主観と客観と原理主義

前回、論理的じゃない人々を見つめ思ったことを書いた。

それを読んでくれた人達から気付かされたのは、この世界には脆弱性のない100%真っ当な論理なんてないと言うこと。推敲なし思考ログ&受け消化売り意見。

原理主義的な人々

論理的に見えない人々の中には原理主義的な人もいる。その原理に基づいて論理的になることはできるため一概に論理的じゃないとは言い難い。そして論理的に見えた人々は実は対話主義的な人々で、世界の真理に近づこうとする姿勢がある。対話によって合理的に意見を変える対話主義的な人々は、原理主義的な人にとっては打ち負かすのに容易い相手でしかなく、ときに相手の理解力を責めて話を切り上げたり、また「勝ったつもり」になる。それが故意ならば戦略的原理主義、自分に嘘をついているならば心情的原理主義と言えるだろう。その「理不尽な負け」は対話主義的な人々にとって大きなダメージとなる。

主観と客観という対立構造への違和感

そもそも客観視とは神の視点である。人間にできるわけがない。何かを客観視しようと相対的に評価するとき、人間の集めるデータの量や正確性には限界があるからだ。いわゆる「客観視」は、主観を「俯瞰的に見る」に過ぎないのではないか。

誰しもが原理主義

対話主義的な人々が世界の真理に基づいて物事を考えようとするとき、客観視しているつもりでも結局は「社会的」だったり「道徳的」「モラル」というある意味、原理的な要素に基づいて合理的に考えるということをやっている。主観を切り離して何かを決めることなんて人間不可能なのかもしれない。

人間は弱い存在である。



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