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私がWASSHAに共感していること
私が現在勤務しているWASSHA株式会社へのジョインを決めたのは、大学院時代にインターンとして勤務をしていた時のこと。インターンの中で感じた強い共感が背中を押してくれてジョインを決めました。一つ目は会社や事業のスタンスに対する共感。そして二点目はIPOという会社の大きな方向性に対する共感。
入社から二年ほどが経ち、改めて自分がWASSHAの何に共感したのか、そして今も自分が大切にしている軸を改めて振り返るべく、言語化してみます。
「アフリカの人々」の人間性・個人性
まず、一点目の会社や事業のスタンスとは、従来「アフリカの人々」と捉えられている市場の人々を、徹底的に一人一人のお客様として扱い事業運営を行っていることです。
アフリカを始めとする途上国の最貧困層を対象とするビジネスにBOPビジネスという名前がつき数十年が経とうとしています。その時代に応じて語られ方は若干の変化を繰り返していますが、基本的には増大する人口という巨大市場の面をとることで価値を生むという前提は一貫しているように感じます。すなわち、顧客としての人間性、個人性は欠落されて語られることが一般的で、いわゆる顧客の課題ドリブンな価値提供が行われることは稀という印象があります。これは、ビジネスに限らずアカデミアの分野でも同様で、個々の人間の意思決定のreasonableな側面や背景を細かく見ていかなくては本質をとらえ損ねるとバナジー、デュフロが著書『貧乏人の経済学』でも指摘している通りです。
WASSHAのアプローチは村々を一ヵ所ずつ営業スタッフが回り、小売店や顧客の声を基に導入先を選定していくというスーパー泥臭い営業方法。そこにはテクノロジーやイノベーションといった概念は独り歩きしておらず顧客とサービスのシンプルな関係性があるのみです。WASSHAのValueの一つに「Go Field」という言葉がありますが、これは「顧客主義。顧客よりも顧客のことを理解せよ。」という極めてスタートアップ的な思想を示しており、社員のスタンスや意思決定プロセスにDNAのように染みついているといつも感じます。
途上国で勝負をしているものの、資本至上主義の先にアフリカの人々を見出すのとはまるで逆行しているようなアプローチがかっこいいなぁと感じたのが一点目の共感した点でした。(余談ですが、途上国で名をあげている多くの企業はこのアプローチを細かくやり切るExecution力によるものなのでは?と最近は思ったりしてます)
資本主義に言い訳をしないということ
二点目の大きな企業運営の方向性とは、IPOを会社として目指しているという点です。前述した通り、WASSHAは資本主義的な効率性とは異なるあり方が根付いていると思います。ある意味、資本主義による経済性の力が長年入ることができなかった市場にそれとは異なる方法で食い込んでいけたのがWASSHAの歴史であり、強みだと思います。
にも拘わらず、その先の未来で資本主義経済で成果を上げて評価されていくことに言い訳をせず、IPOという選択をとろうとする方向性は、世界のだれもなしえていないトレードオフの解消を意味すると思っています。
WASSHAのVisionは「Diversified word prosperity」と言語化されています。この言葉は自分が入社して半年くらいのタイミングで決定され、Visionとして掲げられるに至ったのですが、発表された際に自分がWASSHAに見出していた可能性をここまでシンプルに表す表現があっていいのか!!とちょっと泣いたのを覚えています。
経済成長理論に関しては経済学者の間でも多くの研究が行われていますが、基本的にマクロな成長経路は多様化しておらず、いわゆるアメリカ的な経済成長が教科書的な正攻法として語られます。(もちろん、それに付随する問題点については今日盛んに議論されている通りです)
一方で社会課題解決に対して強い意識を持っている若者も増えており、社会起業家といった言葉は感度の高い学生にとって「イケてるキャリア」の一つとして広く認知されるようになりました。しかし、そういった文脈の中で従来の資本主義経済、現在の多くの先進国の過去の歴史に対して非常に批判的な声が挙がるのを耳にすることが多くなり、私はその風潮に強い違和感を感じていました。
過去の成長の恩恵を受けて今日の議論まで昇華させてきた先達の汗と涙の歴史は決して否定していいものではなく、現在を生きる我々がすべきはそのアップデートであり、ひっくりかえすことではない。資本主義経済と社会課題解決が両立する世界が実現しなくては本当の答えとは言えないのではないか。そういった想いがあった自分にとっては「Diversified world prosperity」という言葉の、既存の繁栄や成長経験を受け入れたうえで、それとは異なる事例を打ち出していこうとする謙虚な姿勢がとても染みたのです。
現在もこのVisionに対する想いは変わっていませんし、時代が変わる中でWASSHAはそういった姿勢を崩さない企業であるべきだと考えています。
「途上国開発」の呪い
気球からアフリカ全土に通信サービスを提供しようとするLoonが1/20にプロジェクトの終了を発表しました。プロジェクトのいちファンとして私自身、このニュースは残念でしたが、その内容を読み、我々貧困の終焉を目指す人間が大事にしなければいけないものを改めて強く認識しました。
『ファクトフルネス』が指摘するように、世の中は世間で捉えられているよりも相対的にかなり良くなっているのは間違いありません。また、貧困に関する議論の対象はすでにアフリカを始めとする途上国ではなく、アメリカ国内のものになりつつあります。(バナジーの新著を年明けに読んで、経済学における貧困格差の話題は既にアフリカにはほぼ言及せず、ほとんどの議論がアメリカ国内、EU圏内のものになっていると改めて感じた)
その中で我々が己に突きつけなければいけないと感じたのは「貧困に対する夢や幻想を捨て去ること」、そして我々が解決しなければいけないことの構造自体は何も変わっていないということの再認識です。
私はJICAの方がよく使う「我々が理想とする状態は我々の存在意義がなくなることです」という言葉がとても好きなのですが、まさにその通りで私たちができることが少なくなっていることはポジティブに捉えるべきです。インフラの恩恵を受けられない人々の減少は素直に喜ぶべきことだし、我々の目標が達成に向かって大きく近づいていることを認識するべきだと思います。
一方で、貧困という言葉が国境をまたぎ、より国際的に複雑化しているとはいえ、構造的な問題は変わらない。解かなければいけない問いは難易度の高いところがきっちり残り続けています。まして、Vsionとしてマクロな概念を対象にしているWASSHAがトライしなければいけないものは何も変わらないと思います。
より「アフリカの人々」「タンザニアの人々」という言葉から解像度を上げていく必要があります。でないと、途上国開発という言葉の呪いに足下を救われ自分が何者であるかを見失いかねません。どういった人たちを対象として、どういった繁栄をもたらすのかということを深く考え、深くトライしていくべき状況だと感じています。