最後の一曲
それまでのノイズが全て止まる。
しん、と静まったスタジオの一部屋で、緊張が高まっていく。
リードギターが、一度だけメジャーのEコードを鳴らす。
それにつられて『オレ』もベースを鳴らし、ヴォーカルがマイクの最終チェックを始める。
音量も、音色も、いい具合にそろった。
再度、その場から音が消える。
かすかに、ベースの1弦を人差し指の爪で擦る音が響く。
『オレ』の癖だ。
ドラマーがバスドラの感触を確かめる、続けて2回繰り返す。
ドスドスドス ドスドスドス
ドラマーが首を回し、大きく息を吸い、吐く。
スティックが力強く振りかぶられ、初音にコードを合わせる。
ギター2本それぞれがコード弾きと五度引きで追いかけ、『オレ』はドラマーのサインを見逃さずにリズムを合わせる。
始まった。
C、D、Eの躍動感ある始まりに、ヴォーカルが一晩中泣き明かした様な声で空間を掻きむしる。
ドラマーとベースの『オレは』、死ぬほど、でもないが筋トレと思うほどに合わせてきたリズムを刻む。
略称「リズム帯会議」の成果だ。
ギターが控えめな音でコードを合わせ、歌に感情が乗る。
丁寧に音を聞き分け、ドラムとの間合いを楽しむ。
そろそろ転調だ。
一瞬だけ左手を確認し、ドラマーと目を合わせる。
膝で繊細なリズムを感じ取り、呼吸を合わせる。
味のある〝8〟に硬いハイハットが加わり、一気に加速し〝16〟へ。
ネックを縦に上げ、転調と同時に引き抱える。
決まった。
ギターが踊りだし、ヴォーカルの声域もかすれるギリギリまで引っ張り上げる。聞き苦しい掠れ声に、魂が宿る。
この瞬間、完全に全ての〝音〟が調和し、あまりの心地よさに、勝手に笑みが浮かぶ。
ドラマーとヴォーカルは〝キレた〟かのように険しい顔になり、ギターは目を閉じて融合された小さな世界に酔いしれる。
ループが終わり、再度Cへ。
もう、周りの音などいちいち聞こうとしない。防音の小部屋からインスピレーションの空間へ。すでに感じている。
体内メトロノームが程よく狂いだし、機械的な曲調に人間的な、極上の味が加わる。
気が付けばギターは違うフレーズを弾いていたが、ほどよいアレンジが加わって小指は別の生き物となる。根本的に狡いのだ。
ヴォーカルはタメを使い出す。カラオケでもコピーでもなく、これが〝我〟の表現だと叫び倒す。
ソロ手前、ギターがコード弾きに変わる。
ギターとヴォーカルが『オレ』の目を見て、『オレ』がドラマーに目配せすると力強く頷く。
ここで魅せろの合図でしかない。
なんの打ち合わせもなく、突然の見せ場に戸惑う。
目を閉じて精神の宮殿の扉を開けて、瞬時に掻き漁る。
2弦の10フレットを軸に、ベースソロ並みのフレーズを弾く。
感じるままに、ネックの根元まで引き絞って重量感あるカンカンに高い音を描く。黒い音から白い音へ。赤い音から緑の音へ。遠近法を無視して奥の奥へ。
右手首に痛みが生じる。握力が急速に弱まる。
ヤバイか? と感じた瞬間、ドラムがハイを入れて煽り上げてくれる。
逝け! どうせ最期だろ?
一気に指を滑らす、Cを弾いて低く、そして高く音を投げつける。
ギターソロにバトンを渡す。
無秩序の〝16〟に火が点いて『オレ』の音がかき消されそうになる。負けじと追いかける。これまでの様に。倒れるまで。
気がつけば身体はのけぞり、手首の痛みは消えていた。
心地いい。気持ちいい。
軽快かつ悪意のこもった狡いソロが続き、それぞれが限界へ。制御を超えて、支配を超えて。
それでも。
ベースの意味は、リズム帯は、壊れずリズムを刻み込むのだ。何度でも、いつまでも。
ギターが中指で1弦を持ち上げ、超高音の余韻を残して宙を仰ぐ。
さあ、終焉へ。ラストスパート。
何百回と練習した曲、何度やっても一人では間違っていたのに。ミスがミスにならない。
いや、もうそんなことは、ひょっとしたらどうでも良い。
ヴォーカルが最後の言葉を曲にのせて、静かに、丁寧に、奇麗に発し、置いた。
ドラムが締めのリズムを叩き上げ、ギターがネックを突き上げてメジャーをかき鳴らす。
そして『オレ』とジャズベースも、ダダをこねる子供のように、まだ終わるなと必死でピッキングをやめない。
まだつづく。試しにAメロに戻ってみる。リードギターが緩く乗ってきたが、ヴォーカルは息継ぎをしない。ただ蛍光灯を視ていた。
まだつづく。ドラムがハイハットしか叩いてくれない。間隔が、ひらいていく。
しかし。三度目のフィルが合ってしまい、ゆっくりと、全身の力が抜ける様に、指が弦を開放する。
アンプが余韻を継続する。我武者羅にかき鳴らされるギターの歪みが、シャラついた音に変わる。
見渡すと、糸が切れた人形の様な者、4人。
汗ばんではりついた前髪をかき上げ、その手で、ゆっくりと4本の弦をミュートした。
12畳との説明書きでも実際は6畳くらいしかない様に感じる狭い部屋。
年季の入ったアンプと楽器。マイクスタンド。換気の悪い空気。
凹んだ重いマイク。
壁の落書き。
引き千切れた弦と、折れたスティックが無造作に捨てられたブリキのゴミ箱。
ビニール紐で繋がったニッパー。六角レンチ。
予備のケミカルな色の安いシールド。
誰かが忘れていった磨り減ったピック。
異様に重い扉。
他で見たことのない人気のないジュースばかりを売るたった一つの自販機。
男女共用の、学校の男子用みたいな薄汚れたタイルと漆喰のトイレ。
割れて掠れた非常灯。
ひび割れた床。
会員カードの入ったボロボロの手作りな紙箱。
ピンク色の十円玉しか使えない公衆電話。
バカ話や音楽について語り合った、灰皿が一個だけ置かれた階段の踊り場。
さび付いて〝誇りまみれ〟になった、多くの淡く光る夢を迎え入れてくれたあの場所はもうどこにもない。
そこに存在していた事実、欲望、想い、感情、願い。
当たり前な日常の一部だったことに気づいた今、もう戻ることもないあの場所に捧ぐ。
「ありがとう。おつかれさま」