論理的じゃない人々
論理的思考とは「偉い」とか「頭がいい」とか「理系」とかそう言うものではない。人として少なくとも備わってないといけない能力だ。今までの経験から論理的じゃない人々や自分を見つめてみる。受け消化売り意見、推敲なしの思考ログ。自戒を込めて。
論理的じゃない人ほど「それ論理的じゃないね」と言う
「それ論理的じゃないね」という発言は主に「マウントを取りたい」などの私欲から発せられたもの、または「相手の論理を理解できなかった」を意味してしまうものだ。なぜなら、論理的じゃないことが自明であれば、その理屈のどこがどう辻褄が合わなくて、どう矛盾しているのか、どう筋が通ってないのかを簡単に突くことができるため、理由もなく「論理的じゃない」と言い放たない。また、自明ではないなら、言い放つ前にまず「自分が相手の論理を理解できていないのでは」と疑うことができる。論理的に見えない原因として「飛躍」がある。論理的な人はこの論理的飛躍に見える部分に「含み」があると疑う。つまり、共有されてない事前情報や周辺情報、また認識の違いが相手との間に存在することを疑うことができる。一方で論理的じゃない(もしくは原理主義的な)人々は情報共有したりお互いの認識を擦り合わせることに努めず、感情のままに何かを言い放ったり、一方的に決めてしまったり、ときに行動を起こしてしまう。
伝わってなければ伝えてないと同じだ
話し合いや議論は本来、分断を生むことを目的としていない。お互いの認識を深めた上で結論を出すことを目的としている。伝わってなければ伝えてないと同じであり、伝わらなければ意味がない。伝わってなければ相手が理解するまで形を変えて伝える必要がある。誤解を与え得る表現や説明、行動を見直す。意図したものと違う受け取り方をされたならば、伝え方が悪かったとして、きちんと弁明してあげる。相手の言ってることがわからないなら、質問して理解しようと努める。仕事でも人間関係でも、伝わりにくい説明をしないように、時間と質を重視して建設的なものにしていきたい。
気持ちに素直になれない
話し合いや議論は本来、相手を打ちまかしたり、マウントを取ったり、相手の理解力を責めたりと、勝ち負けや自己正当化を最終目的とするものではない。そのようなマイナス感情や目的が根底にあるとどうなるか。伝えることに努めず一方的に終わらせてしまったり、また、理解しようと聞く耳を持とうとしないので、いつまで経っても伝わらない。わかっていてわざと違う受け取り方をする。揚げ足をとって攻撃しようとする。このように目的が違う相手とはうまくコミュニケーションが成り立たない。そもそも大人として、そのようなマイナスな目的を持っていること自体どうなのか。しかし人間、気持ちに素直になれないことはよくあるだろう。その要因として「ポジション」や「プライド」だったり「自己肯定感」「恐怖」「トラウマ」「強い思想」「信条」などが複雑に絡んでいるはずで、時に「強み」や「個性」だったりするので、簡単に責められるものではない。日頃から自分を客観的に見つめてみるといいかもしれない。そして早いうちに「私の根底にはマイナス感情があります」「悪意があります」「気に入りません」と気持ちを素直に認めた方がいい。そうじゃないといつまで経っても、論理的で建設的な会話を目的とする相手と辻褄が合うことがないし、お互いの時間や精神を無駄にしてしまう。その根底にあるマイナス感情が、自己中心的なのか、理不尽なものなのか、傲慢なのか、はたまた尊重すべきものであるか、ないかの議論はそのあとにすることで、その告白にさらに炎上するのは避けたい。
質問させない、疑問を抱かせない教育
海外のどこかの国では、質問しないことはその場に存在しないと同じである、と言われているらしい。確かに日本の教育では、質問をすることや、一度された説明を噛み砕いてもらうこと、間違いや失敗を恥ずかしいとする風潮があると思う。またそのような人を責めたり馬鹿にしたりするような人もいた。小学校から高校まで、授業で挙手をして質問や疑問を投げかける生徒はほぼいなかった。理解していないまま、認識がずれたまま議論や物事を進めることが一番怖いことであるし、論理的思考を育まないと思う。
先入観にとらわれる
論理的思考を持つ人は、先入観に囚われず客観的事実に基づいて物事を判断しようとする。色眼鏡をかけず、私利私欲や主観を交えず、あらゆる可能性を考え、中立的になり、合理的に物事を進めようとする。この姿勢は、他人に何か影響を与える発言や行動、決断するときにいいとするもので、普段から感情的になってはいけないと言う意味ではない。感情に従って生きる人が悪いというものでも全くない、何をどう感じて、何を選択するのかは個人の自由である。また、先入観や主観を持つことは人間として自然であるし、逆に、他人が抱く印象を受け止める必要がある。ただ、その先入観や思い込みに基づいて放った言葉や起こした行動、決断が、理不尽なものであったり、他人に悪影響や不利益を与えたり、また、事実と反するときには、その認識を改めたり、配慮した物にしなければいけないと思う。