母からの伝言
最近、夢を見ることが多くなった。
ここ数年、朝目を覚ましても夢を見た記憶がなかった。
ぐっすり眠れていたかといえばそうでもなく、母や父のこと、自分自身の体調の問題もあって、ずっと浅い眠りだった。
それが、なぜか急に夢を見ることが多くなり、しかも目が覚めて、一瞬、夢が現実かがわからないという感覚になることが多く、いつも決まって「ああ、母はもういないんだな」と自分を納得させて、シャキッとすることが続いている。
なぜ、母の夢を見るようになったか、その理由はわからない、ただ、今朝、ふと気づいたのは、いつの頃か、自分が何者であるか、何をしているのかが、曖昧、あやふやな感じがして、何をやっても満足感が得られなかったり、不安な気持ちが少しばかりあることを感じていた。
そして、最近になって、いい加減、そこから抜け出したいと思うようになってきていた。
今までは、母や父のことで(他界してからも)多忙を極めていたり、ずーっと体調が悪いせいか、朝、起きても動けない日が結構あった。
病院で症状を話し検査をしてもらって、最終的には異常なし、ストレスからくるものと言われ終わっていた。
ただ、唯一、ボイトレだけは休みたくないと、月2回のトレーニングに通い続けていた。
今考えると、それが私と他人、世間をつなげる唯一の太いパイプだったような気がする。
そして先日、通い始めて4年目でやっと、発表会に参加できた。
徳永英明さんの「輝きながら」とCatsの「メモリー」を歌い、なぜかメモリーには、盛大な拍手と賞賛の声をもらうことができ、帰りぎわには、トレーナーさんから「皆さんの心に刺さったはず」という言葉をもらうことができた。(最近は、響いたとは言わず、刺さったと言う人が多いそう)
正直、嬉しかったし、4年間続けてきてよかったとも思った。
それに比べて「輝きながら」を歌った時の反応がちょっと気になった。
拍手はもらったが、普通にお疲れさまという意味の拍手をもらっただけだった。
もし、2曲とも普通の拍手だったら、それが当たり前と、何も感じなかっただろう。たまたま「メモリー」が皆んなの心の琴線に触れたのか、盛大な拍手と掛け声をもらったことで、「輝きながら」を上手く表現できなかった方が、何故だろうという疑問を生じさせたのだった。
トレーニングを受ける前は、ミュージカルナンバーということもあって「メモリー」の方がずっと難しいと感じていた。しかし蓋を開けてみると、「輝くながら」の方が、地声が出にくい音が多く、いかにして地声で安定した声で歌うかに苦心した。
結果「メモリー」よりもずっと練習量が多くなり、発表会前、最後のトレーニングの日も「輝くながら」を歌い、最後の最後までダメ出しされたほど、」輝くながら」に集中していた。それがなぜ、メモリーの方がよかったと言ってもらったのか。
発表会から帰ってきて、録音を聞き直してみた。
「輝きながら」からは、ただ音を外さず、地声をできるだけ使って歌った。という感想しか浮かばなかった。自分の歌にそう感じたのだから、あの日聴いてくれた人たちも、きっと同じだったのではないか。
それからずっと、気になるミュージシャンの歌をSNSで聴いてみたり、YouTubeで聴いたりした。
なかにひとり、ジェジュンさんという、韓国のミュージシャンがいた。
元東方神起のメンバーで、現在は一人で活動しており、今年でデビュー20周年だそう。元々は、バラエティ番組で日本を巧みに話す彼を見て、いいなと思い、彼の動画を観るようになったのだが、今回、いくつかのライブで歌う歌声を聴いて驚いた。
爆発的な歌声、大きな声で歌うときもあれば、囁くような優しい声で歌い始めるときもある。そして、そこには一つも不自然さを感じさせない、滑らかと瑞々しさがあった。
地声と裏声が、流れるように切り替わったり、大きな声で歌っても掠れたり割れたりするような荒さがない。
ずっと同じ調子で歌っていることが、歌声から伝わってきて、すごいとしか言いようがない。
彼はデビューする前に練習生として、レッスンに通ったという。何年、練習生をしていたかは知らないが、基礎ができていて、声帯もきっと強いのだろう。
自分の思い通りに声を出せることがすごい、素晴らしいと感じるのは、多分、私にはそれが身に付いていないから。
年齢的にも彼はまだ39歳で、油の乗り切った時期を迎えている。そもそもそういう素養を持っていたのかもしれない。
私は年齢的なことや、ボイトレを始めた頃に亜急性甲状腺炎になり、そのまま慢性に移行。死ぬまで朝、必ず薬を一錠飲む生活が始まった。甲状腺を悪くすると、声が出にくくなったり掠れたりすると、医学専門のサイトでも書かれている。
私も例外ではなく、長い間、朝はほとんど掠れていたり、徐々によくなっても、午前中は調子が悪かったりしていた。
それでも最近、やっと午前中も、声が出やすくなってきた感覚がある。
それは自然にというよりは、ボイトレを長く続けてきた成果のようなもので、もし、今、ボイトレをやめたら、きっとまた声が出にくくなるはずだ。
加えて今は、私ひとりの生活なので、他に会話をする人がいない。
下手をすると朝から夜まで、誰とも話さないで終わることがあって、それも声帯にはよくないのだそう。
