「気がついたら教師になっていました」
高校生の頃、学級新聞か何かに、教員へ質問をするコーナーが載っていた。質問のひとつに「教師を志したきっかけは?」というものがあり、教員がそれぞれに思うところを書いていた。
今でも憶えているが、ある数学教師がそこに「気がついたら教師になっていました」と書いていたのだ。
他の教員の書く、それらしい立派な初志からすれば、えらく志が低いなと思われるような話だと思う。まあ、半ばジョークだったのだろうけども。
彼自身は(2年の頃担任だった)大変穏やかな先生で、周囲の志の高い(はずの)教員と比しても、真面目、実直に職務をこなしていたと記憶している。生徒に対しても真摯に応対していて、注意する時なども、感情的に怒ったりせず、シリアスなトーンで諭すような人だった。いい先生だったと思う。
今になって思い返すと、彼は自分の仕事に自信があったのではないか、だからこそ「気がついたら教師になっていました」と率直に書けたのではないかと思う。
教師に限った話ではないが、こと仕事をするに当たって最も重要なことのひとつは、真面目に職務を果たすこと、それを続けることだろう。志が高いからと言って、職務を果たし、続けられるとは限らない。もちろん、全く関係がないとは思わないが。
志が高くなくとも、真面目に仕事をし、仕事を続けて、それが自信につながる。自分の為してきたきたことが自信につながり、人に誇示せずともモチベーションを保ち、仕事を継続できる。
こうした態度は健全なものではないだろうか。
彼もまた誰かから学んだことはもちろんだろう。だが、彼の自信は他の誰かに依って立つ、権威主義的なものではなかったように思う。
彼はおそらく、他の誰かが批判されても、自分の自信を失うことはないだろうし、教師という職への批判も、それが真っ当なものであれば平然と受け入れられるだろう。
彼からは、自分を奮い立たせるような意味での「情熱」というものは感じられなかった。
淡々と仕事をこなすさまは地に足着いたもので、彼の静かな熱意は、彼の仕事や周囲の人に対する真摯さ、実直さに顕れていたと思う。
当時は意識しなかったが、彼のそうした態度は私にも何かしら影響を与えていて、それで今でも憶えているのではないかと思っている。
私も彼に肖りたいと思うし、もし彼のようにできるなら、そうして他の誰かにも健全な態度が伝われば、それが彼への恩返しになるのではないだろうか。
もちろん世の中には、いわゆる「情熱」を持って活躍している人もいるし、それはすばらしいことだと思う。それを否定するつもりは全くない。
しかし、私は世に言う「情熱」という言葉が、少々インフレしているというか、便利に使われ過ぎなのではないかと思う。
何かを続けるにあたって、苦労や挫折、失敗はつきものだ。一度たりとも辞めようなどと考えず、順風満帆ばっかり、ということは稀だろう。周囲の環境、家庭や収入の問題なども時に水を差すし、時の運ということもままある。
つまり「色々とある」わけだけども、そんな「色々とある」上で、なお続けられているからこそ、人はそこに価値を認め、愛情や感謝や、それこそ情熱が生まれるのではなかろうか。この「色々とある」部分を端折って、ただ「情熱」の一言で片づけるのは、なんだかもったいない気がする。
私の先生も、単なる情熱とは曰く言い難いものを持っていたと思う。
もちろん、そんな色々は皆持ってるし、一々説明していられないから、「情熱」で済ます、ということもあるだろうが。
しかし、世に言う情熱は、「情熱を持ってことに当たらねばならない」「情熱を持てなければやるべきではない」という風潮を生み出しているように思う。
「気がついたら教師になっていました」という言葉は、別に志が高くなくとも、わかりやすい情熱を持っていなくとも、何でも始めていい。それを続けられるなら、それだけで大したものだ、真摯に実直にことに当たりなさい、という言葉に思える。
まあ、所詮解釈に過ぎないし、私が読み込み過ぎな気はする。しかし、こうした考え方は私自身を含め、けっこうな人にとって励みになるのではないかと思っている。
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