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ドラマをドラマとして観るか、他人事として観るかるか、自分ごととして観るか
ドラマの観方にも様々な傾向がある。
大まかに分けて、ドラマをドラマとして観るパターン、ドラマをあくまで他人事として観るパターン、そしてドラマのストーリーや登場人物を自分に置き換えて観るパターンの三つある。
演じる側にもそれはあって、どんな役を演じても、その役者さんらしさが出るタイプと、演じる役柄によってまったく受ける印象が異なり、まるでその役柄を生きているかのような、いわゆる憑依型のタイプで、私は憑依型の役者さんに惹かれる。
登場人物を自分に置き換えて観るタイプは、どちらかといえば、演じる側の憑依型に近いものがあるのではないだろうか。
かく云うドラマや演劇を観るときの私は、三つ目のタイプ。
テレビを媒体としたドラマでは、そこまで感じたことはないが、演劇が好きで観ていた頃は、たびたび舞台の登場人物が、すーっと私の身体に入ってきたことがなん度もある。
そうなると、もう自分ではどうすることもできなくなる。自然に涙が出てきて、しまいにはコントロールが効かず大泣きしてしまう。
そんなとき自分の中で何が起きているかといえば、その人物の心の声が、自らの心の声とリンクして、舞台上の相手役や周囲の演者に向かって、本当はこういうことを言いたいんだと、客席から叫びたくなっている。
それを必死に堪えながら、堰を切ったように涙が次から次へと溢れ出る涙を、止められずにいる。
当然、周囲の観客から訝しがられるが、どうすることもできないので、仕方がない。
数年前に、日本のテレビドラマで放送されて大人気となった、「おっさんずラブ」というドラマ。
当時はまったく興味、関心がなく、結局、今も観ていない。
そんな私が、今回、たまたま観たのが、台湾ドラマの「We Best love 」
主演俳優二人が大層美形で、特にドラマ初主演という方の俳優さんが妙に気になり(こんなとき理由はほとんどの場合ない)、どこ出身でなんという名前の俳優か調べてみたら、お母さんが台湾、お父さんが日本のミックスで、高校までは名古屋に住んでいたそう。
それだけで親近感が湧き、早速、観始めたら、想像を超えるとんでもない秀作ドラマだった。
(ネタバレあり)小学校5年生の時に、親身になって自分のことを心配してくれた幼馴染のことが好きになり、10年間、その思いを抱き続けてきた大学生が、あることをきっかけに幼馴染と両思いになる。
しかし、その後、彼は母親の再婚相手の住むアメリカに(母親の付き添いと義父に対面する目的)二週間の予定で渡米。(ここまでがseason1)
そこから歯車が大きく狂い、音信不通になってしまう。
そして、奇しくも別離から5年、買収される会社の社長と、買収する側の会社の副社長と言う立場で再会するところから、物語は再び動き出す(season2)
5年間の空白期間には、理由があった。
渡米から2年目、ようやくアメリカから帰国した彼は、すぐに恋人(幼馴染)に会うつもりだった。
だが、いつしか恋人とはメールも電話も繋がらなくなっていて、ようやく繋がったと思った相手は恋人の父親だった。
一方、恋人(幼馴染)は半年後に仕事で渡米、再会を楽しみにしていた彼の目に飛び込んできたのは、アメリカ人の女性と赤ん坊と仲睦まじくしている彼の姿だった。
失意のうちに、彼に真相を確かめることもせず、台湾に帰国してしまう。
そして想いを断ち切るかのように仕事に没頭する。
二週間の予定でアメリカに渡った彼はというと、一緒に渡米した母親が空港で倒れ、妊娠していることが判明。
付き添い、母親の仕事を代わりにこなすなどして、台湾に戻れなくなり、二年後、やっと帰国する。
だが、なぜか恋人の父親と会うことになり、破局を告げられる。
しかし諦めきれない彼が食い下がると、父親から提示されたのは、5年間、恋人とは会わず(周囲にも漏らさない)、恋人に相応しい人物になることだった。(地位、財力、諸々)そして彼は条件を飲む。しかし、それは恋人の父親が企てた策略だった。
一方、アメリカで恋人が目撃したのは、彼の母親が再婚相手の間にできた赤ん坊で、アメリカ人女性は、再婚相手の娘だった。
恋人はその事実を、直接本人に確かめず、勘違いしたまま、傷心のなか帰国してしまう。
5年後、買収される側の会社の社長、買収する側の副社長として、再会した二人。
変わらぬ愛を胸に、5年後の再会を糧に仕事に励んできた彼と、裏切られたことに深く傷つき、仕事に邁進することで彼への想いを吹っ切ってきた恋人は、激しいバトルを繰り広げる。(恋人の方が一方的ではあるのだが)