足腰の筋肉を使わないと萎えるように、声帯も筋肉なので、使わないでいると萎えると声の専門のお医者さんに言われたことがある。
私にとってボイトレは、単に楽しみだけでなく、声をスムーズに出すためのリハビリを兼ねている。
ジェジュンさんのように歌えるようになりたいなどとは思わない、ただ、彼の歌う姿をみて、刺激を受けたのは間違いない。
物心つく頃から、歌うことが好きで、やっとこの歳になってボイトレに通うようになったのとほぼ同じ頃、20年ぶりにピアノを弾き出した。
こちらに来て、23年、札幌にいた時は、アップライトピアノがあってよく弾いていた。しかし東京に移り住むことになり、狭いマンションではピアノを置けないだろうと業者に買ってもらい、引っ越してきた。
こちらでは、そんなに狭いという家ではなかったが、やはり札幌の家とは比べ物にならないくらいの狭さ。案の定、ピアノを置けるようなスペースは確保できない間取りだった。
数ヶ月したある日、母が「やっぱりピアノを弾きたい、携帯でいいからピアノが欲しい」と言って、某デパートの楽器売り場で、携帯のピアノを買った。母は嬉々として弾いていたが、気づくと弾くのをやめていた。理由は「鍵盤が足りなくて、満足に弾けない」という。
結局、携帯ピアノは、押し入れに仕舞われたまま20余年が経過した。
おそらく、あの日まで、携帯ピアノが再び日の目を見るとは、母も私も予想していなかったはず。それを覆したのは、ある曲を聴いたことが原因。
数年前、星野源さんが「ドラえもん」の主題歌とエンディング曲を作詞・作曲したことがあった。
発表からしばらく経って、CDが発売され、初めてエンディング曲「ここにいないあなたへ」を聴いたときのこと、嘘でもなんでもなく、イントロの1音を聴いた瞬間、なぜか涙が溢れ、止まらなくなった。声をあげ、まるで号泣するように泣いたことを覚えている。
その瞬間、あることを思い出した。
もの心つく時から、ずっと音楽がそばにあったことを、音楽を聴いて育ったことを思い出したのだった。
そして気づいたのが、音楽こそが私の原点であるということだった。
早速、押し入れに眠っていた携帯ピアノを出し、毎日、楽譜もないのに弾き始めた。そんな姿を見た母が、突然、クリスマスプレゼントだと言って、電子ピアノを買ってくれた。20万もする電子ピアノを、ポーンと買ってくれたのには驚いた。ピアノの楽譜本を買い、むかし弾いた、服部克久さんの音楽畑や、リチャードクレイダーマンの楽譜本を探し、Amazonで売っていた古本を購入。
レパートリーは、少ないが嬉々として弾く姿に、母がとても嬉しい顔をして、喜んで聴いてくれたいたことを思い出す。
今年に入ってずっと、何故か、ピアノを弾く気になれずにいた。理由はわからない、ただ、何もしたくない、やる気が出ないという感覚があった。ブログもずいぶん長く休んでは、再開するを繰り返していた。
それが9月に入って、このままでは本当に、ピアノが弾けなくなると焦る気持ちが湧いてきて、またピアノの前にいる日が増えた。
ボイトレの練習は、毎日のようにしていたが、それはある意味「どうしてもしなければいけないもの」であって、してもしなくてもどうでもいいピアノとは、ちょっと違う意味合いがある。
そのピアノを弾こうという気になり始めたことに、私自身がびっくりした。
おそらく、体調が回復してきたということもあるだろう。
気づくと、あれほど辛かった「怠さ」が軽くなった。
疲れやすくて、病院に行くと、毎回点滴を打っていたのに、最近は打っていない。
加えて、家の中の整理、片付けが終わって、体力を使うことが減ったのも一因かもしれない。とにかく無理をしない、その日、一つ体を動かすことをしたら、あとはのんびりすると自分を労るようになった。で、たまたま暑い中、リビングを掃除しているときに、ふと私に残っているのは、ピアノと歌だ、と気づいた。
つい先日までは、もう年齢的も限界の時期が来ている頑張ったところで、無理だろうと思っていたのに、もっと上手く弾きたい、もっと上手に歌いたいという欲ができてきた。
声量をもっと増やして、地声と裏声の切り替えが滑らかにいくようになりたいとの思いが湧いてきた。
同時に、今は亡き母が買ってくれた電子ピアノ、その電子ピアノで練習した、数少ないレパートリーを忘れたくない、弾き続けたいという思いが湧いてきたのだ。
単に、元気になってきたと言うことで片付けられることかもしれない、ただ最近、母の夢をよく見るようになっていたのは、もしかしたら、このことを伝えたかったのだろうか。
コロナ禍の始まりとほぼ同時に、私の二次障害の発症、父の闘病、施設への入所と自宅での生活を数ヶ月ずつ繰り返す生活、母の闘病そして他界、私の二次障害の悪化、父の体調悪化、入院そして他界、残務整理。
何年間も続いたこうした状況は、私の心身を疲弊させ、何もしたくない、できない、やる気が出ないという状態を長引かせたが、ようやく長いトンネルの先に光が見えてきた感覚がある。
まだ私の周りには、いろんな問題があるけれど、とりあえず、そのことを最優先に大事に大事にしていきたい。
今は、そう思っている。
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