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自己紹介

そういえば、自己紹介もなかったので、簡単に私の歴史を少しだけ書き残しておきたい。おそらく、現在進行形のものになるので、古くなることを望みたい。

1997年2月 アメリカにて生まれる

父は博士課程の途中で、アメリカに行っていた。研究のためというより、経歴のためだったのか。それも祖母からしか聞いたことのない話であるから分からない。ちょうど、私は母のお腹のなかにいたんだが、そのままアメリカにいる父のところに行ってしまったらしい。どうやら、住まいから食事から違う環境で大変だったとのこと。ただ、私の母は高卒ではあるものの、病院にいってリスニングには困ることがなかったようだと。これも祖母の話。母の口からは一切聞いたことがない。嫌な記憶に触れたくないというオーラしか感じたことがない。父はちょっとおかしい人だったらしく、日光浴だといって生まれた私をベランダに出して肌を焼こうとしていたらしい。学者だろ、って思うけれども。これもまたまた、祖母の話。

1997年夏

帰国する。半年もアメリカにはいなかったというより、環境面から日本に戻ってきたらしい。少なくとも、日本に帰ってきてから父と母は一緒に暮らしていないので、もうこの頃から離婚の話というものは出てきたのかもしれない。正式には、私が2,3歳のときに調停離婚している。戸籍で確かめたときに、初めて父の名前を知って、学者なら大学に所属しているかもしれないし、そんなものはインターネットで調べようということで、18歳のときに顔写真を初めてみて、経歴も少し調べることができた。その後に、メールアドレスに一回だけ連絡してみて、私の父の存在が間違いないことだけ確かめている。

2012年4月高校入学

学区で偏差値トップの高校に進学する。自称ではなく、東大、京大、九大に現役で数十人を送り出している。県内でも、5本の指には入るだろう。中学までは、田舎の町に住んでいて、学年トップレベルの成績を維持していたので、当然、公立ならここだろうと先生から言われるぐらいであった。しかし、高校1年の1学期の中間テストから40点台の教科があり、ひどいときには欠点の教科とそれ以外の教科が同じ数であった。勉強しなかったのではなく、勉強してもついていけなかった。それだけの秀才ぞろいで、劣等感の塊みたいな高校生であった。部活は、中学から陸上部に入ってしまった。それも長距離で、少しぐらいタイムが縮まればと思ったが、ただの地獄だった。辞めるのも人間関係的な地獄で、辞める際には挨拶を部員の前でさせられて、「もう帰っていいぞ」と顧問から言われる、ちょっとした見せしめもあった。当時の担任に相談しても、辞めない方がいいと言われるだけで、3分程度しか話を聞いてくれない。そんななかで、学力も部活も深刻な成績であったが、友達とはどのクラスにも顔を出せるぐらいに恵まれていた。10クラスもあったから、そのどこにも数名の友達がいて、休み時間に無駄話をできるコミュニケーション能力はあったはず。
ただ、家庭の方は崩壊状態。母とは中学生以降、まともに話をした記憶がなく、伝達事項のみの話。大学合格の知らせも、「ああ、そう。」という返事のみであった。祖父母と4人暮らしであったが、母と祖父母のケンカで、私が家から出て、田舎道を夜に散歩しながら泣いていた。自転車に乗りながら、涙をごまかすために歌っていた。そんな悲しさに包まれた家庭であった。

2015年4月国立大学入学

 大学に入学できたので、喜んで家を出て一人暮らしをした。希望する学校も学科も特になかったというか、自分のことが分からなかった。結局はセンター試験の後に、この点数で入学できそうな大学を調べて、理系から文系に変更した。そのくらい、センター試験の点数がひどかった。お金のかからない公立に入学することだけを目標にして、国際系の学部を選択した。何かと自分の世界が広がると予期していた。結果としては、入学してからは、人間関係に苦しむことになる。大学生なのに、話が通じ合えないこと、物事を考えてないというか、表面だけ整えているだけで、知的な魅力が感じられない同級生に失望してしまった。人生とか、生き方とか、そんなことを語り合いたかったのかもしれない。帰国子女の学力のあるグループがいて、英語では全く成績も追いつかず、日本語の能力だけで勝負をしながら、授業料免除を獲得していく。課題も多く、図書館によく行っていた。寝ていた時間も多いが、頑張ってはいたと思う。1年生のときには、3週間だけであるが、語学留学で人生2度目のアメリカへ。そのときには、特には何の感動もなく、一人で観光地でもなさそうなところで、近所の子どもたちがサッカーをしているのをみていたり、砂地をハイキングしたり。ああ、人生で初めてスターバックスのコーヒーを飲んだのはそのときだ。
 そんなさえない学生であったが、何とか自分の環境を変えてみたくて、長期の留学に必要なお金と英語能力を得るために努力した。焼き肉屋でバイトをして、長期休みには英語の勉強を一人でしていた。そんなときに、メンタルヘルスの不調を感じるようになっていた。大学1年生のときから、泣いてしまうこともあり、不安定さを感じてはいたが、2年生のときに限界を感じて、大学構内にある保健センターみたいなところに行ってみる。質問紙と簡単な面接で、すぐに紹介された心療内科で、休息するように言われたものの、休んでもどうにもならずに、服薬が始まっている。適応障害から、うつ病に病名は変わっていた。


ざっとこんな感じのところで、また気が向いたら、そのときの気持ちの変化やその先の自己紹介も載せていきます。



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