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『夜は短し歩けよ乙女』~遊歩と思索~

(1)乙女のように歩む ~遊歩のすすめ~

「自分は人生を楽しむことが出来ているのか」現代社会において、この悩みを抱えている人が多い……私にはそう見える。

 「自分の夢中になるものがないことは寂しい」「自分の趣味が少ないと思われるのは嫌だ」、この問題に関しても、多くの人が悩み苦しんでいる。

 自分の好きなものが見つからない、熱中できる趣味がない。自分の欲しいものを欲しい時に欲しいように手に入れることが出来るようになったことで、己の内にある欲望を見出しにくくなっている時代を私たちは生きている。

 そんな自らの欲望が見つけることの困難さに直面している私たちにとって、この映画は一つの打開策を与えてくれるかもしれない。それが、私が『夜は短し歩けよ乙女』を見たときに最初に抱いた感想だった。

 『夜は短し歩けよ乙女』は、2006年に角川書店から出版された森見登美彦による長編小説を、アニメーション監督の湯浅政明が映画化した作品だ。2017年9月に、オワタ国際アニメーションフェスティバル長編部門グランプリ受賞、さらに2018年3月に第41回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞を受賞しており、記憶にある人も多いだろう。

 本作は、後輩の「黒髪の乙女」に恋をしたさえない大学生である「わたし」が、彼女との恋路を実らせるために、「ナカメ作戦」という彼女の目にとまるため、偶然を装い彼女に何度も近付く作戦を決行しているという少し滑稽な場面から始まる。

 ヒロインである黒髪の乙女は、主人公の果敢な(?)努力もむなしく、その好意に気付くことなく、様々な場所で「わたし」とすれ違ってしまう。物語が進んでいく中で、二人はまったく異なるストーリーラインを辿りながらも、つかず離れずな奇妙な距離感を少しずつ近づけていく……と言うのが本作のあらすじだ。

 本作は、世の中に溢れている様々な物事に一心不乱で取り組む黒髪の乙女と、恋愛という一大事業に魂をかけて突っ込んでいく「わたし」の姿を、コミカルにそして情熱的に描いている。

 世の中に対して無気力に振る舞うのではなく、どんな愚かでくだらないことにでも、全身全霊で取り組んでいくことの面白さを、本作は主人公たちの一晩の大活劇を通じて私たちに訴えてくるのである。

 ヒロインである、黒髪の乙女はとにかく猪突猛進。世の中にあふれる「おもちろい」ことに目がなく、自らのやりたいことを気の向くまま、好奇心の赴くままに、後先考えずやっていく。

 そんな乙女の姿に惹かれ、その周囲には次々に人が集まっていき、彼ら彼女らは、彼女を台風の目にして暴れ回り、物語をしっちゃかめっちゃかに引っかき回していく。

 この、作中人物たちの“めちゃくちゃさ加減”は、この作品の一つの魅力である言える。作品を観ていると、ここで描かれているような、見ていて気持のよいドタバタ騒ぎというものには、なかなか出会えるものではないだろうなと羨ましい気持ちに襲われる。

 本作は、恋愛という一つの目標に突き動かされる「わたし」と、「おもちろいこと」に次から次へと巻き込まれていく黒髪の乙女を、対比構造におくことによって、「夢中になること・熱中すること」の楽しさを私たちに教えてくれる。

 特に本稿冒頭で触れた「自分の夢中になるものがないことは寂しい」と感じている人たちには、乙女の生き方を参考にすることをお勧めしたい。

 乙女のやり方はシンプルだ。外をフラフラ歩く→何か面白そうなことが行われているのを見つける→参加者に話しかける→混ざる→盛り上がる。この工程をひたすら彼女は繰り返す。

 そうして、色々な行事や事件に巻き込まれていく中で、乙女はたくさんの人と関わり、盛り上がり、そこで起こるハプニングすらも楽しんでいく。この世界に対して心を無防備に開いている彼女のフランクな姿勢は、危うくも見えるが、同じような日常を淡々と過ごしてしまいがちな私などには、とても魅力的なものに映った。

 情報過多な現代社会では、乙女のように「おもちろいこと」を見つけることは難しい。私たちは日々、自身のスマートフォンに滝のように送られてくる無数の情報やタイムラインに溢れている誰かの悪口や噂話に、右往左往してしまい、己の欲望に向き合う機会を見失いがちであると言えるだろう。

 だからこそ、何のためらいもなく、あちこちに出かけていき、様々な人々と悲喜こもごもに関わり合っていくことで、「おもちろい」ことを次々に開拓していく乙女の姿は、私たちにとってまぶしいものに映るはずだ。

 彼女のように歩いて、世に溢れる「おもちろいこと」を見つけて、一生そこに巻き込まれ続けることができるなら、趣味がないことなど、きっと問題にもならないだろう。

 しかし、残念なことに、おそらく私たちは乙女のように一生を生きていくことはできない。なぜなら、『夜は短し歩けよ乙女』という作品は、乙女と「わたし」という学生が体験する一晩の非日常的なドタバタを描いた作品であるためである。

