔のじっとり湿った感じが伝わってくる。
知らぬ間に涙が一筋頬を伝っていた。
君の方を見ると、魅入られたように目を見開いている。
ふと君が僕に目を向け、暫く見つめ合う。
「天使の羽みたいだな。」
と沈黙を破るように俺が言うと、君は涙を大きな目にいっぱい貯め、笑顔で頷いた。
『こんなに美しい物が見れる世界、捨てたもんじゃないね。』
声にならない言葉。でも確かに君はそう言った。
気付けばお互い泣きながら笑いあっていた。

 大人になって知った。あれはアルソミトラの種というらしい。

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