「時給脳」を脱出したいわけ
時給のしごとから脱出したくてもがいている。
といっても、
「時給」でしか働いたことがないわたし。
それも30年も時給脳で生きてきた。
じぶんの身体が仕事の現場にあることが
前提の時給換算のしごと。
じぶんには、自慢できるスキルもなければ高卒で学歴もない。
とりあえず目先のしごとをずっとしてきた。
時給で、働いた時間で「今月はいくらかな?」
といった具合に計算するクセが時給脳
今もバッチリ「時給」で働いている。
しかし、去年娘が暮らす南仏に2か月の滞在を経験したとき、「時給脳から解放されたい病」を発症してしまった。
わたしの場合、定年(年齢)以降はかなりオワコン感が満載で、わたしが今のまま東京で暮らそうと思ったらお金に相当余裕がないと老後ライフは厳しそうだ。
スキルも学歴もない、おまけに年齢オーバーなじぶんがどうにかして仕事現場に行かなくてもできる仕事はないもんか。と考えだした。
南仏の人(厳密にいえばすごく小さい村)の人々の暮らし向きを体験したら、残り少ない人生 好きな人と好きな場所でごはんが食べたい!
わたしもこうして暮らしたい!
ただ暮らしそのものを楽しんでいる地元の人たちを見てそう思った。
動機は単純だけど、そう思ってしまった。
毎週決まった曜日に開催されるマルシェを楽しむ老夫婦、子供たち。人々が自然を大切にし、共存している。
そんな姿にも関心した。
お店の人と会話をしながら定番の食材を買う。ただそんな暮らしだけど、一種のお祭りのようでワクワクするほど楽しい。
1枚たった2ユーロ(約250円)のピザを食べて豊かな気持ちにもなれる。
わたしはこんな暮らしがしたい!なんとしてでも場所を選ばすできる仕事を手に入れたい!
チャンスは舞い降りる
わたしは時給でしごとをしてきたから、退職金もゼロ。
年金もおそらくほとんどない。
ということは、60歳まで働けば終わりが近づくとかない。
死ぬまでなんかしら仕事をしていないと生活できないということになってしまう。
それもいやだ。
だから、「引退したら好きなことするぞ!」という目標はないに等しい。
というか持てない。
だったら一刻も早く(フツーに考えたら手遅れ)だけど、何かできることを見つけたい!
気持ちばかりが空回りだけど、旅を終えて帰ってきて半年ぐらいあっちこっち模索した。
と、ある日「書生募集!」という記事が目に留まった。
わたしにとっては未知のもの。
「本当にやる気のある人だけ募集します。」というようなことが書いてあった。
この時点では詳しい内容もわからない。できるかできないかもわからない。
レベルが高すぎてギブアップしたら迷惑だし、やり遂げる自信があるようなないような。私になんてできるはずがない。
そもそも何するの?!
一方で挑戦してみたい、というきもち。
しかし、ここで手を挙げないと一生何も変わらない人生だ。
たった1,000円でもいいから自分の力で稼いでみたい!
私には降ってわいてきた一筋の希望だった。
ダメでもできなくても、何も失うものはない。
ただ、「ほらね」って言われて
恥ずかしいだけだよね?
そう思って「覚悟を決めた!」
ブルブルする指を押さえながらLINEを送信
正直、こんな年齢で「やりたいです!」といったらどんな反応が返ってくるだろうか心配した。
先生は娘よりも若く今どきの若者ながらもブログ界では有名人。
LINEで決意表明をしたあと、選んでいただき無事に書生に入れてもらえることに。
感謝しかない。
いま、実践を積みながらフィードバックをもらい修正したりしている。
チャットワークが届くたびに何が書いてあるかドキドキするし、返事がしばらくこないと、きっと先生もうわたしに愛想つかしたんだろうな。
などと、まるで彼氏に振り回されてるかのようで、毎日がスリリングでもある。
だけど、先生のほうが四苦八苦しているに違いない。
センスのかけらも飲み込み能力もすさまじく遅いことは自覚アリだが、ありがたいことに退去命令もされずクビの皮は繋がっている。
こうして、わたしは52歳にしてありがたいことに「時給脳」を脱出できるかもしれない環境に期間限定で弟子入りすることになった。
チャンスの神様は前髪がなかった。といったような話を聞いたことがあるが、まさしくそんな気分だった。
たとえ願いが叶わなくても少しでもじぶんを変えたい。
老眼がひどくて見えなくても、背中が痛くても、毎日パソコンに向かってちょっと先の未来へ向けて今を暮らしている。