 学生というモラトリアム期間における文化祭・飲み会などの、非日常的な空間と時間を舞台にしているからこそ、乙女は好奇心の赴くまま「夜」を歩き回ることが出来る。

 本アニメーションの監督である湯浅正明は、このことに対して非常に自覚的であった。

今回4つの話を1本にして、一晩で起こったことにしているんですけど、一晩の夢のように、わ~~っと見られるような感じになればいいなと思いました⁽¹⁾

 ここで言われているように、原作では4日に分かれていたエピソードを、湯浅は「一晩」の物語としてまとめあげることで、「夜(非日常)の短さ」を強調することに成功している。

 実際、アニメーション本編を見てみると、乙女と共に「一年のような一晩」をあっという間に、歩き倒したような感覚になることができる。

 「夜」という日常から乖離した時間の中でしか、彼女は自由に歩くことが出来ない。この彼女が抱える時間的な限定性にこそ、本作の魅力があり、私たちが乙女の生き方をそのまま真似することができない理由がある。


(2)乙女のように生きるには ~思索のすすめ~


 本作における乙女の自由闊達な振る舞いは、大学生というモラトリアム期間での時間限定的なものだと、言わざるを得ない。

 しかし、乙女のように「おもちろいこと」への感度を高め、様々な場所を歩き回ってみる(遊歩する)ことには、人間が「楽しい」と感じるための、普遍的な応用性があるようにも思える。

 乙女は「夜」という非日常を味わい尽くすことによって、満ち足りた時間を過ごした。一方、私たち視聴者が憧れるのは、どうすれば乙女のように「日常」を楽しんで生きることが出来るのかというテーゼであると言える。

 では、私たちが暮らす日常にとって、乙女のやり方はどうすれば応用可能となるだろうか。結論を書くと、非日常における乙女のスタンスをそのまま転倒させることにより、私たちは彼女が体験した非日常を日常の中に入れ込む知恵を見出すことができる。

 乙女との恋の成就という目的のみに突進していく「わたし」、何も考えずにフラフラと歩き回る乙女。作中でこの二人の遊歩が上手く機能したのは、物語の舞台が「非日常」だったためである。

 この非日常でのみ機能する、乙女と「わたし」のスタンスをひっくり返すことによって、以下の処方箋を私たちは獲得することが出来る。

 「目的を定めることなく、常に考えながらフラフラと歩く」

 これが、本稿の結論であり、冒頭に述べた自分の欲望に中々自覚的になることができない、私たち現代人が取り組むべき施策である。

 とは、言ったものの、「目的を定めることなく、常に考えながらフラフラと歩く」とはいったいどのような状態を示すのか。

 一言でいえば、この状態は、世界の複雑性に身をゆだねながら、何か「おもちろいこと」はないかと周囲にアンテナを張りつつ、様々な場所に「旅」に出ることを意味する。

 この状態をもう少し具体的に想像するために、文筆家でキュレーターである上妻世海の「作ること、生きること ― 分断していく世界の中で」というエッセイを参考としてみたい。

思考は散策する。荒唐無稽な可能性すらも見守るよう心がける。僕は身体として散歩しながら、同時に思考を彷徨させるのが好きだ。リラックスしながら歩いていると、論理的に正しい方向へ、そして間違った方向へと、過去へ、未来へとイメージが連鎖するように歩いていく。イメージは正しさや間違いを気にもかけず、ふらふらと進む。それは「正しさ」から解放された遊戯であり、思いもよらない組み合わせを教示してくれる。
  しかし、他方で、僕は飛び交う思考を書くことによって、描くことによって、外部媒体に安定させたいと思う。想像力の源泉である現在の厚みを増していきたいのである。僕の集中力は連想を一つの流れに合わせ続けられるほど安定していないし、僕の記憶力は数分前の思考の流れを忘却する。僕はふらふらとあっちにいったり、こっちにいったり、過去や未来を旅しながらも、そのたびごとに帰還できる足場を必要としている⁽²⁾

 上妻は思考を遊歩させつつ、それを「書く」ことで、安定させることによって、私たちは日常に居ながら、様々な場所に時間・空間を無視して「旅」をすることが出来るのだと述べている。 

 「リラックスしながら歩いていると、論理的に正しい方向へ、そして間違った方向へと、過去へ、未来へとイメージが連鎖するように歩いていく」。このイメージを「夜は短し」を見た人間は、朧気ながら想像することが出来るだろう。こうした豊かで、めちゃくちゃな世界観を、「夜は短し歩けよ乙女」という作品はまさに描いている。

 書くこと、思索すること、歩くこと。この3つを同時並行的にやることを上妻は推奨している。だが、ネットの膨大な情報量を前にして、発信・受信に対して疲れしてしまっている私たちにとって、上妻が言うように「書く」ことは非常にハードルが高い。

 なのでまずは、「考える」と「歩く」を組み合わせるところから、始めるのが良いのではないかというのが、「目的を定めることなく、常に考えながらフラフラと歩く」ことを私が本稿の結論に据えた理由である。

 「夜」は短い。だからこそ私たちは「夜」を日常に見出し、「夜」を楽しむ感性を育てていかなければならないのである。

引用

(1)“一年のような一晩”がギュッと90分にー「夜は短し歩けよ乙女」湯浅政明監督インタビュー(前編)

(2)上妻世海、「作ること、生きること ― 分断していく世界の中で 第1回 創造性についての覚書 ― イメージ思考と抽象思考 後編(増補改訂版)」

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