フォンテーヌさんの見解

フォンテーヌさんの見解

れいわ新選組の両議員は“障碍者としてではなく、議員として振る舞え”という論調は間違えていると思います。“障碍者”というのは、その人物を構成する要素のひとつですが、“議員”というのは単なる職業です。「障碍者である前に国会議員だろ」ではなく「障碍者でありながら国会議員になった」んです。
「障碍者である前に国会議員だろ」というのは「あなたがあなたでいる事よりもその仕事や立場の方が大事でしょう」と言っているようなもので、このような考え方はひどい暴力性を持った立場主義で、今の生き辛い世の中を作っているひとつの要因だと思います。
それから障碍者の事ばかりでなく他の事もするべきだというのも、少し違うと思います。“障碍者である”という事は今までの議員さん達が持っていなかった“目線と経験を持っている”いわば専門家ですよね。だからこそ、山本太郎さんはお二人を国会に送り込んだのだし、お二人もそれに応えられた。そもそもお二人は障碍がなかったら政治家になろうとは考えていないのではと思います。
障碍者に対する社会のあり方を変えるために議員になられたお二人に「障碍者以外の事をしろ」と言うのは、せっかく超一流の料理人を雇っておきながら「料理は良いからレジ打ちしろ」と言っているようなものではないでしょうか?障碍者の専門家でない議員さん達は他に何百人といらっしゃいますので、他の事はそちらにお任せする事もできます。お二人にはお二人にしかできない仕事があって、実際に中々動かなった国会を動かす力があります。そういう当事者の力こそが、れいわ新選組の核であり魅力だったのではないでしょうか?

もちろん、国政政党の議員として→お給料も頂いてお仕事されているのでもし、批判されるような事をされたのであればその時は甘んじて受けるべきだと思います。例えば【明らかな不正や間違いをした】にも関わらず“障碍者だから批判できない”という考えも、また差別であると思います。そして、最初に書いた立場主義的な考え方と→この差別的な感覚が結びついた時に、「木村議員はファシズムの台頭になりうる」と言った考え方が産まれるのでないでしょうか。
「【権力を持った国会議員=立場主義】が、【障碍を盾に批判できない風潮=差別思想】を利用している」という考え方は、そう考える人の中にある思想が生み出したものであり、木村議員は【木村英子】として生きているだけです。それを自分の中から生み出された思想によって、批判、攻撃すれば、それは明らかな人格否定であり、安冨先生が【めちゃくちゃ怒ってる】のも理解できます。あくまでも私の考えなので正解ではないかもしれませんが。


ちなみに、安冨先生が怒りを暴言で返されてる理由は論語にヒントがあります。

【公冶長第五25】

「子曰。巧言令色足恭。左丘明恥之。丘亦恥之。匿怨而友其人。左丘明恥之。丘亦恥之。」これを安冨訳では以下のように訳されています。

【私が恥とすること】
「言葉巧みで、顔つきを取り繕い、足取りまで恭しい」というのを、左丘明という人は恥とした。私もまた、これを恥とする。怨みを抱いているくせに、それを押し隠して友だち付き合いをすることを、左丘明は恥とした。私もまたこれを恥とする。

つまり人に媚びへつらって機嫌取りをしたり、怒っているのに気にしないふりをして人付き合いをするのは恥だ。という事で、安冨先生の普段のスタンスそのものですよね。支持者や党の顔色伺いながら、自分をごまかして発言する安冨先生なんて、見たことないです。


もうひとつは【憲問第十四36】
或曰、以徳報怨、何如、子曰、何以報徳、以直報怨、以徳報徳、これを安冨訳では、

【怨みに対しては正直さで報いる】
ある人が尋ねた。「怨みに対して恩徳で報いるというのはどうでしょうか?」孔子は答えた。「それは違うでしょうね。怨みに対しては率直な態度で報い、徳に対しては徳を持って報いるのがいいでしょう」

となっています。つまり、怒りに対しては自分の抱いた気持ちのまま包み隠さず率直に応えるべきだと言う事ですね。他の意訳では「率直に」が「誠実に」になっているものもありますから、安冨先生は怒りの気持ちに嘘つかず正直に返しているのですから、相手に対して誠実に対応しているという事になります。周りが苦言を呈してした「もっと冷静になって対応すべきでは?」はまさに「以徳報怨、何如」。安冨先生の正直な気持ちに対して「怒りに対して、恩徳で報いるべきだ=自分の気持ちをごまかして応えろ」と言っているようなものですから、それは我慢ならないと思いますよ。


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