5年も放っておいて悪かった、許して欲しい、怒っているだろうという主人公に、恋人は、怒っていない、恨んでいるのだと告げるシーンがある。
のちのシーンでも、この怒りと恨みという言葉の違いが語られるのだが、明らかに怒りよりも、恨みの方が根深いものがある。
怒りは表面的。だが恨みには、少なからず愛がある。
恨むことでしか、恋人は彼への想いを断ち切ることができなかったのだろう。
否、断ち切ろうとして、完全に断ち切れないからこそ、恨みが募るのだ。
ドラマのなかでは、それぞれの5年間に起こった出来事や経緯は詳細に描かれていなかったが、5年待たせるのと5年待つのとでは、天と地ほどの差がある。
待たせる側は5年という期限付きであることは、初めからわかっているので、必死に耐えながらも、残りの時間を数えながら希望を捨てずにいられるが、待つ側は、まったく何も知らされていない。理由があって期限がない、それだけでもつらいのに、理由も知らされないまま、しかも5年も待つことなどできるはずがない。
恨むという言葉の中には、裏切りと絶望そして諦めが渦巻いていて、無自覚な未練の中に、かすかな希望そして愛が込められているのを感じた。
相手を恨むことで、かろうじて立っていられた彼と、彼を思い続け、いつか愛を成就させることだけを拠り所として生きてきた彼。
ほどなく、双方の堰が切れる瞬間が訪れる。が、そこでハッピーエンドにはならない。
もう一つ待ち受けていたのが「信頼」というキーワード。
信じていた相手に、裏切られたという思いは、信じていればいるほど強くなるものだ。
相手の思いや行動を、自分なりに勝手に解釈するとき、間違いは起こりやすい。
自分が10年かけたものを、相手が一瞬にクリアしたからと言って、それを疑うことは理にかなっていない。
時間と信頼は、必ずしも比例しない。
時間をかけて付き合ったからといって、信頼できる相手とは限らないし、短いからと言って信頼できない相手とも限らない。
そこを見誤ったことを彼が謝罪し、恋人も父親が深く介在していたことを知って、二人の関係は一気に修復されていく流れに…
どんなに吹っ切ったと思い込もうとしても、それは頭の中だけのこと、心の奥底に、深い愛がひそやかに息づいていたことを認めた瞬間、一気に関係は修復され、より愛は深まる。
私自身、同性を異性のように好きと思ったことはないので、同性間の恋愛というものを知らない。
しかし、今回、このドラマをみて強く感じたのは、誰かを心から深く愛するとき、そこに性別は関係ないということだった。
誰かを好きになるとき、理由などないに等しい。(もちろん条件や理由のある人もいるだろうが)
気がついたら、その人を好きになっていて、その人の声や仕草や、感じ方や考え方、価値観まで、すべてをひっくるめて好きになっていた、なのではないだろうか。
それがたまたま異性であれば、男女間の恋愛に発展する可能性があり、同性であれば、同性間の恋愛に発展する可能性がある。
ただ、それだけのような気がする。
今まで私は、同性間の恋愛や結婚について肯定的な考えを持っていた。
なぜ同性同士の恋愛は理解されず、結婚に至っては論外という風潮が、まだこの国には根強くあることに憤りを感じていた。
しかし、今にして思えば、それはあくまで差別に対して否定的であったり、マイノリティの立場を肯定するという意図に基づく、実に表面的なもので、結局、私はまったくの他人事として、この問題を受け止め、そして理解しているつもりでいたことに気がついた。
今回、たまたまこのドラマを観たのだが、ひとを愛することで生まれる、喜びと多幸感、同時に湧き上がる、同性ゆえの、愛することを否定されることへの不安と恐れといったものや、5年という歳月がどれほどの苦悩の日々であったかを、私は頭ではなく、体感として、身体で感じながら観ることができた。
同時に心にどんな感覚や感情が湧き上がるかをも、体感として観ることができたことで、以前よりもう少し深いところを感じ取れたような気がしている。
世間や、周囲が抱く同性間の恋愛への差別と偏見、居た堪れないほどの深い愛、恨みと根底にある愛。
5年間に渡る、えぐられるような傷と痛みが、自分ごとのように感じられ、少しの間、息をするのもつらかった。
今も、余韻が残っている。
もし、このドラマを単にドラマとして観たなら、初めから自分には関係のない世界の話として、さらっと流していただろうし、一歩進んで他人事として観たとしても、これほど色々なことを感じることはなかっただろう。
人と人とが出会い、魂同士が呼び合い、響あい、惹かれあい、愛し合うことの尊さを、強く感じるドラマだった。