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カメラと私
今回は療養を離れて趣味の話題とします。長文ですがお付き合いください。
第1章
以前は3大カメラ雑誌というものがあった。カメラ毎日 (1954-1985)、アサヒカメラ (1926-2020)、日本カメラ (1950-2021)だ。役目を終えたものが消えることはやむを得ないし、私自身もこれらの雑誌を手に取ることがなくなっていたが、いざなくなってしまうと寂しいものだ。半世紀近く前、高校生だった私は毎月20日の発売日になると書店でこの3大カメラ雑誌を長時間立ち読みした。当時は写真よりカメラとレンズに興味があったので「診断室」のようなレビュー記事を隅々まで食い入るように読んだ。そんなカメラ小僧が親に無理を言って買ってもらったカメラがオリンパスのOM2だ。小型軽量のボディにダイレクト測光(フィルム面の明るさをシャッターが開いた瞬間に測る)という革新的な機構が搭載されていることに痺れたのだ。しかし当時は大学受験準備の真っ最中で実際に写真を撮りに出かけることができなかった。晴れて大学に入ると今度は新しい世界が開けて写真やカメラへの興味は何処かに行ってしまった。カメラ熱が再発するのはそれから10年以上経った30歳ごろになる。
第2章
カメラ依存症の第1期(1990-2000頃):30歳から写真を再開したが、オリンパスから乗り換えたキャノンの写りが平面的に思えて不満だった。無論銀塩時代の話だ。そんな折に日沖宗弘著「写真術」(1995)と出会い、写真はレンズによって変わることを知った。解像感と言うより立体感や色乗りと表現される画質の違いである。この本に触発されて私は今で言うレンズ沼に嵌った。35ミリはキャノンから京セラコンタックスに鞍替えし、中判のローライフレックスも手に入れた。そしてレンズに「品格」というものがある事を知った。特にツァイスのディスタゴン35mm f1.4とローライフレックス用プラナー80mm f2.8の写りには畏敬の念すら抱き、私はツァイスの信奉者となった。またレンズグルメと平行して写真そのものへの興味も広がった。写真展に足繁く通うようになり写真集も次々に買い漁った。ケルテス、スデク、アジェ、カルチェブレッソン、ギブソン、ウェストン、サルガード、牛腸、須田、土門などの写真家を知ったのもこの頃だ。思えばこの頃が一番純粋に写真を楽しんでいたような気がする。
第3章
カメラ依存症の第2期 (2000-2010) :しばらくはコンタックスで充実した写真生活を送っていたが、「写真術」でライカが賞賛されているのを読むと気になるのが人情というもの。私は元来ライカよりツァイスのレンズが好きだった。なのにライカにハマったのはブランドという魔力のなせる技だ。人がブランド製品に血道を上げるのは、それを所有することで自分が偉くなったよう感じる、或いは周囲から一目置かれることに満足するからだ。気がつけばR型とM型のボディーと名玉と言われるレンズを一通り手に入れていた。これは依存症というべき状態で家計にも望ましくない影響が出ていた。幸いこの依存症は10年弱で軽快した。ライカの名玉が自分にとってそれ程の名玉でなかった事、ライカを所有する喜びがそれ程のものでなかった事、そして待ちに待ったライカのデジタル機がM型R型とも期待はずれであった事が決定打となった。私はライカのカメラとレンズを全て売却し、以後は国産各社のデジカメを取っ替え引っ替え使い回した。今はS社の10年前のカメラを一台だけ所有している。
実はこれには後日談がある。ライカを全て処分した数年後にM9とその後継のM、そしてミラーレスのSLを手に入れたのだ。しかし別れた恋人とよりを戻しても長続きはしなかった。ライカは高級嗜好品になってしまった。私の求めているものではない。残念だがそれもライカが生き残るためには致し方ない事なのだろう。
第4章
ライカが与えてくれたもの:私とライカの関係はハッピーエンドではなかったが、ライカが私の人生を豊かにした部分もある。それは人間関係だ。もう20年以上前のことになるが、私はフランスに住んでいた。外国暮らしではどうしても交友関係が乏しくなるので、ライカユーザーズグループというネット上の同好会に参加し、オフ会(1泊2日)が開催されるとそれにも参加した。会員の国籍は様々であったが、ヨーロッパのオフ会にはドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、スイスといった国から参加者があった。中でもドイツ人の会員とは懇意になり、その後家族ぐるみでの付き合いになった。趣味の会の常で「変り者」もいて、ノクチルックスをつけたブラックペイントのM3を首からさげて終始ニコニコしているイタリア人のおじさんなど話のネタになるような人物には事欠かなかった。今となっては楽しい思い出である。
この会の中でグルと呼ばれていたのがErwin Puts氏だ。彼はLeica Lens Compendiumなどライカ関連の著作がある作家である。経歴は不明だが光学に造詣が深く会の中心的存在であった。私は彼からライカレンズの設計の特色を多く学んだ。また彼とライカのデジタルセンサーへの対応について様々な議論をした。私がライカから離れた後も彼はライカの伝道師としてその優秀性を世に説き続けたが、2019年にライカとの決別を表明し、2021年にこの世を去った。心より冥福を祈りたい。なお彼の著作は今も以下のサイトで読むことができる。https://photo.imx.nl